表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼が私をダメにします。  作者: 十帖
番外編
163/176

泡雪のように溶けた永遠が僕のすべてだ②

 女は瑠璃と名乗った。そしてその名前を聞き出すのに、蒼羽はたいそう難儀な思いをした。


 女に口付けて泣かれるのは初めての体験だった。


 シャツを押し上げるほど鍛え抜かれた体躯に、モデルも裸足で逃げ出すほどの長い足。彫りの深いアイホールに潜む野性味を帯びたヘーゼルの瞳と、酷薄そうに歪められた唇。そして闇の匂いを色濃く纏ったその背中は女を虜にしてやまなかったし、蒼羽を求める女は後を絶たなかった。


 そうであるのに、初めて蒼羽から手を伸ばした女――瑠璃は、蒼羽が口付けると、唇をわなわなと震わせた後に泣き出してしまった。


 泣きながら訴える瑠璃によると、ファーストキスだったらしい。聖夜にあまりにもひどい仕打ちだと泣く瑠璃に、蒼羽は「そうか、俺が初めての男か」と気をよくし、甘い唇をベロリと舐めてやり、さらに本格的に泣かせてやった。






 夜明けとともに瑠璃のアパートを抜けだした蒼羽を待っていたのは、犀星会幹部からの労いの言葉だった。


 どうやら新興勢力のかしらの眉間を蒼羽の銃弾がぶち抜いていたらしい。この手柄で一気に犀星会の中枢へ食い込める。野心の塊だった蒼羽の気分は当然高揚したし、以前の蒼羽なら登れるところまで登りつめるのを目的としていた。


 が、ふと蒼羽は、自分が今もっとも望んでいるのは、柔らかい亜麻色の猫毛を撫でることだと気付いた。瑠璃に会いたい。


 欲の赴くままに行動し、アパートの戸の前に立った蒼羽を出迎えた瑠璃は、初めて会った時よりも警戒の色を強めて言った。


「……傷は塞がったんですか?」と。


 その警戒は、ヤクザにタマを取られることに対してじゃない。またもや強引に口付けられるのではないかと危ぶみ、毛を逆立てた猫のような反応を示す瑠璃に、蒼羽は大きく突き出した喉仏を震わせて笑った。


「お陰さまでな。お前は、正月は実家に戻らねえのか」


 瑠璃がいたことに気をよくし、許可も得ずにズカズカと上がりこむ蒼羽。背後から非難めいた視線が刺さるかと思ったが、意外にも萎れた気配がし、蒼羽は眉をひそめた。


「瑠璃?」


「戻る家はもうありません、から……」


 右手で左の二の腕に爪を立てながら、瑠璃は暗い声で言った。


「おじさん……父の弟が、闇金からお金を借りていたみたいだったんですけど、お金を返済できなくて蒸発してしまって……保証人の父は、厳しい取り立てに耐えきれずに……」


 法定利息を超える利息を要求された人間の悲惨な末路を、蒼羽は知っている。犀星会の二次団体も闇金融を営んでいるため、むしろその辺の事情は瑠璃よりも精通しているくらいだ。


 それ以上聞く必要はない。言わせる必要もない、と、蒼羽は瑠璃の細腕を引いた。華奢な身体は抵抗することなく、蒼羽の広い胸の中に収まる。


 おそらく最近の話なのだろう。蒼羽の腕の中で、瑠璃は小さく鼻をすすった。


「そうか」


 瑠璃を一介の女子大生だろうと思っていた蒼羽は、自らの浅慮を悔いた。ただの女子大生なら、イブにたった一人ぼっちでヤクザを拾って手当てまで施すわけもない。


 おそらく借金で家と家族を失い、孤独だったのだろう。だから蒼羽に手を差し伸べたのだ。路地裏でボロボロになって座りこむ蒼羽が、この世に一人ぼっちになってしまった自分と重なったのかもしれない。


