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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
番外編
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泡雪のように溶けた永遠が僕のすべてだ①

蒼羽の過去に焦点を当てた番外編になります。五話構成を予定しています。

 綿雪が冷たい雨に変わった頃、肺に空気を取りこむだけで横腹が引きつったように痛んだ。高い鼻梁を打つ雨が、身体から体温を奪っていく。あばら骨が二本、いかれたようで肺を圧迫した。


 敗走を強いられた負け犬のように逃げ回って深夜の路地裏に辿りついてから、いったいどれほどの時間が経っただろうか。腕に巻いた時計は、忌々しい襲撃相手に振りかざされたバールを受けた際、ガラスがひび割れてすでに役目を果たしていない。


「っつ……。今日はイブだろうがよ。神も仏もねえなぁ、おい」


 冷たいブロック塀に背中を預けて座りこみ、血の滲む横腹を汚れた手で圧迫しながら、蒼羽は自嘲の笑みを零す。


 自分で言って反吐が出ると思った。神仏の加護とは一番縁遠い世界にいる自分からこんな恨み事が出るとは、関東最大の暴力団『犀星会の蒼羽』の名が泣く。しかしいよいよ視界が霞み始め、蒼羽は薄く酷薄な唇に「やべえな」と笑みを刻んだ。


 シマを荒らしにきた新興勢力の戦力を大幅に削いでやったはいいが、窮鼠猫を噛むとは上手く言ったもので、横腹を一直線に切りつけられた。今は追手を振り切ってここまで辿りついたものの、いつ残党が襲いかかってくるか分からない状態だ。


 もしこの場で襲撃されれば、命はない。


 明滅を繰り返す切れかかった外灯が、針のような雨を夜に浮かびあがらせる。ふと視界に影がかかり、蒼羽はこれまでかと思った。追手に追いつかれたのだろう。任侠の世界に飛び込んでから数年、二十半ばで名前も知らぬ雑魚にやられてこの世に別れを告げるとは、しけた人生だ。


 先ほど溜まった血を吐き出した口内は鉄錆の味がして苦い。最後に煙草が吸いてえな、と顔を上げると、白む視界に入ったのは疎ましい仇ではなく、淡い栗色の髪だった。


 夜風にたなびく長い髪が羽衣のようで、蒼羽は切れ長の目を見開いた。


 ゆらり、緋色の傘が揺れて蒼羽の顔に影を作る。蒼羽に傘を傾けた女は、マフラーに埋めていた口をうっすらと開いて言った。


「あの、大丈夫です……? 怪我してるんなら、よかったら、うちに来ませんか?」と。






 安いスプリングがギシリと軋む。百九十はある巨体を収めるには窮屈すぎるベッドで蒼羽の覚醒を促したのは、布団からはみ出した足先の冷えでも、安いマットの軋みでもなかった。


 シュンシュンと音を立てるケトルに混じって、産毛を優しく撫でていくような鼻歌が聞こえる。天使の類を信じたことは子供時代にだってなかったが、鼓膜を震わす心地の良い声は、まるで天界の調べのように蒼羽を夢の淵から引き上げた。


 鈍痛に吐き気を催しわき腹をさすれば、そこには真新しい包帯の感触がある。上半身が裸の蒼羽から体温を奪わぬようにと、六畳の部屋に置かれた電気ストーブはベッドの方を向いていた。


 救急箱が載った一人用のローテーブルと、写真立ての並んだ衣装箪笥、それから薄い壁際に置かれたベッド。必要最低限の物だけが置かれた部屋は、玄関を上がってすぐにある台所から丸見えで、それは逆に言うと、ベッドに横になる蒼羽からも台所に立つこの部屋の主が丸見えということだった。


 優しい調べは、台所に立つ女の唇から紡がれ続けている。蒼羽が起きたことに気付いていないのだろう。


 自暴自棄になり、雨の中差し伸べられた女の手を取った蒼羽は、ほど近い距離にあった女の住むアパートに連れられ、手当てを受けていた。そのままいつの間にか眠ってしまったというのだから、蒼羽は己の気の緩みに内心驚いていた。


(まあ、仮に俺を襲う気の敵だろうが女ならどうにでも出来らぁ……)


 細腕を押さえつけてねじ伏せることも、幾人もの女を虜にしてきた鋭角的で野性味あふれる容姿でおとすことも、蒼羽には容易だ。


 しかしその必要性を感じないほど、女は純粋そうな横顔をしていた。


 高くはないが小さい鼻、子供のようにふくふくとした血色のよい頬、木苺のように甘そうな唇――――そして何より目を引くのが、零れ落ちそうなたれ目だ。目尻が下がっているせいで幼い印象を与えるのかもしれない。


 その澄んだ瞳に強く心を惹かれ、気付けばアパートに上がりこんでいた。


 蒼羽の視線に気付かぬまま歌い続けていた女の声がふと途切れる。歌声を心地よく感じまどろんでいた蒼羽は、それを名残惜しく思いながら鋭いヘーゼルの瞳を瞬いた。


 次の瞬間――――……。


「いやあああああああああっ」


 耳を劈くような悲鳴が上がり、蒼羽は飛び起きた。


「ああ!? 何だ!?」


「いやあああああっ! 冬なのに、冬なのにカメムシーーーー!!」


「はあ!?」


「あ、起きたんですね。って、いやあああああっ」


 ベッドから起き上がった蒼羽を一瞥した童顔な女が顔を綻ばせたのは一瞬で、女は再び泣き声に近い悲鳴を上げた。怯える黒曜石の瞳は、壁を這うカメムシへと向いている。


「やだやだやだっ。何でーーーーっ」


 子供のように泣きじゃくる女に面食らう。何だこの珍獣は。蒼羽はそう思った。


「たかが虫一匹で泣くんじゃねえ」


 ドスのきいた声で蒼羽が言う。


 大の大人でも竦みあがってしまいそうな声音だ。しかし、零れ落ちそうな目を涙に濡らした女は蒼羽が凄んでもぐずるのをやめなかった。何でカメムシが、と混乱するばかりだ。


 大方、洗濯物を取りこんだ際にでもついてきたのだろう。しかし豊かな亜麻色の髪を振り乱して半狂乱で叫ぶ女にはそんな考えも及ばないらしい。蒼羽はイライラとアッシュグレーの前髪を掻き上げると、ベッドから降り立った。


