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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
番外編
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再びを待つ花のごとく凛と②

「フォーギブンを頼むなんて、厭味ったらしいったらないわ」


「……別に許しを乞いたいわけではないぞ」


 有無を言わさず隣の席へ掛け直した茉莉花に当て擦られ、折川は居心地悪そうに視線を反らした。手のひらの中に収まる琥珀色の液体を、茉莉花は忌々しそうに見つめている。


 折川の頼んだフォーギブンは『許された』という意味を持つ酒だ。大学で知り合ってから折川の告白で付き合い出した恋人は、入庁してから突如連絡を絶って自然消滅した折川を決して許してはいないのだろう。


 気の強そうな眦が吊りあがっているのを見て、折川は確信した。


「突然連絡を絶って悪かったとは思っている。職務に関わることだ、詳しくは話せないが俺にとっては必要な判断だった……が、お前にとっては違うだろう。許してくれるとは思っていない」


「そういうとこよ、あんた」


 爪の短く切られた指を指し、茉莉花は薄い唇をへの字に曲げた。


「許しを求めていないなんて言って、一人で話を完結させようとするところ。相変わらず何にも変わってないのね。ひとりよがりで勝手な男」


 カウンターに肘をついた茉莉花は、乱暴な声で次の酒を注文した。頬にかかった髪が邪魔だったのか、形のよい耳へと髪をかける手は、女性にしては骨ばっている。


 背も高く、グラスに移った濃いルージュを拭う手も、細身のジーンズを纏った足も長い。一目見た者は、茉莉花を美人で気の強そうな女と称するだろう。


 実際、茉莉花はサバサバした男勝りな性格で意志も強い。その辺の男よりもずっと肝が据わっているため、男の助けなど必要なさそうに見える。パンケーキよりラーメンを好み、集団ではしゃぐより一人で海外まで足を伸ばすようなイメージの女だ。


(宮前琴とは対照的だな……)


 琴は芯こそ強く現役警察官を唸らせるような度胸の持ち主であるが、見た目は可憐の一言に尽きる。華奢で小柄な割に柔らかそうな頬も、長いまつ毛に縁どられた零れ落ちそうなほど大きな瞳も、はにかむような頬笑みも、小動物のような仕草も男の庇護欲をくすぐる。


 それでも、折川は竹を割ったような茉莉花に惹かれていた。横顔が凛としているところも、一人で生きていけそうな強さを秘めたその背筋も好ましい。だから安心して連絡を絶てたとも言える。


「悪かった」


「突然音信不通になったこと? それとも、許しを求めていない傲慢なところ?」


「……どちらもだ」


 苦々しい思いを、折川は酒と一緒に呷る。


「気にしてないわよ。別に。もう十年近く昔のことじゃない。いつまでも私が引きずってると思うなら、それこそ傲慢が過ぎるわ。とっくに昇華してるわよ。私、今度結婚するし」


「は……っ!?」


「なんてね。嘘よ、嘘。何て顔してるの? 官僚がそんなに信じやすくていいわけ?」


 茉莉花は折川が警察庁に入庁したことを知っている。が、どこに配属されたかまでは知らせていない。配属された時に、個人より国家を優先すべきだと思い知り、茉莉花を幸せには出来ないと気付いて連絡を絶ったからだ。


 そうであるのに、かつて愛していた女が他の男と結婚するとちらつかされると、胸がやすりで削られたようにささくれた。


 十年近く顔を合わせていなかったのに、心だけは急速に針を進めて熱を帯びる。いまだに茉莉花を好ましいと思っている自分に、折川は嫌でも気付かされた。


 結婚発言が冗談だったとしても、近いうちにそれは冗談ではなくなるのではないか。折川と茉莉花は同い年だ。三十を回った今、茉莉花に交際相手がいないとは限らないし、少なからず結婚を意識する年齢だろう。


(そうなった時、俺は素直に喜べるのか……?)


