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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第三章
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知っていたのよ貴方は光

「作業玉として、宮前くん、君は実に優秀な働きをしてくれた」


「約束……?」


 レイは琴と神立次長を交互に見、怪訝そうな顔をした。


「宮前くんに言われたんだ。作業玉になる代わりに約束してほしいことがあると。私はレイの見合いを取り消すことを条件として提示した。だが、彼女の望みはそうではなかった。……私に、レイ、お前へ、お前の母親についてどう思っていたのか、一切の嘘をつかずに語ってほしいと頼んできたんだ」


 そう、それこそが、琴が作業玉として任務を果たす条件だった。


 レイの色素の薄い双眸が揺らめく。レイの掛け布団を握る手に力がこもったことを、琴は見逃さなかった。


「見合いの件は、最悪相手方に、諦めてもらえるまで自分が頭を下げるからいい、と。それよりも、レイに本当のことを話してやってほしいと宮前くんに頼まれた」


 レイは琴を振り返った。いつもは堅固な意志の秘められた青い宝石が、不安げに揺れていた。


 琴は椅子をベッドへ近付けると、一回り大きなレイの手を安心させるように両手で包みこんだ。その仕草を静観していた神立次長は、初めてその瞳に優しい色を織り交ぜた。


「……宮前くんの条件を聞いた時、正直驚いたよ。君の……その強さはなんだろうな。そして、優しさは。とても平凡な娘なのに、その小さな身体に一体どれほどの力を秘めているのか。非常に興味深く思ったよ」


 レイと同じアーモンド形の瞳を綻ばせて言った神立次長に、琴は頬を染めて俯いた。


「実は、もし宮前琴が作業玉になり心を病むようなら、同じ作業玉だったエリーのようにそれほど繊細なら、レイの隣に並ぶには向かないと思った。が、宮前くんは想像以上のことをやってのけてくれた」


「……母さんが、作業玉だった……?」


 レイは当惑したように言った。


「ああ。当時私は潜入捜査中に彼女と知り合い、エリーには作業玉として潜入先のカルト教団の壊滅に一役買ってもらった」


 神立次長は当時を思い出しているのか、古びたアルバムのページをめくるように懐かしそうな口調で言った。


「エリーは美しく聡明な女だった。仕事にしか興味がなかった私を夢中にさせるくらいにね。作業玉として利用されていると知りつつも、健気に私を慕ってくれた。ああ、そうそう、エリーを作業玉にするよう提案したのは、当時公安の裏理事官として指示を出していた三乃森議員だった。どうだ。我ながら子供っぽいだろう。作業玉としてエリーと距離をつめておきながら、私は作業玉にすることでエリーを追い詰めた三乃森議員を、一泡吹かせたいとも思っていたんだ」


 そんなこぼれ話を挟みつつ、神立次長は瞑目した。


「周囲の反対を押し切って結婚した。愛していた。捜査に耽って固く閉ざされた冬の森のような私の心に、エリーの頬笑みは春を与えてくれた。翌年、レイ、お前が生まれ、それからしばらくしてエリーは体調を崩した」


 神立次長は、開いた手のひらをじっと見つめていた。その様子は、指の間をすり抜けていった幸せな時間を惜しんでいるようでもあった。


「本当はエリーの傍にいたかった。だが、当時の私は潜入捜査官として忙しく、カルト団体の残党からも命を狙われ、迂闊にエリーに会って、彼女に危害が及ぶことを恐れた。だから見舞いには行けなかった。唯一彼女に会いにいったのは、エリーが療養のためイギリスに渡ると決意をした時だった」


 それが、朔夜の父親が伽嶋病院で神立次長がレイの母親を見舞いに来ているのを見た日だろうと琴は思った。


「元々身体が弱かったエリーは病気を患って日に日に衰弱していき、お前を育てるなんて到底無理だった。そして、泣きながら私に願ったんだ。――――レイには、自分を捨てたひどい母親だと伝えてくれ、と」