 衣装箪笥の上に飾られた写真立てを見つめる。気の良さそうな父と、優しそうな母の真ん中で笑う瑠璃は幸せそうだった。その笑顔を、蒼羽は欲しいと思った。


「――――……テメエの家族を追いこんだ会社。なんて金融会社か、思い出せるか」






「闇金融を営み法定利息以上の利息を受け取った疑いで利賀能会とがのうかいの幹部逮捕。新興勢力として関東で勢力を伸ばしていた利賀能会は昨年トップが抗争にて死亡しており、事実上の解体か……」


「……飯でも食いに行くか?」


 出会って一月が経った頃、狭いアパートのベッドに腰掛けスマホのネットニュースを読み上げる瑠璃に、蒼羽はキッチンで煙草をふかしながら言った。


 釈然としない様子の瑠璃へ一瞥をやってから、蒼羽は灰皿に煙草を押しつける。瑠璃のアパートに頻繁に顔を出すようになってから、瑠璃が渋々用意してくれたものだ。


「……これ……この、利賀能会の経営してた金融会社……両親を追いこんだ会社です。蒼羽さんがリークしたの……?」


 それどころか、どんな偶然か、クリスマスイブに利賀能会のトップを殺めたのは自分だ。しかし、そんなことを言えば元々雪のように真っ白な瑠璃の顔色はさらに青白くなるのだろう。換気扇を切った蒼羽は、瑠璃の隣に腰掛けた。俯く瑠璃の顎を掬いあげて視線を合わせる。


「不満か?」


「どうして……こんなことしたんですか? もし蒼羽さんがリークしたって分かったら、報復されるんじゃ……」


「んなもんが怖くて任侠の世界になんざいられるかよ」


「でも……っ」


「んな顔すんな。仇が捕まったんだ。もっと喜べ」


「……っ」


「それとも、お前の家族を追い詰めた奴らと同じ世界に生きる俺が憎いか?」


 言葉を唇から滑らせた瞬間、蒼羽は心が凍っていく心地がした。もし瑠璃が頷いたら、自分はどうなってしまうだろうか。いや、どうもならない。どうにかなるのは、瑠璃の方だ。


 もし瑠璃が蒼羽を拒絶すれば、自分は華奢な肩をベッドに押さえつけ、泣き声を手で塞ぎ、怯える眼球を舐めて内側から彼女を征服するに違いない。暴力と恐怖で瑠璃の顔が歪んでも、興奮の材料にしかならないほど、蒼羽の心は残酷だった。


 泣いて許しをこう瑠璃を攫い、どこかに閉じ込めて自分だけのものにする。そんな後ろ暗い欲望が、蒼羽の胸の底で暗い火を灯した。それだけ、自分は今瑠璃に溺れている。


 それでも、写真立てに写る瑠璃の笑顔がちらつく。あの笑顔を手にしない限り、自らの乾いた心が潤うことはあるのだろうか。


「憎く、ない……。だって、蒼羽さんは、蒼羽さんだもん……」


 ぽつりと零した瑠璃の言葉に笑いがこみ上げる。蒼羽は蒼羽? 笑わせる、と蒼羽は思った。


 自分も、瑠璃の家族を追いつめた闇金とさして変わりはない。所属する組が違っただけだ。蒼羽の所属する犀星会だって、二次団体に闇金融を営みさせ、組へ上納金として売り上げを納めさせている。そして、その金で蒼羽は汚れた世界を生きているのだ。


 もしかしたら、蒼羽が瑠璃の仇であった可能性だってある。


 そんなことを知らぬほど、瑠璃は愚かではない。ただ、蒼羽は違うと信じたいのだろう。その身勝手さな弱ささえ、蒼羽は愛しいと思った。


「蒼羽さん……」


 くしゃ、と紙を丸める音をたてそうな勢いで、瑠璃は顔をゆがめた。満月のような瞳から、はらはらと涙が零れ落ちては顎で珠を結ぶ。


「ありがとう、ございます……これで、少し前に進める気がします……」


「そうかい」


 煙草の匂いが染みついた蒼羽のシャツに縋りつきながら、瑠璃は泣く。意外に静かに泣く女だ。でも、と蒼羽は思った。


(俺が見てぇのは、この顔じゃねえよ)


