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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
番外編
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泡雪のように溶けた永遠が僕のすべてだ⑤

 己の思い通りにならないならば、手折ってしまえばいい。今までその行為に罪悪感を覚えたことなど一度もなかったし、これからもきっとない。だが、苦い思いだけが、蒼羽の胸の中で煙のように燻っていた。


「まだ寝てろ」


 柔らかいリネンに包まれて微かに身じろいだ塊に、蒼羽は言った。


 朝日はとうに上っていたが、自分よりも一回り以上大きな巨躯に夜明け近くまで求められた瑠璃の身体が満足に歩けるとは思えない。


 初めての痛みに泣き喚いた瑠璃の声が耳に貼りついているのを感じながら、蒼羽は裸にスラックスだけ穿いた姿で煙草に火をつけた。


 ベッドに腰掛けた蒼羽に背を向けているため、胎児のように丸まった瑠璃の表情は見えない。身を守るように丸められた身体のあちこちに、蒼羽によってつけられた痣や独占欲の証が目立ち痛々しかった。


(小せえ……)


 瑠璃の身体は、こんなに頼りなかっただろうか。ともすれば掻き消されてしまいそうな弱弱しさに、痛むはずのない胸が締めつけられる。


 シーツから出ていた剥き出しの項にそっと唇を落とすと、瑠璃の身体が震えた。


「瑠……」


「私が」


 酷使されたせいで掠れた声を絞り、瑠璃が言った。


「自分で仇も討てなくて、弱くて、自分一人の力では何もできないのに、蒼羽さんに甘えて……だから」


「何言ってる……」


「だから、愛想つかして、こんなことしたんですか……?」


「瑠璃」


「だったら、もう……もう、いいから……」


 何がいいというのだろう。絨毯に煙草の灰が落ちるのをそのままに、蒼羽は嫌な予感に耳を研ぎ澄ませた。


「もう、分不相応に何かを望んだりしないから……。大学だって諦めるから、だから……」


 許して。


 恩人の貴方に愛想を尽かされて、ひどいことをされるのは耐えられない。


 消え入りそうに放たれた言葉が刺さって、苦い思いが蒼羽の胸に広がる。違う。自分は、こんなことを言わせたかったのではない。こんなみじめそうな声を瑠璃に吐かせたかったのではない。こんな悲愴な思いを抱かせたかったわけではない。


(違う。欲しいのは。欲しかったのは……)


「……っおい、起き上がるな」


 悲鳴を上げる身体を無視し、瑠璃は手をついて起き上がった。しかし、伏せられた目元は決して蒼羽を見ようとはしない。


 白い肌を隠すように引き上げたシーツを持つ手は、もう震えてはいなかった。


「おい、聞いてんのか」


「沢山学費を払ってもらってるくせに、私がへらへらしてるの、嫌、でしたよね……。蒼羽さんが怒るのも当然です……」


「瑠璃、いい加減に」


「ちゃんと、働いて返していきます……。あのマンションからも、出ていく、から……もう……っ!?」


 その言葉の続きを聞きたくなくて、蒼羽は瑠璃をきつく抱きしめた。そのまま上体を倒し、シーツの海に沈みこむ。抱かれたまま押し倒された瑠璃は、昨夜の記憶が蘇ったのか、喉で悲鳴を弾いた。


「や……っ」


「悪かった」


「……蒼羽さん?」


 心の底からの謝罪など、生まれて初めてのことだった。


 一生口にすることなどないと思っていた言葉を、蒼羽の薄い唇は紡ぎ出す。後悔などしていない。瑠璃をこの手に堕とした暗い喜びは、蒼羽の産毛を逆立てる甘美な背徳感があった。それでも、瑠璃の心を殺してしまった罪悪感だけは、後味悪く絡みついて蒼羽を苛んだ。


 ぐずる子供のような瑠璃の抵抗が止む。まだ二十歳にも満たない子供だ。自分より五つ以上も年下の無垢な子供相手に、己の浅ましく重い欲をぶつけてしまったのだと改めて実感する。


 乱暴された名残の残るもつれた髪を梳いてやってから、蒼羽は瑠璃の亜麻色の髪に口付けた。


「……好きだ」


 衣擦れのする室内に、蒼羽の苦い声が落ちる。弦月のように鋭い蒼羽の瞳に、瞠目する瑠璃の姿が映った。


 うっすらと青白い隈の浮かぶ目元が、驚きに震えている。


「……え……?」


「ざけんな。離れていかせるわけねえだろ」


「蒼羽さ……」


「お前が欲しいってずっと言ってんだろうが」


 そうだ。嫉妬だ、これは。出会ってからもうずっと、瑠璃に惚れている。嫌がる女を抱く必要なんて、本当は一ミリもなかった。性欲を発散したいだけなら、蒼羽には寄ってくる女なんて掃いて捨てるほどいる。平凡を絵に描いたような瑠璃に固執する必要もない。


