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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
番外編
173/176

子猫とガラスとお月さま③

 極力音を立てずに玄関の扉を開けると、二つの大きな目玉が下からレイを見上げていた。


「みゃううううん」


「唸らないでくれないか。琴が起きてしまうだろう?」


 フローリングに爪を立てフシャーッと威嚇してくるリュヌに、随分と嫌われたものだな、とレイは苦い思いを噛み殺した。


「お前も、分かるんだろうな……僕が……」


 続きを紡ぐ前に、廊下の奥のドアが開き、カーディガンをひっかけた寝間着姿の琴が姿を現した。大きなたれ目を擦りながらやってきた琴を一瞥し、それからレイは深夜を指す腕時計を見下ろした。


「おかえりなさい……。レイくん……」


「ただいま、琴。遅くなるから寝てていいって言ったのに……待っていてくれたの?」


「うん」


 屈託なく頷く琴の姿に、ぐっとレイの胸が詰まる。レイの気持ちを知りもしない琴は、眠たげな顔で笑った。


「疲れて帰ってきた時に、誰かが待っててくれると嬉しいかなって思って」


「…………」


「レイくん?」


「僕は」


 琴が出迎えてくれた瞬間、嬉しいと思った。胸の内から温かい泉がわきだしてくるような心地がした。しかし、自分がその考えを思いつくだろうかとレイは思った。


「僕は割とそういうのが、分からないんだ……」


「へ?」


 不思議そうに髪を揺らす琴に手を伸ばし、レイは柔らかな髪を梳いた。


「一人でいるのが当たり前で、一人だと思って育ってきたから。家族に憧れはあるけど、自分よりか弱い存在に対して、どう接していいのか分からない時がある」


 我ながら随分滅入っているな、とレイは自嘲を刻んだ。十近くも年の離れた恋人に、こんな弱音を吐くなど――――先ほどの子供の件を自分は存外引きずっているらしい。


「だからもし、いつか琴と結婚して……家族が増えたとしても、その時……どう慈しんだらいいのか、分からない……」


 家族や温もりに憧れがある。でも、ずっと自分には手の届かないものだと諦めて生きてきた。温もりも、家族も、手に入らないから薄いガラス越しに眺めているだけで満足しようと努めてきた。だから、いざガラスの向こう側のものに接しようとすると、当たり障りのない言葉を選び、触れることに躊躇する。


 果たしてこれは自分が触れて傷つかないだろうかと不安になるし、どう接したらいいのかさえ分からない。


 そしてそういった感情は、駆け引きを知らず物事の本質を見抜く子供や動物には本能的に伝わるのだろう。だから警戒されてしまうのだ。無償の愛ではないから。


「大切にしたいと思う。でも、そのためにどうしたらいいのかが分からない」


 十近く年の離れた恋人に言うべき言葉ではないに違いない。悪戯に不安にさせてどうする。言葉を口にした後、すぐその考えが巡り後悔したが、覆水盆にかえらずとはこのことだった。


 果たして琴はどんな態度を見せるだろうか。愛で方が分からないと言いながら、彼女に拒絶されることを何より恐れ、もし手を振り払われた場合どんな手段でつなぎ止めようかと計算している己のずるさにレイは反吐が出ると思った。


 たとえずるくとも、卑怯と罵られても、琴を手放すという選択肢はもうないのだ。しかしレイの暗い想像とは相反し、琴は嬉しそうに微笑んでいた。


「琴?」


「ああ、ごめんね。えっと、レイくんが弱音吐いてくれるのが嬉しくて……」


 気を引き締めないと頬が緩んでしまうのか、琴は眉根を寄せて言った。


「でもね、大丈夫だよレイくん。レイくんが、そうやって心配してくれてる限りはきっと大丈夫」


 琴は力強い声で言った。怪訝そうな顔をしたレイに、琴は言葉を選びながら付け足す。


「だってね、慈しみ方が分からないって悩んでるレイくんは、とっても優しいから。だから大丈夫だって思えるの。初めから根拠もないのに自信満々な人より、どうしたら傷つけないか、どうしたら愛せるかって考え抜いてくれる人の方が安心するよ」


「琴……」


「なんて言って、わ、私も未来のことに自信はないんだけどね。でも二人だから大丈夫じゃないかなって。レイくんと二人なら、何だって乗り越えていけるかなって思えるの」


「二人、なら?」


 レイは目をむいた。元気よく頷く琴を見て、目からうろこが落ちたような心地がした。そうか、一人ではないのだ。すべてを自分一人で成し得てきたレイにとってそれは、とても不思議で、また力強い言葉だった。


