再びを待つ花のごとく凛と③
折川編の最終話になります。
バーの照明は薄暗いはずなのになぜか茉莉花が眩しく見えて、折川は視線をそらしグラスのふちを指で弄んだ。
自分は振る、のだろうか。こんなにも長い間自分を思い続けてくれていた相手を。
明確な別れを告げず連絡を絶ったのだって、振る勇気がなかったからだ。直接会って別れを告げる覚悟がなかった。きっと会えば恋しく思って、手放せないと分かっていたから。
しかし、かといって引き寄せることもできないのだ。この身は。
(神立刑事と宮前琴のようにはいかない。俺の仕事は、誰かを傍には置けない……)
果たして本当にそうだろうかと、胸の中で波紋のように声が広がった。
レイと琴だって、平坦で平穏な日々を過ごしてきたわけではない。危険を顧みないレイを引きとめるため、爆発するホテルで置き去りの道を選んだ琴を、折川は思い出す。向こう見ずな琴を蒼羽の手から救い出すため、その身に凶弾を受けても琴を守り抜いたレイの姿が瞼の裏に浮かぶ。
あの二人だってひどい困難に晒され、絆を断ち切られそうになっていた。何度も。それでもお互いがお互いを離すまいと努力し続けたからこそ、あの無慈悲な神立次長が交際を認めるほどの関係になったのだ。
(俺は、茉莉花の傍にはいられない……彼女の幸せを思うならここで別れを口にした方がいい。もう二度と会わない方がいい。でも……だが……!)
奥歯を噛みしめ、折川はついと前を向いた。偽りを許さない茉莉花の双眼が、審判を下すように折川を見つめ返していた。
「仕事が、あって」
「ええ」
「遠くにいかなきゃならない」
「うん」
「何年かかるか分からなくて、戻ってこられるかも分からない仕事だ。連絡も、おそらく取れない」
「そう」
「だからお前を振らないと」
「そうね」
「……振らないと、いけない……本当は……。でも……」
視線が下がりそうになる。吸いこまれそうな茉莉花の瞳の強さに、屈しそうになる。諦める方が容易い道だったと、今になって思い知らされた。
これはツケだ。十年前、彼女のことを思う振りをしながら楽な道を選択した自分のツケが、今になって回ってきたのだ。
「待っていてほしい……。例え、あと十年、二十年かかろうと……」
祈りにも似た思いだった。
これから潜入捜査で、また別の名を名乗ることになる。今まで彩られていた折川蓮二という自己をホワイトで消し去り、まったくの別人になりきらねばならない。
それでもどうか、自分の帰る場所であってほしい。茉莉花に。折川蓮二の帰る場所になってほしい。
「俺ではお前を幸せに出来ないと思っていた。逃げていたんだ。待てないと言われ、お前が俺の元から離れていく姿を見たくなかった。だから、自分から突き放してお前がどこかで幸せになってくれれば、それだけで幸せと思いこもうとした。でも本当は……」
何を言おうとしているのだろう。酒がもう回ったのか。誰がいるともしれないバーのカウンターで言うべきことではない。でも、今告げるべきことだと折川は思った。
「俺が、お前を幸せにしたい」
これが、すべてだ。公安警察折川蓮二の。
「……選ぶのは、私だわ」
一拍置いてから、茉莉花は静かに言った。涼しげな瞳は、揺れない。
「ああ」
「別の相手と結婚してそれなりの幸せを手に入れ、それなりの人生に満足するのも、いつ帰ってくるか分からない男を何十年も待ち続けて女の盛りを過ぎるのも、選ぶのは私だわ」
「……ああ」
茉莉花の視線は外れない。どうしてこんなに相手が気後れするほど真っ直ぐに見つめてくるのか。それは彼女が真摯に折川に向き合っている証拠だった。それでも、折川は気付く。茉莉花の日焼けした手がわずかに震えていることに。声に熱が帯びていくことに。
