泡雪のように溶けた永遠が僕のすべてだ④
「……っひ……」
尋常でない蒼羽の怒気にあてられたのだろう。瑠璃の喉から短い悲鳴が漏れる。つい直前まで笑っていたのが幻のように恐怖を貼りつけた瑠璃に、苛立ちが湧く。
「そ、蒼羽さ……どうして、ここに……」
「俺がいたら、都合の悪いことでもあるのか?」
瑠璃を取り巻く怯えの輪郭をなぞるように、そっと耳元へ囁く。蒼羽の整った容貌と甘い声に周囲の女たちは黄色い声を上げたが、瑠璃だけはその声に潜んだ怒りをしっかりと拾った。
「い、いえ……ビックリ、して……。仕事だって聞いてたから……」
「瑠璃ちゃん、知り合い? どういう関係? 彼氏じゃないよな」
怖気づく瑠璃へ、先ほど鼻の下を伸ばしていた男が不満げに言った。
平凡な女子大生の瑠璃と、どう見ても堅気には見えない蒼羽の接点を訝る視線がぐるりと二人を囲む。女子は好奇の視線を、あわよくば瑠璃を持ち帰ろうと画策していた男は、面白くなさそうな視線を向けている。
返答に窮する瑠璃を後ろから包むように抱きしめ、蒼羽は一層甘く言った。
「聞かれてるぞ。教えてやればいいだろ、瑠璃」
「……っ」
ヤクザをパトロンとして、学費を出させ大学に通っていると。瑠璃が蒼羽に強制したわけではない。蒼羽が勝手に、退学の決意をしていた瑠璃に辞める必要はないと援助を申し出たのだ。しかし、それを学友の前でどう説明すればよいのか分からないのだろう。瑠璃は唇を引き結び、俯いた。
黙りこんでしまった瑠璃の旋毛を冷たく見下ろし、蒼羽は歩きだす。瑠璃の肩を掴んだままだったので、瑠璃も強制的に歩かされることになった。
「あ、の……」
「行くぞ」
「……でも、あのっ」
「あんまり俺を煩わせるなよ、瑠璃」
蒼羽が刀身のように鋭く冷たい声を浴びせると、瑠璃は小さく息を飲んだ。先ほどまで警戒心の欠片もなく無防備に笑っていたのに、今はどうだ。まるで肉食獣に嬲られる小動物のようだ。その怯えた姿がまた蒼羽を苛立たせた。
今日は不愉快なことばかりだ。蒼羽を出しぬけると勘違いし結果破滅した笹田も、瑠璃を性の対象として不躾な目で見ていた学友とやらも、それから――――……怯える瑠璃もだ。何故自分の前でなく、別の男の前で笑っているのか。
何でも与えてやれる。与えた。瑠璃が抱える、ぶつけどころのない怒りや恨みを昇華してやり、夢を繋ぎとめ、金も惜しまなかった。
それでも、瑠璃は別の男の前で笑っている。そしてそれが許せるほど、蒼羽は寛容な男ではなかった。
「そ、ばさ……どこ行くの? ねえ……」
「黙れ」
「……っ」
低く唸った蒼羽に、瑠璃の肩が震える。その華奢な肩を砕く自分が容易に想像出来て、蒼羽は凶暴な欲求に犬歯を剥き出した。
笑顔が見たいと思いながら、自分の前で笑顔を見せないならいっそ二度と笑えないように壊してやりたい。凶悪な衝動は蒼羽の胸の内側から血のように噴き出す。
黙りこんだ瑠璃を、蒼羽は乱暴に高級ホテルへ連れ込んだ。大股でロビーを通り抜けエレベーターに瑠璃を押しこむ。最上階へ辿りついた時、瑠璃はアルコールで潤んだ瞳を不安げに揺らした。
何故こんな場所へ来るのか分からないのだろう。その無防備さが好ましいと同時に、今は癪に障った。
自分がもし瑠璃を見つけなかったら、おそらく瑠璃は安く趣味の悪いネオンがまたたくホテルへ連れ込まれていたに違いない。そしてその先を想像し、蒼羽は奥歯をギリッと軋ませた。
沈黙を健気に守っていた瑠璃は、いよいよ我慢できずに不安を口にした。
「蒼羽さん、お家、帰らないの……?」
「帰りてえのか? 俺ァてっきり、お前はあの男たちと泊まりてえのかと思ってたんだがな」
「なに、言って……」
