彼はおモテになるようです
雷は腹に響く音も嫌いだし、唐突にピカッと光るのも心臓に悪くて嫌だ。そんなこちらの都合も知らずに不安な気持ちにさせる雷の一番嫌いなところは、落雷で停電する可能性があること。
小学生の頃、両親が揃って出張だった夜に停電が起きたのはひどいトラウマだ。真っ暗な中、激しく窓を叩きつける雨の音と、うねる風の音がお化けの呻き声のようで怖かった。
(そういえば……)
風にしなる庭の木の影が怖く、一人布団に丸まって大泣きする琴の元へ、停電を心配してレイが訪ねてくれたことがあった。泣きべそをかく琴を馬鹿にすることもなく、レイは一緒にベッドに入り、背中をトントンと叩きながら寝かしつけてくれた。
(あの頃から、レイくんはずっと優しくて、私のヒーローだ……)
しかしさすがに今も雷が苦手だと知られれば、呆れられちゃうかもしれないなぁ。そう思いながら、琴は保健室に向かう途中、分厚い灰色の雲が横たわった空を眺めた。
レイが弁当を用意してくれる日は、保健室で昼食を取るのが習慣になりつつある。朔夜は艶やかな黒髪を掻きあげ、若干の呆れを滲ませながらも迎え入れてくれるから好きだ。
「ここは食堂じゃないぞ」
そう苦言を呈しつつも、保健室の冷蔵庫の上にある籠には、以前はコーヒーの粉しか置いていなかったのに最近は琴の好きなココアや紅茶の茶葉まで用意されているのだから、レイといい朔夜といい、大人二人はとことん琴に甘い。
「弁当は自分で作るんじゃなかったのか?」
琴の座る机とは背を向ける形で、パソコン机で資料作りに精を出していた朔夜が言った。
「そうしたいんだけど、最近全然起きられなくて……」
これは何かの病気だろうか。せっかく目の前に養護教諭がいるのだからと、琴は思いきって朔夜に相談してみた。
パソコンと向き合っていた朔夜は、話を聞くとギッと椅子の足を回し、琴の頭からつま先までを眺める。朔夜の鷹のような目に見つめられ、琴はいささか緊張し、下唇を引き結んだ。
「常に眠いのか? 突然意識が飛ぶような眠気に襲われることは?」
「ないよ。むしろ快眠のおかげで、日中は全然眠くならない」
「ふむ。……病気ではなさそうだな」
眼鏡のブリッジを中指で持ちあげながら朔夜は言った。
「本当? じゃあどうして起きられないんだろう。おかしいよね」
「毎朝アラームに気付かず寝すごしてるのか?」
「毎日ってわけじゃないよ? レイくんが泊まりこみの日とかは、自分で起きてる……。これってやっぱり、レイくんに依存しすぎてるのかな? レイくんがいる日は甘えてるから起きられないってこと?」
「いや……」
朔夜は思い当たることがあるのか、含みのある様子で否定した。
「琴、目覚まし時計は持っているか?」
「うん? あるけど、秒針のカチコチ鳴る音が苦手で電池抜いちゃってる……」
琴がそう言うと、朔夜は机の引き出しから時計を取り出し、琴へ投げて寄こした。室内を横切るように美しい放物線を描いてすっぽりと琴の両手に収まったそれは、ずしりとした重みがあり、高価なものだと如実に伝えてくる。
落とさなくて良かったとこめかみに冷や汗を滲ませる琴の心境など知らず、朔夜はのんびりと言う。
「ならこの時計を貸してやるから、アラームをかけ枕元に置いて寝るといい。そうだな……携帯のアラームより十五分ほど前にかけておくことを勧める」
「ほえ……」
「恐らくそれで、お前が疑問に思っている謎は解けるはずだ」
朔夜の不可解な発言に、琴はきょとんとする。閉めきられた窓の向こうでは、中庭の紫陽花がたえず雨に洗われていた。雨脚は強くなるばかりだ。
霞が関に荘厳とした佇まいで構える警視庁。その広い建物内で、レイは刑事部捜査第一課の警部補として、最近解決した事件の事務処理を終えたところだった。
犯人逮捕時に破損した店からの請求書が溜まった机や、ファイルがうずたかく積まれた部下の机とは違い、レイの机まわりはこざっぱりと片付いている。
椅子の背もたれに背中を預け、ぐっと腕を伸ばして伸びをする。肩甲骨のコリをほぐしパソコンの電源を落としていると、部屋の入り口から二十代半ばの美女が顔を出した。
警察官らしく飾り気のない黒髪を一つに束ねたその女性は、薄化粧にも関わらずはっきりとした目鼻立ちが目を引く日本美人だ。部屋に入ってきた途端、室内にいた刑事の目が彼女に釘付けになった。何人かは彼女に魂を抜かれたような顔をしている。
そんな刑事たちには目もくれず、その婦警は、奥の席から立ち上がったレイの姿を捉える。レイと目が合うと、ぽってりとした唇に笑みを携えヒールを鳴らしながら近寄った。
「神立さん。お仕事今終わりですか? どうですか? 一杯」
「……片平か」
レイは背広に腕を通しながら愛想よく笑う。
「飲み会か? 警察官同士親睦を深めるのはいいが、羽目を外しすぎないようにな」
「神立さんも行きましょうよ。神立さんが来てくれたら、女性たちみーんな喜びますよ?」
長いまつ毛にふちどられた瞳を期待に染めながら、片平明日美は上目遣いでレイに言う。
男女ともに好かれているレイは、男性の刑事からすれば尊敬すべき上司であると同時に、今現在警視庁一の美人に迫られている羨ましい存在でもある。複雑そうな部下たちの視線を受け流しながら、レイは窓の外へ視線をやった。時刻は七時を回ったところだ。平素ならこの時期はまだ薄明るいが、生憎今日はバケツをひっくり返したような大雨のせいで暗い。
「ああ、いや、折角の誘いだが、雷雨になりそうだし今日は帰るよ」
「ええ? でも神立さん車だから、雨は関係ありませんよね?」
片平は食い下がった。レイは肩をすくめる。
「まあな。ただ――――」
レイの脳裏に、今朝はいつも以上に湿気を含んだフワフワの髪を揺らして、陰鬱そうに窓の外を眺めていた琴の姿が浮かぶ。
「家で震えて待っている子がいるから」
そう呟いたレイの目は、どこまでも慈愛に満ちていて優しい。刑事としてのレイの理知的かつ怜悧な表情を見慣れている片平は、その表情に瞠目した。
片平が見とれている間に、するりとレイは隣を通り抜け帰っていってしまう。残された片平は、動揺から長い指で肉厚な唇をなぞった。
「警視庁一の美人の誘いを断るなんて、また神立さんの色男伝説が増えたなぁ」
部下の一人が、部屋を後にしたレイの後ろ姿を眺めながら言う。片平は気の強そうな眦をキッと吊り上げると、その部下につめ寄った。
「神立さんってたしか、一人暮らしでしたよね?」
「あ、知らないんですか? この前から、知り合いの娘さんを預かっているらしいですよ。たしか高校生だとか……あんなに急いで帰るなんて、よっぽど可愛いんですかねぇ」
「高校生……」
片平は小さく呟くと、ふうん、と険しい顔で腕を組んだ。