「考える時間は十年もあったの。十年考えて、答えはとっくに出てたのよ」
「茉莉……」
「蓮二が好き。貴方を愛してる。あと十年だろうが二十年だろうが、いくらでも待てる。待ってるから、帰ってきなさいよ。私の元に」
やがて茉莉花の目が潤む。ああ、誰よりも強い彼女は、強くあろうとしていたのだと折川は知った。茉莉花のツンと尖った鼻の頭が赤く染まっている。孤高の彼女をこんなにも脆くさせるのが自分であることを、折川は幸せに思った。
きっと明日から、再び茉莉花とこうして会うことはできない。それでも、もう大丈夫だと思った。いつか戻る場所が出来たなら、折川は辛く険しい日々だって歩いていける。
「これ、私のお店」
茉莉花は名刺入れから店の名と電話番号が書かれた名刺を取りだした。くたびれた名刺入れは卒業祝いに折川が茉莉花へプレゼントをした物で、それをいまだ大事に使ってくれていることに胸が温かくなった。
「ああ、あの駅前の……」
受け取った名刺に目を通す折川を待った茉莉花は、スッと折川の指から名刺を取りあげる。
「読んだ?」
「あ? ああ」
「そう。じゃ、これはこう」
「おい……っ!?」
バーテンからマッチを貰い小気味よい音を立てて火をつけた茉莉花は、そのまま名刺を炙った。見る間に燃えカスへと変わっていく名刺を呆然と見つめている折川の前で、茉莉花はガラスの灰皿へとそれを落とす。
「何慌ててるんだか。店の名前に電話番号、ちゃんと覚えたでしょう?」
トントン、と自らの頭を人差し指で叩きながら、茉莉花は悪戯っぽく笑う。折川は目を白黒させて言った。
「覚えはしたが、お前……」
「何よ。あとで自分で始末するのが心苦しいかと思って代わりに焼いてあげたのに。折川蓮二と関わりのある人間の私物なんて、手元には置いておけないでしょ」
「茉莉花、お前……!」
度肝を抜かれて、折川は席から立ち上がる。茉莉花はルージュの引かれた唇をニヤリと吊り上げた。
「警察庁勤務で、遠くにいかなきゃいけない。連絡も取れないとなれば、言われなくても蓮二の仕事は想像つくわよ」
「……っ」
そう、聡い女なのだ。茉莉花は。
優秀な頭脳は、折川が口にした単語から、折川が今警察庁のどこの所属なのかを導きだしたのだろう。そしておそらく、折川がこれから捜査で別人として潜ることも察し、彼の手元に折川蓮二を連想させるものを置けないと理解して折川の代わりに名刺を燃やしたのだ。
どこまでも聡く賢く、そして強い女だ、と折川は不敵に笑む茉莉花を仰いだ。
「ねえ、私は平気よ。しわくちゃのおばあさんになったって、蓮二を待ってあげる。でも、それには思い出も必要だわ。これからしばらく寂しい一人の夜を乗り越えていくための思い出が」
細身のジーンズに守られた長い足を組みかえ、茉莉花は猫のように笑った。
「最高の夜にして」
艶やかなルージュの光る唇が、最高の殺し文句を吐く。十年の時は男勝りで勝ち気な彼女を、成熟した美しい女に代えていたのだ。折川は首の後ろにぞくりとした興奮を感じ、茉莉花の手を取って店を後にした。
レイと琴のように、自分と茉莉花は常に寄り添えはしない。それでも繋がっていこうと思った。傍にいれなくても、絆はいつだって繋がっている。互いが互いを思う限り。それを教えてくれた年下の二人がいた。
だから、自分も守るべき人といつか並べるよう、愛し抜こうと折川は誓った。
二章や三章を書いている時、折川の恋人ってどんな女性なのだろうと考えていたのですが…まさかこんな芯の強い女性が出来上がるとは思いませんでした。ここまでお読みくださりありがとうございます(*´꒳`*)