 正直、自信はない。それでも公安での職務でポーカーフェイスはお手の物だ。内心の動揺をひた隠し、折川は軽口を叩いてみせた。


「お前こそ、正義をつかさどる検察官がそんな嘘をついていいと思ってるのか」


「ああ、私、今検察官じゃないから」


「はあっ!?」


 鉄面皮だと揶揄される自分が、この十分間に何回動揺を与えられていることだろう。折川は顎が外れそうなほど驚いた。


 在学中に司法試験に合格した優秀な頭脳を持つ茉莉花は、検察官になるのだと出会った時から口にしていた。てっきりその夢を叶えたとばかり思っていた折川は、懐疑の色を滲ませた一重まぶたの瞳で、茉莉花を見つめた。


 言われてみればたしかに、今の茉莉花の格好は検察官らしくない。週の真ん中にカジュアルな水色のシャツとジーンズを穿いている検察官が果たして多く存在するだろうか。


「じゃ、じゃあ今は何をして……」


「花屋で働いてるの」


 あっけらかんと茉莉花は語った。茉莉花はそのまま、てのひらをヒラヒラと折川の目の前で振ってみせる。短い爪には、落としきれなかった泥が入りこんでいた。


「花屋!? お前がか!? 花になんて少しも興味がなかっただろう……! そんなお前が花を……!? いや、それより……」


 夢はどうしたのだ。司法試験に一発合格するほどの頭脳を持ち合わせていながら、今は興味になかった花に囲まれている?


「今失礼なこと考えてるでしょ。言っておくけど、花屋ってとっても奥が深いし必要とされる仕事なんだから」


 ずばり言い当てられ、折川はグッと奥歯を噛む。


「それは……悪かった。職業に優れているも劣っているもない……が、お前は検察官になりたかったんじゃなかったのか?」


「なりたかったし、なったわよ。でも、辞めたの。心が空っぽになっちゃったから」


 淀みなく答えた茉莉花に、折川は困惑の色を深くする。そういえば茉莉花はいつもこうだった。彼女は迷ったりしない。冷静沈着に見える折川よりもずっと、物事を冷静に考え、判断する清々しさを持つ女だった。


「蓮二が私を避けるようになった時、何かのっぴきならない理由でもあるのかなって考えた。仕事に関わる大事な理由で私を遠ざけたいのかなって」


「…………」


「でも、それって私の願望かもしれない。蓮二は私が嫌になって離れたのかもしれない。答えは出なくて、私は思考の渦から逃げるように仕事に没頭した。でも」


 茉莉花がぬば玉のような双眸で折川を射抜いた。その鋭さに、折川はぐっと背筋を伸ばした。


「仕事を逃げ場所にするなんて不誠実だなって思ったわけよ。だから、自分が今何をしたいのか考え直したの。そしたら思いついたやりたいことが花屋だったってわけ」


「実は花が好きだったのか?」


「嫌いじゃなかったけど、好きでもなかったわ。検察官を志して大学に入学した頃はね」


「じゃあ何で……」


「蓮二が好きだったから」


 透き通った声で言われて、折川は喉を詰まらせた。胸を突かれたような心地がする。動揺からグラスに入った琥珀色の液体を揺らした折川へ、濃いルージュの引かれた口元を、茉莉花は吊り上げた。


「花は、私が蓮二に惹かれたきっかけだったから」


「花が……?」


「覚えてない? 新入生歓迎会の時に、私が自己紹介を嫌がったこと」


 健康的な美人の茉莉花は大学生の頃から人目を引いた。気が強く姉御肌の彼女が自己紹介をすると、酒の席での酔いもあってか周囲がどよめいたことを折川は思い出した。




 男勝りな彼女に、茉莉花という可愛らしい名前が似合わない、と失礼な声を投げかけたのは、一つ上の学年のバカ野郎だったか。


 仏頂面で席に座った茉莉花は、乾杯からそう経っていないというのに帰り支度を始めた。受験戦争を勝ち抜いた先に待っていたのがこんなくだらないドンチャン騒ぎの歓迎会だったことに折川も辟易としていたが、まさか隣席の美人が不機嫌をあらわに席を立とうとしていることに驚いて、思わず引きとめたのだ。