 女なんて一回ヤッたらそれで捨ててお終いだった。それなのに、蒼羽は戯れにキスする以上のことを瑠璃にまだしないでいる。それどころか、どうすれば瑠璃が笑顔になるのかとヤキモキしてばかりいる。ひざまずいて懇願する相手の脳幹を何の慈悲もなく撃ち抜ける蒼羽がだ。


「……そういや、お前、大学は」


「あ……」


 涙で貼りついた頬の髪を払いながら瑠璃が言った。


「後期の学費は親が払ってくれたあとだったので、通えます……でも……二回生からの学費はもう払えないので……辞めるつもりです。働かなきゃ……」


「大学、ねえ。……行きたいのか?」


 何気なく聞いた問いに、瑠璃は肩を揺らした。


「もういいんです。叶うか分からない夢を追っているだけじゃ生きていけないから」


「夢?」


「……言わなきゃダメ……?」


 へにゃりと眉を下げた瑠璃は、引く様子がない蒼羽に観念して言った。


「私、子供の頃からオペラ歌手に憧れてたんですよ」


 そういえば、初めて会った日も瑠璃が歌っていたことを蒼羽は思い出した。心のざらついた部分を優しく撫でていくような歌声だった。


「行きゃあいいだろうが。大学」


「そんな、無理ですよ。奨学金を受けるにしても……バイトして、家賃も払ってって考えると……」


「バイトねえ……いい稼ぎ口を紹介してやろうか?」


「え?」


 蒼羽が犀星会で携わっているのは、風俗店やキャバクラの経営だ。瑠璃には詳細を語っていないが、ヤクザ者から斡旋される仕事に彼女が興味を示すとは思えなかった。案の定、瑠璃の大きな瞳に警戒の色が滲む。


「あ、あの……私……」


 及び腰になる瑠璃の背中をことさら優しく撫でてやれば、猫のように飛び上がる。その反応が面白くて、蒼羽は薄く笑いながら、冷たい瑠璃の耳たぶへ唇を寄せた。


「俺とセックスすりゃ、学費くらいポンと出してやるぜ?」


「……っ」


 音がするくらい大きく瑠璃が目を見開いた。花弁のような唇が小さくわななく。はくはくと小さく息を吐き出す唇に噛みつけば、一瞬遅れて瑠璃が抵抗した。


 腕の中でもがく瑠璃にのしかかると、ベッドが応えるように軋む。震える肩からニットの襟を落とした瞬間、瑠璃が唇を合わせたまま息を飲んだ。


「や、め……」


「なんてな」


 ウサギのように震える瑠璃から、巨躯を起き上がらせて蒼羽はバカにしたように笑った。


「感謝しろ。大学には俺が行かせてやらぁ」


「え……?」


 呆然とした様子の瑠璃は、口付けの余韻に頬を紅潮させて起き上がった。


「な、何言って……」


「テメエのパトロンになってやるっつってんだよ。なかなか良い声だったからな。誰にも知られずに消えていくのは勿体ねえだろうが」


「で、でも……! そんな、蒼羽さんに学費を出してもらうなんて……とんでもないことです! 両親の仇を取ってくれただけで十分です。もうそれだけで……」


「いい訳あるか。テメエまだ……」


 俺の前で、心の底から笑ってねえじゃねえか。


 甘さのない蒼羽の顔が、面白くなさそうに歪む。高い鼻の頭に皺を寄せた蒼羽に、目の端に涙の雫をとどめた瑠璃は不思議そうな顔をした。


「そうだな、無償で学費を出してもらうのが心苦しいって言うなら、提案があるぜ?」


 闇の世界に生きる者なら目が合うだけで歯の根が噛み合わなくなるほどの眼光を放つ蒼羽が愉しげに放つ言葉を、瑠璃はおそらく、蒼羽が目にしてきた誰よりも純粋そうに聞いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