 それでも、つまらない男子学生に嫉妬するほど、自分はもう瑠璃に溺れてしまっているのだ。それこそ、くだらない嫉妬で彼女の意志を無視して襲ってしまうくらいには。


 あの凍える夜に、瑠璃だけが蒼羽に手を伸ばしてくれた。それだけでもう、蒼羽は何にも代えられないほど瑠璃に魅せられてしまっている。


「俺だけに笑えよ、瑠璃……。笑ってみせてくれ」


 瑠璃が傍にいるなら、それがどんな形だって構わないと思っていた。たとえ自分が瑠璃にとって、両親を失った喪失感を埋めるための形代でも構わないと。


 でも、もし瑠璃が別の誰かのものになるかもしれないと思ったら、そんな現実は認めたくないと思った。自分が想うように、瑠璃にも同じ想いを返してほしいと思ったのだ。そんな稚拙な思いが蒼羽を、瑠璃を無理やり抱く凶行に走らせた。


「犀星会の蒼羽ともあろう男を……一介の堅気の学生が嫉妬させんじゃねえ」


 涙の残る瑠璃の瞳が、大きく揺らぐ。何度も欲しいと求められておきながら、瑠璃はそれをヤクザの戯れと思っていたのだろう。もしかすると、万人を虜にしてしまう容貌の蒼羽が自分に本気になるとは思っていなかったのかもしれない。


 しかし、蒼羽の口から明らかな好意を伝えられたことで、瑠璃は口元を覆った。


「蒼羽、さん……」


「何だ」


「煙草の灰、シーツに落ちちゃう……」


「ムード考えろよ、テメエ」


 蒼羽の片手に収まったままの煙草を指さす瑠璃に、蒼羽は苦笑を零した。灰皿へ煙草を押しつける蒼羽を見つめながら、瑠璃は訝しげに言う。


「……本当に、私のこと、好きなの?」


「ああ。女に困らねえこの俺が、嫉妬で無理やり犯しちまうくらいにはな」


「……犯罪だよ」


「今更だな。この手は汚れてる」


 鼻で笑った蒼羽の、節の高い手を瑠璃が怖々手に取った。皮が厚く、何もかもを掴みとることができそうな大きな手だ。


「でも……私を掬いあげてくれた手です……」


「お前を傷つけた手だぞ」


 嘲り笑う蒼羽を見上げた真摯な瞳は、色濃く残る情事の気配に揺れる。しかし、ややあってから瑠璃は首を振った。


「蒼羽さんが、私のこと好きなんて……思いもしなかったから……だから……傷つけたのは……きっと私も一緒です……。きっと知らない間に、蒼羽さんのこと、沢山傷つけた……だから……おあいこです。……っわ!?」


 涙の跡が残る頬をぎこちなく緩め、眉を下げて笑う瑠璃の肩を引き寄せて口付ける。強張った肩に気付かない振りをし、二度、三度と蒼羽は甘く啄ばんだ。


「蒼羽さ……」


「愛想なんか尽かさねえ。俺のものになれよ。瑠璃」


「そ……」


「言っとくが俺ァ、お前が泣こうが喚こうが、離す気はねえからな。軽蔑したって、もう逃がさねえ」


「……重たいよ……でも……好きならちゃんと、笑わせて……」


 ひどく不器用な泣き笑いを浮かべて、瑠璃は蒼羽の背中に手を回した。


「私……蒼羽さんは恩人だと思ってた……のに……」


 不満げに眉をひそめた蒼羽に、瑠璃は聞いて、と言葉を続けた。


「恩人だと思ってたのに、それだけじゃいられない気持ちがあって……戯れでも甘い言葉をくれたり、優しくしてくれる度に、勘違いしちゃいけないって自制してたのに……無理やりされた時、蒼羽さんに嫌われたんだって思うと、目の前が真っ暗になったんです……その時気付いたの、私……」


 祈るように絡めた互いの指をギュッと握りこみ、瑠璃は愛しそうに言った。


「孤独から救いあげてくれた、貴方が好き……」


 瑠璃の眦から、白露のような涙が頬へ流れていく。蒼羽はその涙が、この世の何よりも冒しがたいものに見えた。


 愛しているだなんて陳腐な言葉だ。好きだなんて安っぽい。相手からの好意を当然として生きていた蒼羽にとって、愛の告白など何の意味もなかった。なかったのだ。今、瑠璃の口から聞くまでは。


 その言葉一つで、心に温かい息吹が芽吹くなど知らなかった。窓から差し込む日差しがこんなにも柔らかいなんて知らなかった。


「だから、笑顔が見たいって言ってくれるなら、そばにいて笑わせてください。貴方の幸運で、私を笑顔にさせて」


「俺の、幸運だと……?」


「ええ。蒼羽さんの名前を知った時から、ずっと思っていたんです。貴方はその名に、幸運の青い鳥を宿してるって。きっと、幸せを掴める名前ですよ」


 朝日を受けてキラキラと輝く黒曜石の瞳が、愛しげに細められる。桜色の唇から零れた言葉は、蒼羽の胸に鮮明に焼きついた。






 蒼羽の名を幸運だと、彼女は言った。


 たしかに蒼羽は幸運だったのだろう。瑠璃と過ごした日々は、蒼羽にとって幸福の日々だった。モノクロだと思っていた世界が、実は溺れるほどの色で彩られていることを知ったような衝撃だった。満ち足りた日々だった。