『おい、どこへ行く』


『何、お金なら払うわよ。これ、あんた代わりに幹事へ渡しておいて』


 Gジャンを腕にかけた茉莉花が、長財布から五千円札を引き抜く。折川は露骨に顔をしかめ、座敷から立ち上がろうとした茉莉花の腕を掴んだ。


『何をそんなに苛立っている』


『うるわいわね。茉莉花なんて可愛らしい名前、私には似合ってないって、あんたもどうせ思ってるんでしょう。親がジャスミンを好きだったのよ。茉莉花……茉莉花マツリカ。本人たちが好きな名前じゃなくて、子供にはもっと似合う名前を付けてほしいもんだわ』


『茉莉花……。花言葉は愛らしさ、か』


 教養の一つとして覚えていた花言葉を口にすると、茉莉花の柳眉がひそめられた。


『そうよ。私には似合わない名前! 愛らしさなんてないんだから!』


 乱暴に腕を振り払おうとした茉莉花に、折川は『そうでもないだろう』と言った。


 どうやら茉莉花という愛くるしい名前は男勝りな彼女にとってコンプレックスでしかないようだった。が、折川はその名が彼女に似合わないとは思わなかった。


『ジャスミンの花言葉はお前に似合ってる』


『冗談よしてよ。折川くんだっけ? あんた私と同じあけすけなタイプだと思ってたけど、社交辞令とか言うわけ』


『世辞は言わない。思ったことを言ったまでだ』


『じゃあ……!』


『素直』


『は……?』


 二人のいさかいに気付かぬ周囲の声に掻き消えそうな声で、茉莉花が言った。肩からかけていたトートバッグがずり落ちる。折川は冷めてきたからあげに空いた片手でレモンを絞りながら言った。


『ジャスミンの花言葉の一つだ。自分の感情に素直なお前にピッタリだろう。俺はお前の名が、お前に似合ってないとは思わない。茉莉花、いい名だ』


『……』


『素直なのはいいことだ。が、どうせ金を払うなら食事くらい取っていけ。痩せすぎているぞ』


 筋張った二の腕について感想を述べた折川に、茉莉花はポカンと口を開いた。それから、俯いて肩を震わせる。怒っているのかと思ったが、意外にも茉莉花は声を上げて笑い出した。


 歯並びのよい口元を隠すことなくワニのように笑う顔が、ひどく魅力的だ。遠くの席でちやほやされている没個性なアイドルっぽい新入生の計算された微笑よりも、折川はグッと心を掴まれた気がした。


『どうした?』


『んーん。ねえ、折川くんって……下の名前は……』


『蓮二だ。ああ、俺も名前に花が入っているな』


 これも何かの縁だろう、よろしく頼む。と抑揚のかいた声で言った折川に、茉莉花は整った顔を綻ばせた。




 宝箱をそっと覗きこむような目で、茉莉花は思い出を語った。


「私、ずっと自分の名前が嫌いだった。だって自分にまったく合ってないんだもの。でも、今はこの名前が好きよ。蓮二が似合ってるって言ってくれたから。花がつく名前は、蓮二と同じだって言ってくれたから……」


「茉莉花……」


「何で花屋になったかって? 花は、私と蓮二を繋いでくれると思ったの。蓮二が私のことを遠ざけても、私は蓮二と繋がっていたかったから。だから、自分の気持ちに素直になった時、花に関わる仕事がしたいって思った」


 洗われた御影石のような瞳を真っ直ぐ折川に向けて茉莉花は言った。


「そしたら本当に蓮二に再会するんだもの。ビックリよ」


「……俺は……」


 薄い一重まぶたを瞬き、視線を彷徨わせる。再会してから再び春の訪れを告げるように氷解していく心は、茉莉花へと急速に近付いていった。しかし……。


「さあ蓮二、せっかく再会出来たんだもの。私のこと、盛大に振ってくれる?」


 くるりとカウンターの椅子を折川へ向け、茉莉花が尊大に言った。腕を組んだ彼女からは、振られる覚悟が整ったと言わんばかりの決意が見てとれた。


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