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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
番外編
168/176

再びを待つ花のごとく凛と①

 キャリアにしては珍しく現場が好きだ。


 たとえヤクザに鼻骨を折られたって現場が好きだ。ある程度の地位に立って広い執務室でふんぞり返る自分を夢見ないと言えば嘘になるが、それでも自分は庁舎で報告を耳にするよりもその場で起こる現実に向き合いたい。


 だが、しかし……。


 つい今しがた与えられた新たな任務に、折川は赤紙を発布されたような気持ちになった。


 三十を回った折川が与えられるには、ましてキャリアの折川が与えられるには危険すぎる。上は公安が把握し監視している宗教団体に、三十年前に日本を震撼させたテロ集団の幹部が接触した可能性があるため、折川に潜入して探れと命令してきたのだ。


 蒼羽の件は短期間でカタがついたが、潜入捜査となると何年もの月日を費やすことは珍しくない。もちろん成功すれば出世の大きな足掛かりになるだろうが、もし潜入先で死ねば、親族に看取られることもなくこの世から名前を消されるのだ。


 警察庁の名簿から存在を消し、とある企業に二十年近く潜っているメンバーもいると聞く。国に身も心も捧げていなければ、自分の旗色が分からなくなってしまうような長期戦だ。


 折川は廊下の先、ガラスの窓に映った自分を見つめた。典型的な日本人の顔だ。きっちりと撫でつけられた黒髪の下、面長の顔で真一文字に結ばれた薄い唇が折川の性格をよく表している。狐のように細い目は神経質そうにピクリと時折痙攣し、あらわになったこめかみには常時青筋が浮いている。


 涼しげな目鼻立ちは品がよく美形といってよいほど整っていたが、一度目にしたら忘れないようなインパクトはなく、周囲に溶け込む潜入捜査には向いていた。


 折川はレイを公安に引き入れたいと思ったこともあったが、正直ああいった派手顔の色男は潜入捜査にはまるで向かない。あのブルートパーズのような流し目一つ、洗練された騎士のような仕草一つだけで周囲に鮮烈な印象を植えつけ、万人を虜にしてしまい、どの集団にいたって異彩を放ってしまうからだ。


 その点、あの薔薇のように芳しいレイの恋人である琴は潜入捜査に向いていたと思う。華やかなレイという大輪の傍に寄りそう霞み草のように可憐な琴は、一見平凡で、どこにいても周囲に馴染んでしまう。


 目を焼くようなオーラはまるでない。それでも、霞み草の花言葉のように『清らかな心』を持つ彼女は、レイや蒼羽といった華美な人間を惹きつけ夢中にさせる魅力がある。折川自身、そんな琴をとても好ましく思っていた。


 そう、国の為に身を粉にして働いてきた折川も、琴とレイに対しては特別な感情を抱いている。他人のために自分を犠牲にしがちな二人に、どうか幸せになってほしいと、繋いだ手を離さずにいてほしいと願っている。


(だが、彼らと再び会う機会ももう当分ないだろう)


 潜入捜査となれば名を変え身分を偽ることになる。もし宗教団体に潜りこむなら、折川として接してきた人間との接触を絶たねばならない。


 公安へと所属が決まった時、覚悟はしていたはずだ。多くの大事な人間との縁を、折川は自分から切ってきた。大事にできないと気付いた時、当時付き合っていた恋人とも疎遠になった。人々を別つのは、何も死だけではないことを折川は誰よりもよく知っている。だからこそ、琴とレイにはずっと共に歩んでほしいと思っていた。自分がその行く末を見守れなくても。


「……やけに感傷的になっているな」

 

 眉間に寄った皺を揉みながら、折川は厚いガラスの向こうに広がった霞が関の夜景を眺める。すると、ふとガラス越しにこちらを見つめる視線に気付いた。


「次長……」


 暗いガラスに映るのは、レイの父親である神立次長――警察庁のナンバー2だった。


 ロマンスグレーの髪がとても映える中年だ。レイに瓜二つの容姿をしているが、オニキスを嵌めこんだような冷眼は刀身よりも鋭く折川を貫く。眼光だけで相手を征服する威圧感を持つ神立次長は、深い皺の刻まれた口元に笑みをかたどった。


 ニヒルな笑み一つ寄こされるだけで、全身の急所に針を押し当てられたような心地がするのだから、オーラのある人間は怖いと折川は思った。


「聞いたよ。死地に追いやられるそうじゃないか。君は私の派閥だからね。長官派の人間に嫌われてしまったな」


 現在の警察庁は長官派と次長派に分かれている。次長が子息のレイと三乃森議員の令嬢の縁談を、『何らかの弱味』を握って破談に持ち込んだことは折川の耳にも入っていた。そして、三乃森議員と懇意な仲だった長官がそれに激昂したことも。


 しかしその怒りを表立って次長にぶつけることは出来ないのだろう。代わりに的になったのは次長派の人間たちで、折川の今度の潜入捜査も長官派による嫌がらせの一つだった。


(腐っているな。長官派の人間は国のためでなく、己の保身のために働いているのか)


 折川は愛する日本を守るために身を捧げている。だからどこかの派閥に所属することに興味はない。


 しかし、神立総一郎という男はそういった面で全幅の信頼をおける人間だった。実の息子のレイには血も涙もないと恨まれていたようだが、導き手としてこれほど頼もしく頑健な男はいないと折川は思っている。おそらく、無数の屍の上に立つことになろうとも、悩まずに御旗を掲げ続けることの出来る屈強な精神の持ち主だ。