 自分一人では届かないと、辿りつけないと思っていた場所にも、琴と二人なら辿りつけるのだと気付かされた。


「でも、そっかあ……」


 ややあってから、琴は細い顎に手を当て、うんうんと頷いた。


「琴?」


「リュヌがレイくんに懐かない訳がやっと分かったよ」


「ああ、僕は動物には嫌われ」


「そうじゃなくて!」


 穏やかな琴が、らしくもなく大きな声を上げた。レイが目を丸めると、琴は決まりが悪そうにリュヌを抱き上げた。


「レイくんが、リュヌを傷つけないようにって怖がってるから、リュヌにもそれが伝わってるんだね」


「僕は……」


「やっぱり優しいね、レイくん。レイくんは……」


 腕の中で喉を鳴らすリュヌの顎を撫でてやりながら、琴は眉を下げた。


「たまに悲しいくらい、優しいなぁ……」


「僕は優しくないよ。琴」


「優しいよ。傷つけたくないから、距離感をはかりかねてる。でもね、怖がらなくても大丈夫だよ」


 戸惑いを見せるレイへ、琴はリュヌをずい、と突き出した。


「リュヌは交通事故に遭ったって生き残った強い子だもん。だから、簡単に傷ついたりしないから、怖がらずに接してあげて」


「……!」


 琴の柔らかい笑顔に、トンと背中を押された気がした。唸るリュヌへとレイは視線を落とす。迷うように琴を見れば、琴はニッコリと促してきた。


「大丈夫だよ。リュヌだって、命の恩人のレイくんが好きなんだから」


 琴の、この自信は何だろう。メレンゲのようにフワフワと頼りない彼女は時折、レイが驚くほど自信に満ちて力強い時がある。そして、レイはいつもその優しさに救われるのだ。


 鼻の頭に皺を寄せるリュヌへ、そっと手を伸ばす。指の腹に触れた柔い感触に、壊してしまいそうだと思った。守るべき対象だ。弱いものを守りたいと思って警察官になった。でも、慈しみ方が分からなかった。自分は愛情の欠けた人間だとずっと諦めてきた。


 しかし琴と結ばれてから、ガラスの向こう側に行きたいと願ってしまった。家族を持ち、慈しみたいと。そして今、琴が二人でならガラスの向こう側にも辿りつけると教えてくれた。


「はは……。小さくて、可愛いな、お前……」


 リュヌの狭い額を、ゆっくりと撫でてやる。すると、小さな耳が後ろへ反った。唸りを上げていた喉が、気持ち良さそうにレイの眼前へ晒される。琴が小さく笑った。


「リュヌったら、もっと撫でてほしいみたい」


「みゃーう」


 今まで聞いたことのない甘えた声を上げて、リュヌがレイの大きな手へ鼻先を寄せた。弱弱しく頼りない毬のような子猫は、うっとりと目を細め、喉を鳴らした。


「ああ、そうか……」


 何を恐れていたのだろう、とレイはふと胸が軽くなるのを感じた。手に入らないと勝手に諦めていたものは、手を伸ばせば届いたのだ。手を伸ばしさえすれば。


 そしてそれを教えてくれたのは……。


「はい、レイくん。抱っこしてあげて……わっ!?」


 子猫の脇に手を入れて差しだしてくる琴の腰を引き寄せる。泡を食ったような琴の唇にレイが唇を重ねると、琴とリュヌから声が上がった。






 それから二日後、唐突にリュヌの飼い主が見つかった。


「まさかリュヌの飼い主が、レイくんが担当した事件の関係者だったなんて……」


 リュヌの入った持ち歩き用のケージを膝に乗せた琴は、未だに信じられないと言った様子で言った。


 場所は警視庁のエントランスだ。椅子にかけていた琴は、仕事の合間を縫って現れたレイを見つけるなり立ち上がった。


 実は橋の上で人質にとられた子供の母親に事情聴取をしたところ、事件当時、母親は橋の上へ子供と一緒に逃げた子猫を探しに来ていたというのだ。


 レイがもしやと思い、その逃げた猫の特徴と、居なくなった日時、それから種類を尋ねれば見事にリュヌと一致した。


 レイは自宅にリュヌを保護していることを伝え、今日、再び取り調べのあと警視庁のエントランスで引き渡すことになっていた。


「お待たせ、琴」


 レイの後ろには母親と、その母親のスカートに隠れるようにして小さな男の子が立っていた。


 人質に取られ刃物を突きつけられた彼の経過をレイは心配していたが、大人が思うよりも子供は逞しいらしく、ケージの中で欠伸をしているリュヌを見つけた瞬間、男の子はパッと目を輝かせた。


