桜色に染まる
お久しぶりです。
レイが学生時代からモテていたことは重々知っている。
当時のレイは今より髪が短く態度はつっけんどんで、近寄りがたいのを通り越し触れれば切れるナイフみたいでもあった。が、それでもあのずば抜けて目を引く美貌だ。放課後になれば他校から人が押し寄せるほどにモテていた。
そんな彼をふと思い出したのは、琴が通う崇城高校の卒業式に出席したからだ。
「私が卒業するからって、油断しないことね。琴ちゃん。神立さんを狙っている人はごまんといるんだから」
卒業生が中庭で友や恩師との別れを惜しみ写真の撮影に興じる中、桐沢警視長婦人殺人事件で琴と関わりを持った結乃が言った。
彼女もまた、今日この学び舎から巣立っていく一人だ。件の事件ではひどく琴と関係がこじれたが、今はまたこうして話せる仲になっている。むしろ今日まで、何かとツンデレを発揮しながら世話を焼いてくれた結乃の門出を、琴は喜ばしいとともに寂しくも感じていた。
結乃と別れた琴は、中庭の藤棚で一服する人影を見つける。古びたベンチに腰掛け紫煙をくゆらせているのは、琴とレイの幼馴染である伽島朔夜だ。
保健医の白衣を春風にたなびかせる彼は、ひっそりと隠れるようにして煙草を吸っていた。が、伊達メガネをしていても女生徒たちは朔夜の美貌を見逃しはしない。時折卒業生が詰めかけては、朔夜とのツーショット写真をせがんでいた。
過激な女生徒に至っては朔夜の均整の取れた腕や腰に手を回す者もいたが、今日は特別に許しているのか、朔夜は気のない様子でレンズに捉えられていた。
「人気者だね、サクちゃん」
人波が落ち着いてから、琴は藤棚に寄る。朔夜は琴に気付くと煙草を携帯灰皿に押しつけた。
「主役は自分たちだろうに、こんなオッサンに寄ってくるなんてご苦労なことだ」
毎年のことで慣れっこなのか、朔夜は広い肩をすくめた。
横に並ぶと朔夜の背の高さがよく分かる。撫でつけた射干玉の髪も、鷹のような切れ長の目も、白衣の上からでも分かる胸板の厚さも、高校生では到底放つことのできない色気だ。記念に朔夜と写真を撮りたがる先輩たちの気持ちも分かると琴は思った。
「先生のサクちゃんからは第二ボタンが貰えないから、先輩たち写真が撮りたいんだよ」
「第二ボタン……? ああ、まだそんな風習があるんだな」
琴の通う高校の男子制服はブレザーだがボタンは付いている。先ほどから何人か第二ボタンをせがまれている者や、自虐交じりに配り歩いている卒業生がいるのを、琴は微笑ましく見ていた。
「心臓に一番近い位置にある第二ボタンかぁ……そういえば、サクちゃんが卒業式の時もすごかったんだってね。レイくんに聞いたよ。ブレザーどころかシャツのボタンまで殺到する女の子にむしり取られてたって」
「ああ……」
当時を思い出したのか、朔夜は遠い目をした。
「ボタンを奪われたんで、胸元を全開で電車に乗る羽目になったな……」
「ほ、ほえ……」
歩くフェロモンと言っても過言ではない朔夜がたくましい胸板を晒した状態で電車になんて乗れば、鼻血を噴き出す人が続出したのではないかと琴は心配になった。
「すごいなぁ……。じゃあ、私がレイくんの第二ボタンをゲットできたのは幸運だったのかな?」
「は……? 神立くんの時は、他県からも人が押し寄せたが……お前が神立くんの第二ボタンを手に入れたのか? あの人数の中で?」
信じられないものを見るような目で見下ろされ、琴は目をぱちくりとさせた。
「え……う、うん。大事に持ってるよ」
たしか机の引き出しの中に、小箱に入れてしまってあるはずだ。そう琴が言うと、朔夜はちょっと驚いた様子をしてから、面白そうに口の端を歪めた。
「なるほど、その時から神立くんの心臓は……か」
「え? 何? そんなに変?」
朔夜の白衣の裾を掴み、琴は不思議そうに首を傾げる。そんな琴の頭に手を置き、朔夜は「そうだな……」とレイの卒業式の様子を振り返った。
八年前。本人には嫌がられるだろうが後輩であるレイの門出を見送ろうとした朔夜は、卒業式に足を運んだ。
その年は桜の開花が早く、しめやかな雰囲気の中薄紅の花弁が舞い上がって、とても美しい情景だった。人の多さを除けば。