 無数の赤い航空障害灯が煌めく霞が関の夜景が、神立次長によく似合っていた。


「何、長官の時代はもうすぐ終わる。そうなれば自分に無茶を言っていびってきた長官派を足蹴にしてやればいい」


「私が生きて帰ってこられればの話です」


「ああ、無論だ。犬死にだけはしないでくれよ。遺体は家族の元へは返せないぞ」


「承知しております。私が戻ってきた時には、どうか次長が警察庁のトップになっていてください」


「善処しよう。さて、可愛い部下を労うために食事でも奢ってやりたいところだが、生憎先約があってね」


「恐れ多いことです。次長と会食の予定があるとは、よほどの階級の方なのでしょう。どうぞ私などお気になさらず……」


「ああ、宮前くんとだ」


 深々と頭を下げた折川へ、神立次長は喜色めいた声で言った。こんな愉快そうな神立次長の声は初めて耳にする。いや、彼は今何と――――……。


「宮、前……? 宮前琴とですか?」


「ああ。誘ったんだよ。彼女は電話越しに息を止めていたな」


 神立次長は気楽そうに笑う。折川は琴にひどく同情した。あの心優しく、小動物のように愛くるしい少女は、神立次長の誘いにあの大きな瞳を零れ落ちそうなほど見開いたに違いない。もしくはいきなり大魔王から電話がかかってきて心臓が止まりかけたのではなかろうか。


 彼女の当時の心境を思うと、折川は合掌したくなった。


「ということは、息子さんもご一緒に……?」


「いや、レイは呼んでいない。私が宮前くんと食事に行くと嗅ぎつけて抗議の電話を寄こしてきたがね」


 神立次長は玩具を手にした子供のように言った。


 一時期息子と距離をとっていたが、琴を通して親子の関係が改善されてからはちょくちょく息子にちょっかいをかけるようになったらしい。怜悧冷徹冷酷無情が服を着てふんぞり返っているような神立次長を変えたのだから、折川は琴を末恐ろしい存在だと思った。


「娘というのは可愛いものでね。宮前くんのクルクル変わる表情は愛らしくて見ていて飽きない」


(……もう娘扱いとは……)


 これは厄介な男に好かれたものだな、と折川は思う。レイだけでなくその父親にまで気に入られてしまっては、もう琴が嫌だと泣き喚いてもレイと結婚させられてしまうだろう。


 琴が将来的にレイとの結婚を望むなら、これ以上ない後ろ盾でもあるが。


(結婚……か……)


 自分からこれほど縁遠い言葉があるだろうか。男盛りを迎えた折川だったが、その気配は一欠片もなかった。


 食事に行くという神立次長を見送り、自分も駐車場へ向かう。車で出勤していたが、急に飲みたい気分になり、進路を変更して電車に乗った。


 酒に酔う人間は公安にはなれない。秘密主義な部署ゆえ、酒で口が緩む者には務まらないからだ。ザルではあったものの公安に配属されてから酒を控えてきた折川は、最寄駅の近くにあるバーにふらりと立ち寄った。


 入庁してから何度か利用したことのあるバーは食事も楽しめる。赤い囲いのある扉を開けて店内に入れば、上品な口髭を蓄えたマスターとカウンターにずらりと並んだボトルが折川を出迎えた。週の真ん中であるせいか、客の入りはそこそこだ。


 キャンドルが規則的に並ぶカウンター席はまばらに空いており、折川は入口付近の席に腰を押しつけ注文する。


「フォーギブンを」


「畏まりました」


「フォーギブンだぁ?」


 恭しく頭を下げたマスターとは裏腹に、折川の二つ隣の席から低い女の声がした。


 入店した際に癖でざっと店内を見回したが、酔い潰れてカウンターに突っ伏していた若い女だ。絡まれたらかなわないと離れた席に座ったが、これでは不十分だったかと折川が眉をひそめたところで、女は顔を上げた。そこで、折川の心臓が奇妙に跳ねた。


「……茉莉花まりか……」


「はあ? 何で私の名前……んん……?」


 酒で酩酊した涼しげな目元をグリグリとさせ、女が筋の通った鼻先を折川へと突きつける。その際に光沢のある艶やかな黒髪が、サラリと背中に流れた。


 茉莉花という可愛らしい名前にそぐわず、女はきりりとした面差しの持ち主でもあった。真ん中ですっきりと分けられた前髪は女の端正な顔を近寄りがたい印象にしており、賢しい鷹のような目は相手の内心まで見透かすような鋭さを放っている。


 男装の麗人のように中性的な雰囲気を纏った女は、長い足を組んだまま椅子だけ回して折川へと向き直り、それから目を見開いた。


蓮二れんじ……?」


 ああ、なんて日だろう。赤紙が届いた兵士は、戦地へ赴く際に故郷に置いていった恋人を思い浮かべたりしただろうか。


「……久しぶりだな……」


 公安警察は酔ってはいけない。それでも酔ってしまいたいと折川は思った。今すぐカラカラに乾いた舌を潤すために酒をくれまいか。


 まさか――――……公安に所属されてから縁遠くなっていた恋人に再会するなんて。


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