甘い夢が見られますように
ほんの少しお久しぶりです(*´꒳`*)
何がトラウマになっているのかなんて分からない。それくらい、レイと同じマンションで暮らし始めてからの数カ月は琴の脳内や胸の内で処理できないほど多くの事件が起こった。
誘拐され砂埃のひどい倉庫で拳銃を突きつけられたこと。レイの乗る車が目の前で襲撃され大破したこと。業火の燃え盛るホテルに取り残され、いつ爆破するともしれない恐怖に苛まれたこと。蒼羽に監禁され、リバイブという覚醒剤を打たれ廃人にされそうになったこと、レイがそれによって重傷を負ったこと。
そして――――嫉妬に駆られた蘭世によって、多くの男に強姦されそうになったこと。
太陽が東から昇り西に沈んでいくように平凡な日々を過ごしてきた琴にとって、すべてが脳を揺さぶられるように衝撃的な出来事だった。
そしてそれは、意識がある日中は抑えこめても、闇の濃い夜更けに琴へ襲いかかり悪夢を見せた。
「……っは。はぁっ……は」
暗闇の中、ベッドシーツに埋もれた琴は胎児のように身体を丸める。両手で掻き合わせた胸元が苦しい。小鳥のような脈を打つ鼓動が、死への恐怖を煽りたてる。
助けて、と形作りたい口からは、ヒュー、ヒューと弱弱しい吐息が漏れるだけだった。息ができない。頭がグラグラする。満足に息が吸えないと気づいた瞬間、絶望が氷塊となって喉へ詰まっている気がした。
キュッと丸めたつま先と口元が痺れてくる。怖い、助けて、助けて。
怯えを映した大きな瞳が、枕元のテディベアを見上げる。がらんどうの瞳がこちらを見つめ返しているのが暗がりの中かすかに確認できた。
その時――――……。
「琴!」
パチッという音とともに、大きく見開かれた目に光が差しこむ。電気がつけられたのだろう。鮮明になった視界に、パステルカラーで統一された四角い部屋が映った。
それから、こちらへと大股で歩み寄ってくる血相を変えたレイも。
照明の光を弾く眩いペールブロンドを乱しながら、レイは琴のベッド脇に屈みこむ。蒼い宝石をはめ込んだ桃花眼が、心配そうに琴を見下ろしていた。
「琴? どうした?」
「れ、く……は、ぁ……」
「過呼吸か……琴、大丈夫だ、落ち着いて息を吐いてごらん」
「ふ、あ……」
「……大丈夫、大丈夫だから」
混乱を極めた琴は、自らが過呼吸であることも認識できない。それを察したレイは、シーツと琴の背中に手を差し入れて抱き起こすと、琴を抱きしめた。
泣きじゃくる子供を宥めるように、震える琴の背をそっと撫でさする。
溺れたような息を零す琴の耳へ、レイは海のように深い声で言った。
「大丈夫。上手だね……ほら、息を吐いてみよう。一緒に、そう、出来たね。じゃあ、今度は一緒に吸おう。泣かないで、大丈夫だよ」
室内を満たしていた琴の荒い呼吸が、徐々に穏やかなものに変わっていく。レイの白いシャツがしわになるほどきつく握りしめていた琴は、最後に大きく息を吐いた。
「……落ち着いた?」
「ん……大丈、夫……ごめ……」
レイに抱え込むように抱きしめられたまま、琴は小さく零す。口元がまだ痺れて上手く話せない。頭が冷静になると、激しく取り乱した自分が恥ずかしくて、琴はレイの腕の中溶けて消えてしまいたくなった。
「ごめんね、私……何で過呼吸なんか……」
いや、原因は痛いほど分かっている。今もなお大きく波打つ心臓が、過去のトラウマを刻んでいるからだ。それでも、理由をレイに知られるのは嫌だった。
レイと付き合っていくと決めた以上、こんなことにも耐えられないような彼女だと思われたくない。しかし、蒼白になった唇を噛みしめた琴にレイは気付いた。
「……ストレスだね。ここ数カ月の」
言い当てられ、琴は乱れた前髪の隙間からレイを仰ぎ見た。濡れたまつ毛に縁どられた瞳が、何故分かったのかと雄弁に語る。レイは琴の身を蝕むトラウマを憎むように顔を歪めた。
「ちが、私……」
「ごめん、琴。僕といると琴を傷つけてばかりだ」
「違う! 私がっ、私が弱いから……っ」
傍にいると傷つけてしまうというのなら、それは琴も同じだ。レイの白いシャツの下には、琴のせいで負った銃創が生々しく残っている。そしてそれは、おそらく一生消えない傷だ。
傷つけあってばかりいる。傷つけられても、傷つけても、お互い離れないと誓った。それでもこんな闇の深い夜は、二人を迷わせた。
何故他の恋人同士のように、平穏な日々を過ごせないのかと。それはレイが神立レイである限り、琴が宮前琴である限り、叶わない夢に思えた。