式の行われた体育館から出た朔夜は、混乱を避けるためサングラスをかける。そして校門から中庭へと続く道にびっしりと詰めかけた女性を見て目を見張った。まるでライブ会場にでも迷い込んだように見渡す限り人が詰めかけており、その中心に卒業証書を持って佇むレイがいたからだ。
高身長の朔夜だからすぐにレイの居場所が分かったが、平均身長の人たちは何が起こっているのか分からないのではないか。引力のように人を引き寄せたレイは、短いペールブロンドの髪を風に靡かせ不機嫌な顔をしていた。
今のような温厚さや丸さはまるでない。尖ったナイフのように荒々しく冷たげな横顔は、よくできた彫像のようだ。春風に靡く柔らかい金糸の髪と、長い睫毛に縁どられたアクアマリンの双眼だけが、レイが精巧な人形ではなく浮世離れした美しい人間だと伝えている。
片時も目をそらしたくないと思わせるほどに整った顔のレイは、今と比べてやや線が細く、中性的な美少女のようにも見える。ただすらりと伸びた長い手足や広い肩幅が、レイが男だと如実に伝えていた。
しかし――――なんせ当時のレイは、今の人当たりの良い彼とはまるで別人だ。父親に対する不信感から他人と壁を作り、他者とのなれ合いを嫌っていた。特定の人物と以外は。
なのでその日も群がってくる女子に対し煙たそうな態度を隠しもしなかったが、着々とレイのボタンは減っていった。
「神立先輩! お写真いいですか?」
「記念に握手してください……!」
「あ、あの、あの……! ずっと憧れてました! 付き合ってもらえませんか?」
「せめてボタンだけでも……」
まるで芸能人だな、と朔夜は思った。朔夜の卒業式の時もそれはもう大名行列のように女が押し寄せたが、レイの場合、女性陣の熱量がまるで違う。女たちの荒い息が聞こえてきそうな空気の中、レイはニコリともせず事務的に対応していた。
「ちょっと、神立くんの第二ボタンは全員諦めるって密約だったじゃない! 抜け駆けした奴がいるの?」
三年のリボンを付けた気の強そうな女子が、レイのブレザーから消えていた第二ボタンを見て悲鳴を上げた。本人の知らぬところでいつの間にそんな密約が結ばれたのだと朔夜が呆れかえっていた時、ふとレイが顔を上げた。
(……珍しいな)
レイが何かに興味を示すなんて。
朔夜がそう思っていると、レイが静かに口を開いた。
「どいて」と。
花弁にさらわれてしまいそうなほど静かな声だった。
しかし、周囲にいた女たちにとってはレイの声には有無を言わせぬ力があるのだろう。まるで訓練された軍人のような動きで、レイを囲む人垣がパッと割れた。
何だ? と訝しげに朔夜はサングラスを押し上げた。レイの視線の先には校門があり、人がひしめいている。一体そこに何があるのかと疑問に思っていた朔夜は、ある人物を見つけて得心がいった。
(ああ……)
頼りない足取りの少女が一人で歩いてくる。肩から掛けたバッグの紐を握り、キョロキョロと周りを見回しながら。
十にも満たない少女は、中庭へと続く桜並木や大きな校舎を物珍しそうに眺めつつ、場違いな所へ足を踏み入れた不安からか時折眉を下げている。
亜麻色の綿毛みたいな前髪が風にさらわれて、まろい額に桜がはりついていた。零れ落ちないか心配になりそうなほど大きな黒曜石の瞳は、まだレイに気付いていない。
「……琴」
意志の強さを感じさせるレイの声は、どこか柔らかい。まるで特別な名を呼ぶように大切に口に出された名前は、向かってくる少女のものだった。
「……レイくん!」
呼ばれた琴が、嬉しそうに顔を綻ばせる。周囲のざわめきに気づかない琴が、小さな足でレイの元へと駆け寄った。
「卒業おめでとー!」
「お前、学校は?」
「短縮授業だったの! 間に合ってよかったぁ」
素直にありがとうと言わないところが、ひねくれていたレイらしい。当の琴はレイのつっけんどんな態度も気にならない様子で、レイの胸に飛び込んだ。
周囲に悲鳴が巻き起こる。それもそうだろう。鉄面皮のレイが、氷の王子と陰で噂されていたレイが、わずかに両手を広げて琴を受け止めたのだから。
身長差のある琴を抱きとめ、レイは走って荒くなった琴の背を大きな手で撫でる。慈しむような仕草に、周りから黄色い声が上がった。
あの神立レイが! みんなのアイドルの神立レイが! 子供に優しい眼差しを向けている!