「まんげつ!」


「ほえ、この子、まんげつっていうの?」


 男の子と同じ目線にしゃがんでやりながら琴が言う。男の子は力いっぱい頷いた。


「そうだよ、お顔が真ん丸だから!」


「そっかぁ」


 どうやら当たらずも遠からずだった『リュヌ』という名前に、琴は満足げに頷いた。


「おねーちゃんがまんげつを助けてくれたの?」


「うん? まんげつを助けてくれたのはねぇ……」


 瞳を爛々と輝かせる男の子に優しく答えていた琴は、レイを見上げた。つられて、男の子も琴の視線の先を見る。


 レイはアイスブルーの瞳をきょとんと瞬いた。


「そこの刑事さんだよ」


 悪戯っぽい声で琴が言う。


 確かに動物病院まで運び治療費を支払ったのはレイだが、毎日薬をやり、甲斐甲斐しく世話を焼いていたのは琴だ。否定しようと一歩前に出たレイへ、無垢な瞳が「本当?」と訴えた。


 男の子が、無邪気な瞳でレイに真偽を確かめてくる。


「ホント? おにーちゃんが、まんげつのこと助けてくれたの?」


「いや、僕は」


「そうだよ。皆が諦める中、レイくんだけが事故に遭ったまんげつを、動物病院まで連れていってくれたの。ねっ」


 同意を求める琴へ、レイは珍しく困った表情を浮かべた。しかし次の瞬間、腰回りにドンッと強い衝撃を感じレイは目をむいた。たたらを踏むことはなかったが、大きな衝撃に何事かと思えば、男の子がレイに抱きついていた。レイに触れられることを恐れていたあの男の子がだ。


「……え……」


「おにーちゃんすごいね! やっぱりヒーローだ!」


 喜色満面で叫ぶ男の子に、レイは呆然とする。すると、様子を見守っていた母親が口を挟んだ。


「この子、刑事さんに橋の上で助けてもらってから、家でずっと刑事さんの話をしてるんですよ。僕のヒーローだって」


「ぼくのこと助けてくれて、まんげつのことも助けてくれた! おにーちゃんはヒーローだ!」


 ふくふくした頬を紅潮させた男の子は、興奮気味に言った。母親は高揚した息子の頭を撫でながら言う。


「この子、ずっと刑事さんにお礼が言いたいって言ってたんです。でも、ヒーローに話しかける勇気が出ないって、ずっと私の後ろに隠れてたんですけど……ねえ、今なら言えるわよね?」


 母親に促された男の子が、ぐっとレイのスーツを握りしめる。それから意を決したように顔を上げた。


「うん。ありがとう刑事さん! 助けてくれて嬉しかった!」


「……どういたしまして……」


 戸惑うレイに気付かず、男の子はさらに力いっぱい抱きついた。守ったものの温かさが伝わり、レイは奥歯を噛みしめる。


「私からももう一度お礼を言わせてください。本当にありがとうございました。息子のことも、猫のことも」


「……いえ、僕は、当然のことをしたまでなので……。むしろ……」


「すごいね、流石だね、レイくん」


 レイに寄り添い、琴が微笑みかけてくる。優しげな目元を細めて笑う琴を見て、レイは胸に湧く感情に名前が付けられないと思った。


「すごいのは琴だよ。君は……どこまで僕に与えてくれるんだろうね」


 届かないと勝手に諦めていたものを、琴はいつだって差しだしてくれる。レイの肩ほどしか身長がない小柄な彼女は、レイが驚くほど寛容な心ですべてを与えてくれる。そしてまた一つ、レイの蒼い海を映したような瞳には、新しい希望が映るのだ。


「私がレイくんに何か与えられているなら、それはレイくんのお陰だよ」


 そう言って、琴は控えめに笑った。


 笑う度に揺れる華奢な肩も、腰元で跳ねるふわふわとした亜麻色の髪も、伏せられたまつ毛も、鈴のような声も、そして心根も、すべてを愛おしいとレイは思う。手折らないよう大切にしたいと。笑顔が曇らないように言葉を尽くして、頼りない背中を撫でて、小鳥のようにさえずる声に沢山耳を傾けたい。


(――――ああ、何だ)


 簡単なことじゃないか。


 愛情が欠けた人間だと諦め、あれこれ怖がって考えなくても自然と、相手のためにしてあげたいことは湧いてくる。


 琴と一緒なら。


「あ、レイくん笑ってくれた」


 琴が弾んだ声で言った。


「ん? 僕最近笑ってなかった?」


「笑ってくれてたけど、ちょっと違ったの。今の笑顔のが好きだよ」


 宝物を見つけたように囁いた琴に同意したのか、ケージに入った子猫が「みゃうん」


 と鳴く。毬のように小さな子猫は、レイと琴に少しの変化を与えて去っていった。



またネタが浮かび次第のんびり更新していきたいと思っていますが、ストックがないので一旦完結として閉じようと思います。ここまでお付き合いくださった方々、ありがとうございます(*´꒳`*)

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