 そのままローテーブルに置かれたティッシュを数枚摘まみ、壁を這うカメムシに容赦なく手を振り下ろす。


 女が細い喉を震わせるのも気にせず、蒼羽はカメムシを掴んだティッシュを、窓の外へと投げ捨てた。


 殺してもよかったが、そうなると女がまたピーピー騒いで傷口が疼きそうだと思ったため、人間相手にも見せない温情をカメムシごときにかけてやった。自分がこんなに情に溢れる男だと知れば、今まで東京湾に沈められた仇たちはどう思うだろうか。


 バシンッと不機嫌もあらわに窓を閉めて振り返ると、女が部屋の入り口でへなへなと座りこんだところだった。どうやら腰が抜けたらしい。


 ダボッとしたパーカーの袖から覗く白い繊手は小刻みに震えている。涙に濡れたまつ毛が甘そうな女だと蒼羽は思った。


「あ、ありがとうございます……虫、ホントだめで……」


 桃の花弁のような唇から紡がれる声は弱弱しいが、先ほど聞いた歌声同様凛としている。そういえば、自分を家に誘った時の女の声もひどく耳触りがよくて心地よかったな、と蒼羽は思い出した。


「喚いてんじゃねえ。ただの虫だろうがよ」


「だって……怖いものは怖いんです……」


「意味が分からねえな。刃物傷こさえた男を部屋に上げるのは平気なくせに、虫は怖いだと?」


 常人なら、大人しくしていれば飛びかかってこないカメムシと、明らかに堅気ではない人間のどちらが怖いかと問われれば間違いなく後者だろう。しかし、眼前の女にとっては違うらしい。


「へ、平気じゃないです」


 自分より三十センチは背の高い蒼羽を黒目がちな瞳で精一杯睨むと、女は言い訳がましく言った。


「け、怪我だって、平気だったわけじゃありません。私、血見るの苦手で……傷口あんまり見ないように手当てしたから、包帯とか緩いかも……」


 蒼羽の傷口を思い出したのか、貧血で倒れそうになりながら女が言った。しかし、やはりどこかズレている。この女は小さな虫や血が怖くても、人を二、三人は平気で殺めていそうな蒼羽自体は怖くないのだ。


「そう、そうだ! 怪我、平気ですか……!? 起き上がっても大丈夫なんです……!?」


「……っく」


「ああっ。やっぱり痛いんですか……!?」


 血相を変えて近寄ってきた女の、柔らかな髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。喉からクッと笑いがこみ上げると、蒼羽はもう止まらず声を上げて吠えるように笑った。乱暴に撫でられた前髪の下、女がキョトンと目を丸めているのが見える。


 数時間前まで死を意識し、暴力的な感情が胃の底から湧きあがっていたのが嘘みたいだ。襲撃を受けた時は、ここで死ぬなら一人でも多く道連れにしてやると相手を切りつけ、殴り、蹴り飛ばして骨を砕いた。それさえ終えると今度は諦観さえ浮かんだというのに――――……。


 自分は何故、こんな純真無垢な女といるのだろうか。そして、暴力とは無縁な場所で笑っているのか。


(こいつがサンタなんてふざけた野郎からの贈り物なら、悪くはねえな)


「あの……そんなに笑っても大丈夫です……? 傷に響いたりしない……?」


 女の白魚のような手が、鍛え抜かれた蒼羽の腹にそっと触れる。怖々と伸ばされた手の白さも、伏せられたまつ毛が頬に影を作る様も、甘く濡れた唇も、この女のすべてが好ましいとはじめて気付いた。


「――――……」


 あの路地裏には何時間もいた。血を流し伏せっている蒼羽を奇異な目で見る者、怖がり足早に通り過ぎていく者、まるで居ない者かのように扱う者しかいなかった。それが当たり前だ。一体誰が聖なる夜に血生臭い男と関わり合いたいと思うだろうか。


 蒼羽がのたれ死のうが、道行く人は誰も気にかけなかったに違いない。でも、眼前で小首を傾げる女だけは違ったのだ。


(気でも狂った女かと思えば……)


 女なんて飽きるほど抱いてきた。薔薇のように芳しい香りがする女。指が柔らかく沈みこむほど豊満な女。絹のように肌の滑らかな女。


 宝石と例えても遜色ないような上等な女も、死を意識した瞬間頭には過ぎらなかった。それでも、もし今ここで胸を撃ち抜かれたら、眼前の小動物みたいに愛くるしい女を抱いてから死にたいと蒼羽は思った。


 あの掃きだめのような場所で凍えて、追手という名の死を待つばかりだった自分に、堅気ではない自分に、唯一目の前の女だけが手を差し伸べてきたのだ。


「あの……?」


 女の、腰辺りまで伸びた猫毛を弄ぶ。くん、と毛先を引っ張って女を引き寄せた蒼羽は、人の上に立つことを当然として生きてきた酷薄な双眸で女を射抜いた。


「名前を」


「え?」


「――――名前を教えろ。お前が欲しい」


 ああでもやっぱり、その咲き綻ぶ蕾のような唇が先に欲しい。そう思った時には、蒼羽は女の声を奪い、甘く口付けていた。


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