これが僕らの愛する日常
頭の中のブレーカーが落ちるほどくたびれて帰宅することが神立レイにはある。
連日の貼りこみが身を結んで逮捕に持ち込み、その後は犯人の取り調べ。それだけでも五日間帰宅出来ていなかったが、稟議書に目を通し、おまけに逮捕の際に犯人が暴れて破壊した店から届いた請求書の整理集計を、嫁が産気づいた部下から代わってやったら今日も日付が回っていた。
警視庁のロッカーに置いてある予備のスーツは底を尽き、三徹目で借りた仮眠室では警部に電話で起こされ結局寝られなかった。慢性的な寝不足はレイから思考力を奪い、最終的にはなかなか吐かない容疑者に絶対零度の笑みで尋問し続け、取調室を凍らせた。
正直警視庁から自宅までどうやって運転して帰ってきたのかも覚えていないほど疲弊している。
握った鍵がひどく冷たく感じるほど体温が上がっているし、月の色を溶かしたようなペールブロンドは毛先が痛んでしまっていた。煩わしい外界からの通信手段をすべて絶ち切り、泥のように眠りたい。
鍵を回しドアを開けたところで、レイは白い眼球にさすような眩しさを感じ目を細めた。ついで、パタパタとスリッパがフローリングを蹴る軽快な音が鳴る。リビングへ続く長い廊下から、足音の主がレイを出迎えた。
「おかえり! レイくん!」
「た、だいま……」
条件反射で呟く。
背の高いレイが首を下げると、肩口あたりで琴が花開いたように笑っていた。
三月に入ってから小春日和が続いているためか、モコモコしたパイル地の寝間着から薄手のパジャマに代えた琴が満足げに頷く。しかしそのパジャマは琴自身のものではなく、レイの物だ。
衣替えをまだしていないせいで自分の物が見当たらなかったのかもしれないが、ダークグレーのパジャマに身を包んだ琴は、服の中で身体が泳いでしまっている。パジャマの肩の位置が琴の二の腕辺りまで下がっており、湯上りで上気した鎖骨が覗いていた。
指先がすっぽり隠れてしまった手で口元を覆い、レイの帰りを嬉しそうに見上げる琴に、レイは鉄の理性が焼き切れそうになるのを感じた。
そうだ。そうだった――――……。
今レイのマンションには一人ではないのだ。去年の六月からずっと、愛しい恋人を預かっている。そしてそれをうっかり失念してしまうほど、レイは疲れていた。いや、正確には忘れていたわけではない。ただ――――いまだに慣れないのだ。幸せに慣れない。
幼くして母を亡くし、仕事にかまける父の元育ったレイは、家で誰かが帰りを待っていてくれるという発想に乏しかった。だから琴と住み始めてから九カ月経った今でも、琴がこうして玄関先で出迎えてくれると、内心どうしてよいか分からない時があった。
嬉しい、のだと思う。疲れて帰宅しドアを開けた瞬間、温かな声をかけられる度、笑顔を向けられる度、心の奥にポッと灯りがともったような温かさを覚える。
そしてそれは、家族の愛情を知らない自分にとって、分不相応な温もりにも感じられた。
無邪気な笑顔を向けられる度、一生分の幸せがどっと流れ込んだような気がして怖くもある。この笑顔を失った想像をするだけで、膝が笑いそうになる。
しかし臆病なレイの内心を知らぬ琴は、いつだって無垢な笑顔でレイを迎え入れてくれた。
「レイくん?」
こてん、と首を傾げる仕草が愛しい。細い首を傾げた際に、風呂上がりで真っ直ぐに伸びた栗色の髪が、腰のあたりで揺れた。
「どうしたの……あっ」
そこで初めて自分の今の服装に思い至ったのだろう。琴は茹でダコのように赤くなった。薔薇色の小さな唇をあっぷあっぷとさせながら、琴は懸命に言い訳を募る。
「あ、あの、これは……暑くて、何か薄手の寝間着をって思って……あの、決してその、レイくんがいなくて寂しいからずっと着てたわけじゃあ……っ」
そこまで言って、琴は丸い頬をますます赤らめた。これでは、レイがいない寂しさを紛らわすためにレイの香りが移ったパジャマを身に纏っていたと白状したも同然だ。琴もそれに気付いたのだろう。黒目がちなたれ目が羞恥で潤んだ。
「ご、ごめん、すぐ脱ぐから……!」
「脱ぐって、今ここで?」
意図せず、レイの口から意地悪な声が漏れる。大粒な瞳を瞬いた琴は、沸騰しそうなくらい真っ赤になった。
「ああああ……ぬ、脱がない! レイくんの意地悪!!」
繊手で胸元を掻き合わせた琴は、それからハッと気付いたようにレイの手から仕事鞄を取りあげた。
「もう! 早く上がってレイくん!」
これではどちらが家主か分からないなと思いながら、レイは曲線が美しい革靴を脱ぎ、琴によって用意されたスリッパへ爪先を通す。それを見届けた琴が踵を返すのを見て、芳しい花に吸い寄せられた蝶のように、レイは琴へ手を伸ばした。