それだけで周りの女性たち――――はては、レイを密かに崇拝する男性陣たちまで、魅入られたように琴とレイを見ていた。
一体あの小学生女児は何者かと噂するものまでいる。それくらい、レイにとって琴が特別な存在であることが周囲に伝わった。
「一人で来たのか? 危ないだろ」
「だってパパとママは今日も夜中まで仕事だし……」
口ごもり視線が下を向いていく琴の頭を撫で、レイが言った。
「そうだったな。でも伽島でも呼べば……」
「サクちゃんと一緒に来たら目立っちゃうもん。そしたらレイくんをビックリさせられないでしょ?」
自分の名が出たことに目をむき、朔夜は人除けのサングラスをかけ直す。人目につきにくい場所から二人を見つめていると、琴は「ハイ」と手に握っていたものをレイに照れ臭そうに渡した。
「これは……」
レイがブルートパーズの瞳を瞬く。琴の手には、ピンク色のチューリップが一輪、リボンをかけられた状態で握られていた。
「プレゼントだよ。レイくん、高校卒業おめでとう」
「……ありがとな」
「えへへ」
少ない小遣いを握りしめて花屋へ買いに走ったのだろう。
はにかんだ琴が、照れ隠しにレイの首へ腕を回して抱きつく。それを抱きしめ返すレイの表情がとても穏やかで、見守っていたギャラリーは頬を染めていた。まるで数百年氷に閉ざされた世界にいた王子が、春の息吹で凍った心を溶かされたような様子だな、と朔夜は思った。
「あの神立レイを夢中にさせるとはな……」
そして特別扱いされていることに、琴本人だけが気づいていない。レイと琴のやり取りを見ていた朔夜は、面白そうに口の端を歪め、煙草をくわえた。
人間味を取り戻した氷の王子に背を押されたのだろう。ギャラリーの女が唾を飲みこみ、意を決した表情で一歩前に踏み出した。
「か、神立くん。この後、打ち上げにいかない? クラスの皆でさ、カラオケとビュッフェに行こうって話してるんだけど……」
しきりに髪を触りながら緊張した面持ちで言った彼女の後ろで、クラスメート全員が大きく頷く。皆少しでもレイと距離を縮めたいと必死なのだろう。
「行こうぜ、神立くん!」
「神立くんが来たら皆喜ぶよ!」
目を輝かせるクラスメートに、レイはちょっと驚いたような顔をする。が、すぐにいつもの取り澄ましたような顔に戻った。
「悪いけど、先約があるから遠慮しておく」
「そ、そっか! ごめんね!」
まるで多大な迷惑をかけてしまったと言わんばかりにすごすごと引っ込むクラスメート達とレイを交互に見、琴がレイのブレザーの裾を引っ張った。
「いいの?」と。
「ああ。だって」
ふと琴の腰に手を回したレイが、琴を抱きあげた。
「わ……っ!?」
「先約があるからな」
お前と。
と琴を指して、レイが柔らかく笑う。大方琴の家で卒業祝いの食事の約束をしていたのだろう。琴が喜色満面に頷くのが、朔夜には遠くからでもよく見えた。
そのあとの琴とレイのやり取りを、朔夜は知らない。ただ、見るものすべてを虜にさせる魅力を持つレイにとっての特別が、平々凡々を絵に描いたような琴という少女なのだということは、重々分かった。
朔夜がレイの卒業式の思い出を語ると、琴は懐かしそうに目を細めた。
「あったねぇ、そんなことも」
「あの時にはすでに、神立くんの第二ボタンはなかった気がしたんだがな」
朔夜が言うと、琴は間の抜けた顔をした。
「ほえ……でも私、レイくんから第二ボタンを帰り道に貰ったんだけどな……」