「だから続きをしてえのかと思って、俺が代わりに連れて来てやったんだろうが。ホテルに」
蒼羽の言う意味がまるで分からないのだろう。困惑を極める瑠璃に、蒼羽はスイートルームの扉を開けた。
「それとも、あの男たちにマワされる方がよかったか?」
「……っ!?」
露骨な表現に、鈍い瑠璃でもとうとう理解したらしい。言葉を失う瑠璃へ暗い笑みを投げかけ、蒼羽は細腕を強引に引っ張った。宝石を散りばめたような新宿の夜景を一望できるリビングルームを足早に通り過ぎ、ベッドルームに鎮座するツインのベッドへ瑠璃を突き飛ばす。
「きゃ……っあ、やっ!?」
乱暴に投げ出された身を深く包み込むシーツの上で、瑠璃の身体が泳ぐ。瑠璃が身じろぎする間にベッドへ乗り上げた蒼羽は、うつぶせていた瑠璃の肩をひっくり返して馬乗りになった。
仰向けにされた瑠璃の胸が上下する。大きな黒真珠の瞳が間接照明の下、怯えた色を映した。
「蒼羽さん……冗談だよね……?」
「ああ……冗談じゃねえな。ずっと求めてた女を、他の雑魚に持っていかれるなんざ」
まさかベッドに組み敷かれてもなお、趣味の悪い冗談だと思っているのだろうか。瑠璃の愚かさに嗜虐心が背筋を駆け上がる。細い手首を頭上で固定すると、瑠璃は「ひっ」と声にならない悲鳴を漏らした。
反りかえった顎のラインに吸いつけば少しは気が治まると思ったのに、甘い花のような女の香りにぐらりと脳みそを揺さぶられるだけだった。
蒼羽が舌舐めずりすると、瑠璃は瞳に涙を盛り上がらせる。
「ねえ……」
「そんな顔すんなよ」
犯される恐怖に奥歯を震わせる瑠璃へ、蒼羽はいっとう優しく微笑んだ。
「追いつめたくなるだろうが」
涙に濡れたまつ毛の下、瑠璃の瞳が絶望に染まる。そんな顔が見たいわけではない、とどこか頭の隅で思った自らを蒼羽は無視した。
瑠璃が自分の前で笑わないならどうでもいい。壊してしまえばいい。元々自分はそういう人間だった。己の思い通りに女を操ってきたし、今まで瑠璃のワガママや願いを聞いてきたことこそが異常だったのだ。
喜ぶ顔が見たいと思ってしまったばっかりに。
「ゃ、だ……」
「いい気なもんだな。人の金で大学に通って、男漁りは愉しかったか?」
「……っ! ひど……」
「ひでえのはどっちだ? 大学に通いてえってのは、男を咥えこむ為だったのか? どうだった? 触らしてやったんだろ? この身体をよ」
「……っ!!」
蒼羽に拘束されていた手を振りほどき、瑠璃が大上段に手を振り上げた。
パンッと乾いた音がベッドルームに響き渡る。蒼羽の頬に苛烈な熱が走ったが、蒼羽は痛みに呻くこともなく無表情だった。むしろ、蒼羽の頬を叩いた瑠璃の方が、信じられない顔をして自身の手のひらを見つめていた。
「あ……。ご、ごめ、なさ……蒼羽さん、怪我……」
「瑠璃」
自分でも驚くほど、底冷えするような声が出た。瑠璃が顔色を無くしていくのに、笑いが止まらない。薄い唇を歪めて笑った蒼羽に、瑠璃は泣きだした。
恐怖から子供のように泣きじゃくる瑠璃に、蒼羽は額を突き合わせる。
「許して……もう……」
「立場をわきまえろよ。それが分からねえっていうなら、一晩かけて教え込むしかあるめえな」
「……やだ、や……っ。ごめんなさ、ごめ……やあああっ」
琴を弾いたような瑠璃の悲鳴をどこか遠くに聞きながら、夜の帳の下、蒼羽は彼女の服を引き裂いた。バラバラと弾け飛ぶボタン。重なる悲鳴。軋みを上げるベッド。
笑顔なんて程遠い。瞳を真っ赤に腫らし、懇願だけを紡ぐ瑠璃の唇に口付ける。涙腺が壊れたように泣く瑠璃の細い身体を掻き抱き、ただただ暴力的に欲を押しつける蒼羽の姿を、新宿の夜に浮かぶ月が、大きな窓から責めるように見下ろしていた。
次話が蒼羽の番外編の最終話になります。