華奢だがマシュマロのように柔らかい身体が、レイの腕に収まる。旋毛に鼻を寄せると、ローズマリーとティーツリーの甘い香りがした。
「れ、くん……っ!? ちょ、荷物を」
後ろから抱きしめられた琴がレイの逞しい腕の中で身じろぐ。細く見えて、鍛え抜かれたレイの腕は琴の二倍近くの太さがある。均整のとれた筋肉がついた腕に拘束された琴は、鋼のような力強さに息を飲んだ。
「どうしたの……濡れちゃうよ……?」
タオルドライしただけの髪が高いスーツに当たるのを気にしているのだろう。琴は身を引こうとしたが、レイはますますきつく琴を抱きこんだ。
「いいから。もう少しだけ」
「レイくん?」
「嬉しいんだ。帰宅したら、琴がいてくれて」
「そんなの、いつものことなのに」
「そうだね。でも、当たり前のことじゃない」
お互いがそばにいようと心に決めていなければ、決して当たり前のことじゃない。互いの努力があって初めて成り立つ関係だ。
「眠かっただろう。起きていてくれてありがとう」
薄い下瞼を指の腹でスリ、と撫でてやる。くすぐったそうに細めた琴の瞳が、柔らかく蕩けた。その下の瞼は寝不足のせいかいつもより青い。もしかすると、レイが不在のここ数日間はあまり寝ていなかったのかもしれないと、レイは都合の良いことを考えた。
「レイくんが今日帰ってくるってメールくれたから、嬉しくて」
琴の柔い手が、遠慮がちにレイの広い背中へ回る。いっそ固く抱きついてくれても構わないのに。相変わらずスーツが濡れることや皺になることを気にした様子の琴の額を掻きあげ、レイは一つキスを落とした。
「レイくん、体温高いね……熱ある?」
「平気だよ」
「でも、疲れた顔してる。ご飯食べた? お風呂入る? それとももう寝る?」
畳みかけるような問いかけも、琴の優しい声だと小鳥のさえずりのように心地よい。心配そうな琴へ微笑みかけると、レイはそうだなあと肩を竦めた。
正直、鉛のように重かった身体も、気絶してしまいそうな眠気も、琴を見た瞬間にどこかに吹き飛んでしまった。代わりにどこかへ散歩していた空腹感が戻ってきて、急に久しぶりの琴の手料理が恋しくなった。
「作ってくれてるの? ご飯」
「うん。今日はいわしのつみれ汁とね、きのこと根菜の炊き込みご飯と、お豆腐といんげんの肉巻きと、それから……」
細い指を折ってメニューを語る琴の頭を一撫でする。どれもレイの好きなメニューだった。
「ありがとう。じゃあ、ご飯食べて、琴の髪を乾かしてから寝かしつけて、それから風呂に入ろうかな」
「え、え……? 私の髪と寝かしつけるのはいいよ……」
機嫌よく指を折っていた琴が途端に慌て出すのが愛しくて、レイは髪を撫でていた手をそのまま移動させて貝殻のような耳を擦る。ピクンと肩を跳ねさせる素直な反応が初々しくて可愛らしく、レイは目元を和らげた。
仕事中は絶対に見せない優しい笑みだ。それも、琴だけに見せるものだった。
「……レイくんって、こうやって触るの好きだよね」
「ああ……」
そういえば、とレイは一つ頷いた。
「琴にいつも触れてたいから」
「へ、あう……れ、レイくん、そういうの、禁止! そういうこと言うの、ダメ!」
真っ赤になった琴がレイと距離を取ろうとする。どうして、とレイが首を傾げると、琴は気まずそうに視線を泳がせた。
「だって……その……舞い上がっちゃう、から……」
自制しないと、と頬を押さえながら言う琴に、レイは目眩を覚えた。どうしてこの一見平凡な少女は、自分の心をこうも容易く揺さぶるのか。
「いいよ」
「へ?」
「琴ならいくらでも舞い上がっていいよ」
レイには今まで女性経験がないわけではない。過去に付き合った女性も何人かいる。でも、誰かを愛しいと思う感情に欠けていたとレイは己を判じていた。昔から金髪碧眼という派手な容姿に女性たちが集まってきたが、誰かと付き合うことになってもその相手を特別だと感じることはなかった。
淡白だと罵られたこともある。それでもレイは気にしなかったし、親の愛情を受けて育たなかったレイにとっては、愛という感情も理解しがたかった。だから淡白だと思われても、これが普通なのだと思っていた。琴に出会うまでは。
交際していた相手と取る食事より、幼い琴と囲む食卓の方がずっと胸が温かく満たされたし、琴といる時間はささくれた心を癒してくれた。
「だから、僕にとって琴は特別なんだって、もっともっと自覚してね」
でないと理性を突き崩されてしまう日が近いかもしれない。レイの言葉の意味を理解していないのか、不思議そうに首を傾げる琴の平たい後頭部を、レイは苦笑まじりに撫でた。
現在折川の番外編を鋭意制作中ですが、私生活が立て込んでいる為一旦完結の形を取ろうと思います。ここまでお付き合い下さった方々に感謝しています(*´꒳`*)ありがとうございました!またいずれ。