事件が二人の行く先にいつも立ち塞がるのだ。そしてそれは過ぎ去っても、互いの心に深い爪痕を残している。
「僕は弱い琴でも好きだけど……」
おもむろにレイが言った。上体がふわりと浮いたかと思うと、レイに抱きあげられる。驚いて咄嗟にレイの逞しい首へ腕を回せば、額に柔らかく唇を落とされた。
「レイくん……?」
「残念ながら、琴はとっても強いんだよね」
「ほえ……」
「自分が苦しむと分かっていても、僕を庇って優しい言葉を吐くくらい強い」
「そんなこと……」
「謙虚は、君の強さだ。強いから謙虚でいられるんだよ。琴」
いっそ、お前のせいで怖い目にあったと罵ってくれた方がずっと楽だけどね、とレイは苦笑した。
「レイくん……どこ行くの?」
琴を軽々と抱き上げたレイが部屋を出たので、琴は不思議に思って尋ねた。鼻筋の通ったレイの横顔は、隣の部屋をしゃくる。
「僕の部屋」
「え……」
「一緒に寝よう。今日からずっと」
「ええっ!?」
慌てふためく琴を余所に、レイは器用に開けっぱなしになっていたドアへ身体を滑りこませる。
レイの部屋は温かな間接照明に照らされており、一面の壁が背の高い本棚になっている。その部屋の中央には琴が四人ほど横たわれそうな広いベッドが鎮座していた。
昼間に取りかえたばかりでお日様の匂いがするライトグレーのシーツの海に、琴は丁重に下ろされた。
「れ、レイくん、今日からずっとって……」
「嫌?」
「嫌じゃないけど……」
今までも、レイと一緒のベッドで眠ることは度々あった。大体が、雷がひどくて琴が一人で眠れない時だとか、心が不安定な時だったが。
なので、今日もそういう理由なら分かる。が、今日からずっとというレイの言葉に、琴は驚きを隠せなかった。
「レイくん、お仕事忙しかったりするでしょう? 疲れて帰った時に私が同じベッドにいたら邪魔じゃない? 熟睡できなかったり……」
「邪魔なんて思ったことないよ。幸いこのベッドは二人で横になってもスペースが余るくらいだし、それに……」
肩を抱かれてそっとベッドへ横たえられ、琴はそのまま、口元へ毛布を引っ張り上げられる。琴が何かを発する前に、レイによってベッドの中、しっかりと抱きこまれた。シャツ越しに伝わるレイの胸の厚さと、力強い鼓動、それから絡められた長い足に羞恥がこみ上げる。
何度一緒に眠っても、この瞬間だけは慣れず、琴は熟れた果実のように赤くなった。
「あ、う……」
「それに、琴といた方がよく眠れる」
「……湯たんぽみたいだから……?」
以前に言われた言葉を繰り返す琴に、レイは喉を震わせて笑った。中性的な容姿とは裏腹にぽっかりと浮き出た男らしい喉仏が揺れるのを、琴は間近で見つめた。
「意地が悪いね。……琴といると、安心するんだ。琴は?」
「それは、私も……」
「じゃあ決まりだね」
もしかすると、レイは琴がこれからもまた自分が見ていないところで過呼吸になったり魘されたりするのではないかと危ぶんで一緒に寝ることを提案してくれたのかもしれないと琴は思った。その優しさに感謝と申し訳なさが募る。
「ありがとレイくん……でも、もう大丈夫だよ。レイくんが居てくれるって思ったら、何だって平気だもん。もう過呼吸も起きたりしないよ」
事実、もし過呼吸になってもレイがすぐに駆けつけてくれると分かった今、再び過呼吸に襲われるとは思えなかった。深い夜が生み出した不安な気持ちは、レイに背中をあやすよう撫でられた瞬間、淡い雪のように溶けてしまったのだ。
「レイく……」
「鈍いなあ琴」
「へ?」
レイの力強い胸にギュッと抱きこまれ、琴は頭上から落ちてくる声に耳を傾けた。レイの鎖骨に当たった鼻が、お揃いで使っているローズマリーとティーツリーのシャンプーと、それからレイの石鹸の香りを拾う。
「僕が琴のそばにいつもいたいんだよ」
「え……あ……」
「ここまで言わせるなんて、悪い子だね」
「ほえっ!? ちょ、レイくん、わ、くすぐった……!」
毛布の下、ニヤリと笑ったレイに琴は薄いわき腹をくすぐられる。レイの節の高い指にくすぐられた琴は、それから笑い疲れて眠った。
眠りに落ちる瞬間に見えたレイの顔は、とても慈愛に満ちていて。皮の厚い指先で琴の丸い額を撫でる仕草も、前髪を掻き分けて額に落とした唇の優しさも、貝殻のように小さな耳へおやすみと囁いた声の甘さも、すべてが琴に好きだと伝えていた。
番外編の一弾目はやはりこの二人に……。
次回からは蒼羽の番外編を投稿したいと思っています。彼の愛した女性との過去、そして未来を。