表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼が私をダメにします。  作者: 十帖
番外編
164/176

泡雪のように溶けた永遠が僕のすべてだ③

「あしながおじさんが、こんなに横暴なんて思わなかった」


 生活感のないリビングに、瑠璃の皮肉がよく響く。


 いつでも瑠璃の歌声を聴かせろ。それを条件に瑠璃の学費を出すことを決めた蒼羽は、半ば攫うようにして瑠璃を鄙びたアパートから新宿の自分のマンションへと連れ込んだ。


 恋人でもない男の高級マンションに住むことに当初難色を示した瑠璃だったが、蒼羽があれよあれよという間にアパートを引き払ってしまうと観念せざるを得なかったのだろう。時折こうして蒼羽に皮肉を零すものの、恩人である蒼羽と共に暮らすのはやぶさかでもなさそうだった。


「これは何だ?」


「お豆腐とひき肉で作ったつくね。あとはね……」


 ウズラの卵を真ん中に落とした、あんのかかった大きなつくねと、海老やホタテなどの魚介がふんだんに盛られたサラダ、身体が温まるようにと根菜の煮物、それから小松菜のおひたしを、瑠璃がてきぱきテーブルに並べる。


 これまでキッチンを使用したこともなければ自宅で食事を取ることも数えるほどしかなかった蒼羽は、瑠璃がやってきてからというもの、彼女の手料理を食すためにもマンションに帰ってくる機会が多くなった。


 元々世話焼きな性格なのだろう。瑠璃はただで住まわせてもらうのだからと、嫌な顔一つせず家事を請け負った。その上この食事だ。食生活が乱れに乱れ、酒しかろくに飲まない日もあった蒼羽の栄養状態は見る間によくなった。


「お前も今から食べんのか?」


 もう夜の十一時を過ぎているのに、瑠璃は蒼羽が帰宅する日は必ず食事を取らずに待っている。おそらく、人恋しいのだろう。


 瑠璃が強引な蒼羽に言われるがままマンションへやってきた理由の一つは、学費のためではない。一人でいるのが嫌だったからだ。


 蒼羽が瑠璃に惹かれていく一方で、瑠璃も蒼羽に依存している。それが恋情かは分からないが、瑠璃が自分なしではいられないようになるなら、蒼羽はそれでも構わないと思っていた。


 思っていたのだ。その時までは。向けられる形が何であれ、あの笑顔が手に入るなら、瑠璃が蒼羽の傍にいるなら、何だっていいと思っていた。いたのに。






 出会ってから季節を跨ぎ、夜桜が都会の並木道を淡く染める頃、大学の新入生歓迎会で遅くなると瑠璃から蒼羽の携帯に連絡が入った。


 帰りはタクシーを使えと釘をさしてから、蒼羽も仕事に取り掛かる。今日はいくつか管理しているキャバクラの一つが売り上げを上納せずピンはねしている疑いがあったため、視察を兼ねて従業員を絞ってやれば、バックヤードから従業員の悲鳴が上がった。


 蒼羽の長い足が従業員の男の腹に食い込み、メキメキ、と骨の折れる鈍い音が薄暗いバックヤードに響く。汚れた床を転がる男の前髪をわし掴めば、蒼羽の凶悪な双眸に射竦められた従業員はカエルが潰れたような声を上げた。


「おいおい、悲鳴を上げてぇのはこっちだぜ? 信頼している従業員が金をこれまでに三百万もくすねてたなんざ、悪夢じゃねえか。なあ?」


 蒼羽は誰も信用なんてしていない。誰かを信じれば足をすくわれると、任侠の世界に足を踏み入れてから嫌という程味わったからだ。


「す、すみませ……っ」


「謝ってなんかいらねえぜ? 俺ァ寛大な男だからな、落とし前をつけてくれりゃあそれでいい」


「落とし前って……どうやって……」


 ひくりと喉をしゃくりあげた男を睥睨し、それから蒼羽は不遜に笑う。男の飛び出した眼球は助けを求めて血走り、蒼羽の怒気に当てられ蒼白になった顔は今にも気絶してしまいそうだ。


「そうだなあ……おい、バラして売れ。腎臓や肝臓なら多少は金になるだろ」


 蒼羽が部下に指示を飛ばすと、脇に控えていた人形のような部下が頷き、男を拘束する。己の未来を想像した男は、ほふられる時を待つ家畜のように震え上がった。


「ひぎいっ!? いや、いやだ! 許してくれえええっ! うぐっ」


「うるせえよ」


 何の感慨もなく、蒼羽は男の頭をテーブルの角に打ちつける。悲鳴に眉ひとつ動かすことなく、蒼羽は懐から煙草を取りだした。すかさず、もう一人の部下が火を差し出す。紫煙をくゆらせながら、哀れに震える男を圧倒的支配者は見下ろす。