「ああ、やっぱりな。つまり、やはりあの時から神立くんの心はお前のものだったってことだ」
訳知り顔で言った朔夜に、琴は疑問符を浮かべるしかなかった。
「何してるの? 琴」
レイがもうすぐ帰宅すると連絡を受けていた琴は、夕飯の準備が整ったダイニングのテーブルで腕枕をして寛いでいた。が、リビングの扉が開くなり響いたレイの声に、パッと上体を起き上がらせる。
「わっ。レイくん! おかえり!」
「ただいま琴。珍しいね。琴が僕の帰宅に気付かないなんて」
「ごめん……」
「ああ、怒ってないよ。それは?」
琴が手に持っていた物に視線を落としたレイは、懐かしそうに目を細めた。
「……第二ボタン?」
「うん。レイくんがくれたやつ」
校章が刻まれた丸いボタンを手で弄び、琴が答える。
「今日ね、結乃さんの卒業式で」
結乃、という名に、レイの眉間が一瞬険しくなる。
尊敬する刑事部長の息女であり、かつての護衛対象とはいえ――――レイの中で結乃は、琴を爆発するホテルのエレベーターから突き飛ばしたイメージが拭えないのだろう。いまだに彼女を許していないレイは、苦い顔をした。
それを察した琴は、慌てて続きを紡ぐ。
「それでね、サクちゃんとレイくんの卒業式の話になって……レイくんが第二ボタンをくれたことを思い出したの」
「ああ……。まだ大事に持ってくれてたんだね」
隣に腰掛けたレイが、琴の手のひらに収まった傷一つないボタンを見て呟く。琴は食い気味に言った。
「もちろんだよ! レイくんがくれたものだもん! ……でもね、サクちゃんが言ってたんだ。卒業式が終わった時に、レイくんはもうすでに第二ボタンを付けてなかったって」
「そうだね」
「でも、私は卒業式の帰り道にレイくんにこのボタンを貰った」
「うん」
「そう言ったら、サクちゃんってば、訳知り顔で言ったの。『あの時から神立くんの心臓はお前のものだ』って……どういうこと?」
訳が分からず首を捻る琴に、レイは朔夜の顔を思い浮かべてるのか「あいつ……」と唸りながら渋面を作った。
「ねえ、レイくん。どういうこと?」
なおも不思議そうに問いかける琴に、レイはコツンと額を突き合せた。
「……そういうことだよ」
「ほえ……?」
「僕が琴にボタンをあげたくて、誰かに取られる前に最初から自分で第二ボタンをちぎって除けておいたんだ」
「え……どうして……」
「分からない?」
至近距離で悪戯っぽく微笑まれて、琴の心臓が跳ねる。早くなる鼓動と熱の溜まる頬を自覚する琴の耳に唇を寄せ、レイが囁いた。
「僕の心は、琴のものだから。心臓に近い第二ボタンは、琴に持っていてほしかったんだ」
「……っ!」
やっと意味を理解し、琴は全身が熱くなるのを感じた。手のひらに収まった第二ボタンが、急に熱を帯びたように感じられてくる。
「分かってくれた?」
目の前で小首を傾げる絵画のように美しいレイを、真正面から見ることができない。八年前から変わらぬまろい額まで桜色に染まった琴を見下ろし、レイが微笑む気配がした。
「初心で可愛いな、僕の恋人は」
「……からかわないでよ……」
嬉しさと気恥ずかしさで口ごもる琴の額に、レイの唇が落ちる。まるであやすような口付けにほだされて琴が顔を上げると、今度は唇に甘い口付けが降ってきた。
なかなか執筆時間が取れない日々が続き、リハビリがてら書いた作品です。ここまで読んでくださってありがとうございます^^