子猫とガラスとお月さま①
その日、霞が関に荘厳と佇む警視庁に激震が走った。
日本警察の至宝。完全無欠のヒーロー。
以前ネットに解像度の低い動画が上げられた時、そういった呼び名を頂いた男が警視庁刑事部捜査一課には存在する。圧倒的機動力で瞬きする間に犯人を制圧するその姿からついたあだ名だが、実際に彼と接した者は、まずその美貌に腰を抜かすものだ。
くっきりとした二重瞼の桃花眼は青い宝石をはめ込んだようであり、長いまつ毛に縁どられた瞳は笑った時は柔らかく、伏せられた時は冷酷なほど妖艶にも見える。
すっきりと筋の通った鼻筋と薄い唇、そして細い顎のラインは彫刻のように整っていて、浮世離れした印象さえ相手に抱かせる。彼は老若男女を魅了する中性的な容姿をしていたが、きっちりとネクタイの絞められたシャツ越しに、細身だがしっかりとついた筋肉が感じとれた。
そんな彼が――月を溶かしたようなペールブロンドの一筋まで美しいと称される彼――――神立レイが、頬や手の甲にひっかき傷を作って登庁してきたのだから、庁舎内はどよめいた。
別段、レイが怪我をした状態で登庁するのは珍しいことではない。むしろ、神に愛されたような容貌を積極的に酷使し生傷を作って婦警に悲鳴を上げさせているのがレイという男だ。
だが、今回のざわめきは様子が違った。後輩にひっかき傷を指摘されたレイは、柔らかい印象の目尻を下げ、苦笑まじりに言ったのだ。
「子猫に引っかかれたんだ」と。
猫。猫? あの神立レイが? 神に愛された男が? 猫に引っ掻かれる!?
レイが猫を飼っているなどと聞いたことがない捜査一課のメンバーは、子猫とは恋人に対する比喩で、レイを引っ掻くほど肝の据わった女がいるのではないかと勘繰った。そしてその妄想は、油の撒かれた場所にマッチを投げ入れたかのごとく一瞬で警視庁内に燃え広がり、大きな混乱を巻き起こした。
「お薬の時間だよ、リュヌ」
警視庁に勤める警察官たちの動揺など知りもしない明るい声が、十畳のリビングに響き渡る。身支度を済ませ、黒い革張りのソファで朝刊に目を通していたレイは、キッチンから姿を現した琴に困ったように眉を下げて言った。
「もう名前をつけてしまったの? つけると手放すのが惜しくなるよって言ったのに」
「だって、名前がないと呼ぶ時に困っちゃって。それにね、呼んだらちゃんと反応してくれるの。賢い子だよ。ね、リュヌ」
屈んだ琴の足元に、フローリングで滑りそうになりながら駆け寄ってきたのは毬のような子猫だ。みゃあ、と甘えた声を上げて琴の足に鼻を擦りつける仕草は愛くるしいとしか言いようがない。
まだ一キロあまりしかない、灰色のマンチカンを抱き上げた琴もそう思ったのだろう。元々たれ目な目元を綻ばせ、細い指で狭い額を撫でてやっていた。
レイの頭にふと、小動物同士がじゃれ合っている光景が浮かぶ。小柄でフワフワした栗毛の髪とキメの細かい色白の肌が目立つ琴の見目が、小動物を彷彿とさせるから余計にだ。
レイの思考など知る由もない琴は、春休みに入ったため制服ではなく、ドット柄のシャツにトレンチスカートをはいていた。
毛糸玉のようにコロコロした子猫のリュヌを、琴は大切そうに抱き上げる。その瞳がまるでわが子を愛する母親のように慈愛に満ちて見えたのは、カーテンの隙間から差し込む朝日が琴の横顔を照らしているせいだろうか。
「……もう出るよ」
あまりにも眩しく感じ、レイは朝刊を折り畳んでガラステーブルに置くと、ソファの背にかけていたグレーの背広を羽織った。リュヌとじゃれていた琴は、パッと顔を上げた。
「え、もう?」
「うん。琴はその子に薬をあげて」
通り過ぎさま、琴の猫毛を撫でてから廊下に繋がるドアを開ける。琴はリュヌを胸に抱いたまま、少し残念そうな顔をした。
「待って、玄関まで見送る。リュヌもレイくん見送りたいと思うし、ね」
そう言って、琴はレイの顔の高さまでリュヌを持ちあげた。すると、それまで琴の腕の中でゴロゴロと機嫌よく喉を鳴らしていたリュヌがむずかるように身をよじらせた。
「う、みゃ、みゃあっ」
「わ、リュヌ!? ちょっと……!」
レイと目が合った瞬間、リュヌは愛くるしい見た目に反して毛を逆立てると、身を乗り出してレイを足蹴にした。そしてそのままレイの腕を引っ掻き、琴の手から逃れてリビングへと逃げていってしまう。