「お前の体一つで他の従業員が無事なら、臓器の一つや二つ、安いもんだとは思わねえか? なあ、笹田よ」


 笹田と呼ばれた従業員は、切った額から血を流しながら呻いた。汚れた手で床を掻き、蒼羽の部下の拘束をかいくぐって蒼羽の足元に取り縋る。


「いやだっ。いやだ……ゆる、許してくれ……見逃してくれ……」


「おいおい、自分の尻も拭けねえで情けねえと思わねえのか。こりゃあ、バラして売る価値もねえな」


 喉で笑いを転がした蒼羽は、涙腺が壊れたように泣く笹田へ煙を吹きかける。絶対零度の瞳には同情の欠片すら望めなかった。


「おい、灰皿がねえな」


 ふと部屋を見回し、蒼羽が言った。ガラステーブルの上に載っていた灰皿は、蒼羽が笹田を殴る際に使い、床に転がっている。生憎、血のベッタリと貼りついた灰皿を使う趣味は蒼羽にはない。


「蒼羽さん……」


 蒼羽の煙草に火をつけた部下が、懐から携帯灰皿を取りだそうとスーツに手をかける。それを蛇のような眼光で制し、蒼羽は笹田を見下ろして笑った。


「ああ、ちょうどいいところにあるじゃねえか」


「……っ、え……?」


 大柄な蒼羽の影が、笹田の身体に落ちる。蒼羽は口元に笑みを刻んだ瞬間、骨が軋む力で笹田の顎を掴み、口を開けて上を向かせた。捕食者の瞳と目が合い、笹田が息を止める。


 蒼羽の影で暗くなった笹田の視界に、ちらりと何かが舞い落ちる。蒼羽越しに見える蛍光灯の明かりが、笹田の口元に落ちる灰を残酷に浮かび上がらせた。


「うああああああっ」


 断末魔のような悲鳴が店内を揺らす。ガクガクと痙攣したように肩を跳ねさせる笹田の舌に、蒼羽は煙草の火を押しつけた。


 蒼羽の非情な仕打ちに、笹田を押さえつけていた部下たちまでもが顔色をなくす。


「俺からの温情だ。選ばせてやるよ、笹田」


 もんどり打つ笹田に一瞥を投げることもなく、蒼羽は背を向けて言った。


「灰皿程度の価値しかない自分を憐れんで死に、保険金を組に献上するか……それとも臓器を売って組の奴隷として一生生きていくか」


「あ、あぐ……うあ……」


「どうだ。俺ァ優しいだろう?」


 猫を可愛がるように慈愛に満ちた声を投げかけ、蒼羽は酷薄な笑みを零した。


 あとは部下に、笹田にきっちり落とし前をつけさせるよう言い渡す。問題があれば連絡を寄こせと言い残し、蒼羽は店を出て繁華街を歩いた。笹田の面を拝むことは二度とないだろう。舐めた真似をしてくれたものだ。


 チッと舌を打てば、すれ違ったカップルが引きつけを起こしたように飛び上がった。蒼羽が肩をそびやかして闊歩するだけで、人波が割れる。道行く者は皆、濃い闇の匂いを纏った男の危険性が分かるのだろう。人より頭一つ飛び抜けた長身も、彫りの深い目元でぎらつく双眸の鋭さも、鋼のように頑健な肉体も、常人にとっては畏怖の対象でしかない。


 すれ違う群衆の怯えた視線すら疎ましく思いながら、目に痛いネオンに彩られた飲食店を過ぎる。と、形のよい耳に、砂糖を煮詰めたように甘く好ましい声が入った。


 視線を周囲へ泳がせれば、居酒屋の前でたむろする大学生らしき集団が目に入る。まだ飲み慣れない酒をいきがって呷ったのだろう。頬を赤らめ弾んだ声を上げる一団は、蒼羽の存在に気付いていない。幹事が会計をしている間に二軒目へ行くメンバーを大声で募る男子学生の間から、見慣れた栗色の髪が見えた。


 瑠璃だ。


 酒を飲んだのだろう。元々とろりと零れ落ちそうな瞳はますます垂れさがっていて頼りない雛のようだ。童顔のくせに色づいた頬は情事中の女のような色香を纏っており、アンバランスな危うさが先ほどから周囲の男の目を引いていた。


 覚束ない足取りを助けようと、鼻の下の伸びた男が瑠璃の細い腰に手を差し伸べる。それに気付いた瑠璃が酒に蕩けた顔で笑ったのを見て、蒼羽は心がスッと冷えこんでいくのを感じた。


 ついで胸に湧き上がるのは、凶暴なまでに剥き出しな怒りの衝動だ。大股で集団に近寄り、瑠璃の薄い肩へ手を伸ばす。集団が驚いたような声を上げたが、見上げるような巨躯が瑠璃を絡め取る姿を見て、一気に酔いがさめたように萎縮した。


「よお」


 ビリビリと肌を痺れさせるような低い声が、蒼羽の唇から漏れる。肌を刺すような怒気が空気を震わせ、歓楽街のざわめきが水を打ったように引いた。


 酩酊していた瑠璃は、肩に深く食い込んだ節の高い指に驚いて振り返る。そこで自分を見下ろす蒼羽にやっと気付き、紅潮していた頬を青ざめさせた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