 だからこそ、瑠璃が死んだあとの世界は、まるでテレビの砂嵐のように虚無で、雑音ばかりが耳障りな日々だった。


 幸運だった自分は、瑠璃の幸運まで奪ってしまったのだろうか。




「……ばさん、蒼羽さん、起きてください。着きましたよ」


 大人しそうな割に芯の強い声が、蒼羽の耳を打つ。遠慮がちに肩を揺すられた蒼羽は、緩やかに眠りの淵から引き上げられ切れ長の目を開いた。


 ヘーゼルの瞳に映るのは瑠璃ではない。小さな鼻も、薄紅色の唇も、零れ落ちそうなほど大きな瞳もそっくりだが、出会ったばかりの瑠璃よりもほんの少し幼い望月エマと名乗る少女だ。


 蒼羽は望月エマと名乗る琴のことを、出会ってから一度も名前で呼んではいなかった。瑠璃によく似た少女を別の名で呼ぶことで瑠璃がもういないのだと改めて意識するのが怖かった。


 新宿の街を走り抜ける車に揺られながら、蒼羽の心情を知る由もない琴は不思議そうに大きなたれ目を瞬く。


「夢でも見てたんですか?」


「ああ……懐かしい奴の夢だ」


 呪いのようだと蒼羽は思う。


 戒めだ、これは。自らのせいで瑠璃を亡くしたことを忘れるなと、心の奥底で過去の自分が爪を立てている。もしくは、瑠璃に似た女に――――望月エマだと名乗る女に心惹かれている自分を、天国の瑠璃が恨んで見せた夢かもしれない。


 忘れるな、忘れるなと、夢が蒼羽を責める。


(戻ったら、リバイブを打つか)


 ベッド脇の小机に仕舞ったおぞましい快楽の粉は、蒼羽の苦しみを解き放ち一時でも辛苦を忘れさせてくれる。注射針を差し込み胸の痛みの輪郭がぼやけていく瞬間を想像して、蒼羽は背もたれに頭を預けた。


 いつになく闇の気配を纏う気だるげな蒼羽に気付かず、琴は「懐かしい人の夢かぁ」と口内で呟いた。


「そうですか、なら」


 見下ろしてくる蒼羽へ、琴は花が咲くように微笑んだ。


「懐かしい人が、蒼羽さんに会いに夢に出てきてくれたんですね。きっと」


「……は?」


「働き過ぎて、車内で眠ってしまうほど疲れてる蒼羽さんを心配して会いに来てくれたんですよ、夢で。優しい夢でしたか?」


「――――――……」


 会いに来た? 瑠璃が? 責めるためでなく、蒼羽を心配して?


 まさか――――……いや。


「そういえば、あいつは俺を責めるような女じゃなかったか」


 無理やり犯した時でさえ、自らが悪いのだと泣いて謝った女だ。そんな瑠璃が、抗争で生き残った蒼羽を責めるはずがない。責めるような女なら、蒼羽の身を守るために代わりに凶弾に倒れたりしないだろう。


 蒼羽にとっては、その方がよかった。瑠璃が生きていてくれるなら、自らが命を落とした方がずっとマシだった。


 瑠璃が夢で責めているんじゃない。瑠璃を救えなかった蒼羽が、責められたいだけだ。


 黙りこんだ蒼羽を不審に思ったのだろう。琴は蒼羽の怜悧な顔を覗きこんだ。


「蒼羽さん?」


「いや……ああ。そうだな、悪い夢じゃ、なかった」


 あの夢は、自らが積みあげてきた、記憶だった。瑠璃との愛しい日々は、呪いなんかじゃない。たとえ、今別の女に惹かれつつあろうとも。


「今夜はクスリに頼らなくて済みそうだ」


「何か言いました?」


「お前は面白い女だな」


「ええ?」


 瑠璃が短い生涯を終えるまでに、彼女は沢山笑った。笑ってくれた。あの写真立てに映る純真な笑顔で。その思い出だけを抱いて今夜は眠ろうと、蒼羽は星屑のように街の光がひしめく新宿の夜景を一瞥した。


三章で蒼羽を書いた時、彼の本質を本編では書ききれないと思いました。最終的に琴自身にも惹かれた彼ですが、そのキッカケになった瑠璃の存在が、彼にとってどれほど大きいのかをどうしても書きたくて筆を取りました。

蒼羽の番外編はこれで終わりになります。琴とレイがほとんど出ないにも関わらずここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。

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