「リュヌ! れ、レイくん、大丈夫!?」
「スーツの上からだから、今日は平気だよ」
レイの袖口に手を伸ばした琴へ、レイは手を振って微笑む。今日は、と口にした通り、リュヌがレイの家にやってきてからというもの、レイの手にはリュヌによる生傷が絶えなかった。
レイが平気だと口にしても、琴はそうは思わなかったのだろう。精巧な腕時計を巻いた腕を丹念に調べてから、小さく息を漏らした。
「リュヌ、レイくんに慣れないねぇ……」
「僕は猫に嫌われているみたいだからね」
「そんなこと……!」
肩を竦めて言ったレイに、琴が衝動的に否定した。が、自信がなかったのか、視線がつま先へと下がる。
「レイくんはリュヌの命の恩人なのに」
「恩人は僕じゃなく琴だよ。さ、心配しないで薬をあげておいで」
「でも」
琴はレイが出勤する際、必ず玄関まで見送る。共働きの両親によって育てられてきた琴にとって、それはとても特別な意味を持つのだろう。レイも琴が見送ってくれることは嬉しいし、一日の活力になる。が、困った顔はさせたくなかった。
琴の気を紛らわすように、レイは口を開いた。
「リュヌっていい名前だね。フランス語で月、か」
「え、あ、うん。リュヌを拾ったのが、月の綺麗な夜だったから。それに、リュヌってお顔がまんまるで、満月みたいでしょう?」
両手で丸を作って説明する琴。そう、リュヌは十日ほど前に拾ったのだ。琴が。
十日前に非番だったレイが、友人の紗奈と遠出した琴を駅まで迎えに行った時。駅前はちょっとした人だかりができていた。
まさか事件か。車を急いでロータリーに止め、人垣に割って入ったレイはぎょっとした。その中心には琴がいたのだ。血まみれになった子猫を抱えて。
『琴!!』
『れ、レ、く……』
零れ落ちそうな瞳を揺らし、琴が喘ぎ喘ぎ言う。薔薇色の唇は蒼白になり、春の夜だというのに身体が震えていた。
『ど、しよ……。この子、自転車に轢かれたみたい、で……』
『――――脈はある?』
着ていたジャケットを脱ぎながら、レイは状況を察し冷静に言った。
『い、生きてる、あったかいの、でも……』
でも、の先を自ら口にするのがおぞましいのだろう。琴の手の震えが大きくなった。周囲の声が大きくなる。
『血まみれじゃん。死んでんの?』
『うわ、きったね』
『何だ人でも倒れてると思ったら猫かよ。死んだ猫とかやなもん見たー』
『まだ生きてるんじゃない? でももう無理だよね』
心ない周囲の声に、琴の肩がギクリと揺れる。レイは琴の手から猫を受け取り、ジャケットで包んだ。
『ここにある命に目を向けられないなら邪魔だ。どいてくれ』
静かな怒気を潜ませてレイが言う。決して大きな声ではなかったが、凍えるようなアイスブルーの気迫にやられたのだろう。人垣が後ずさった。
『レイく……』
『病院へ連れて行こう。大丈夫だ、間に合うよ。立てる? 琴』
『う、うん、うん! まだやってる病院、探す……!』
泣きそうになるのを堪え、琴はスマホで動物病院を探す。彼女のカーディガンにべったりとついた血を、ロータリーに次々と止まる車のライトが照らした。
琴と猫がいた場所は、駐輪場への入り口近くだ。おそらく自転車にひかれた子猫を皆が避けて歩く中、琴だけが駆け寄って助けたのだろう。一目見ただけでは生きているのか分からない血まみれの猫を躊躇なく助けられる人間が一体いくらいるのだろうか。
レイは動物病院へ車を走らせながら、膝の上に抱いた猫を労わるように撫でる琴を見て思った。
猫は思ったほど重傷ではなかったようだ。駐輪場に入ろうとした自転車に轢かれたので、自転車が減速していたのが不幸中の幸いだったのかもしれない。頭を打っていたようだが、みるみる回復し、五日前に退院してレイの家にやってきた。
人気の種であるし、毛並みも良かったことから飼い猫だと判断したレイと琴は、飼い主が見つかるまで一旦面倒を見ることにした。
子猫が無事だったことに琴は飛び上がるほど喜び、それ以来甲斐甲斐しく世話を焼いていた。リュヌも自分を助けてくれた相手が分かるのだろう。家に来てからというもの、琴にベッタリだった。
ただし――――……レイには不思議なほど懐かなかった。