 神立次長の顔が苦悶に歪む。彼がこれほど感情をあらわにしているのを、琴は初めて見た。


 レイの手の甲が白くなる。布団を引きちぎるほど強く握りしめたレイは、強い口調で言った。


「どうして」


「己の過去を恥じたからだ。いずれ警察のトップとなる私の汚点になりたくはないと常に嘆いていた彼女は、当時作業玉として行ってきた所業を恥じていた。おそらく情報を聞き出すために、カルト教団の教祖と寝たこともある。レイには、そんな母親だと恥ずかしく思われるくらいなら、未練もないほど嫌われた方がマシだと泣いて願った。もしも母親の影を求めてレイが泣き続けるより、いっそ嫌って思い出したくもないと考えてくれた方がいいと」


 琴は以前の神立次長との電話を思い出した。蒼羽と一夜を共にすることを断った琴に対し、神立次長は『君は断るんだな』と言っていた。そして、琴にはその時の彼の口調がどこか安心しているようにも聞こえた。


 口では琴に皮肉を言いながらも、神立次長は琴がエリーと同じ選択をしなかったことを心のどこかでホッとしていたのではないだろうか。


 琴は力んだレイの手をほぐすように、そっと掛け布団から外してやりながら言った。


「作業玉であることを隠した理由、実際にやった私は、少し分かる気がします。これが人々のためになることだって分かっていても、悪人相手だって分かっていても、嘘をつくのは心が痛くて、相手の弱味を探って騙しているって思うと、心がひび割れそうだった」


「エリーは優しく、臆病で、繊細で、純真で……ひとりよがりな女だった。ひとりよがりは私も同じだな。母親に捨てられたと勘違いして傷つくお前より、私は妻の意志を尊重した」


「……これが、私がエリーをどう思っていたかのすべてだ」


 と、神立次長は立ち上がって言った。


 イギリス製の時計に視線を落としてから、上着を手に取り帰り支度を始める。多忙な身だ。本来なら警察病院に顔を出している暇もなかったに違いないが、わざわざ琴との約束を果たすために時間を作ってきてくれたのだろう。


 レイは黙っていた。色々な思いが彼の小さいけれどぎっしり詰まった頭脳に押し寄せているのだろうと琴は思った。毛嫌いしていた父からの告白は、ないがしろにしていたと思っていた母への愛が詰まっていた。


 そう、最愛の人の最後の望みを守るために、父は息子に恨まれてまで嘘をつき通してきたのだ。


 賢いレイのことだ。父親にそんな一面があると知れば、今までレイにつらくあたりノンキャリアであることを責めてきたことも、それがレイの身を案じての不器用な父なりの心配だったのだと分かってしまう。


 息子に苦労をしてほしくはないという父の親心が、嫌でも分かってしまう。


 それがとても複雑だったのだろう。長い間こんがらがり、あとは糸を切るしかないと諦めていた誤解がまた一つするりとほどけたことに、レイの頭は理解しても心が追いつかないのだ。


「レイくん……」


 琴は力を失ったレイの手を、自らの指と絡めた。レイは少し伸びたペールブロンドの前髪越しに、弱ったように琴を見て笑った。


 神立次長は部屋を横切り、扉に手をかける。しかしふと立ち止まり、初めてばつの悪そうな顔をした。


「……本当はせめて、これだけでも幼いお前に伝えるべきだったかもしれないな」


 レイは首を傾げた。


「何をです?」


「お前の名前の意味。エリーがつけた――――レイ――――『光』だそうだ」


「……!」


 ドクリ、と心臓が跳ね上がる。思わずキュッと握りしめてしまったレイの手を、今度はレイが優しく包みこんでくれた。沢山の人を救ってきた皮の厚い手が、琴の手の甲を愛しげに撫でる。


「知ってました……名前の意味」


 虚をつかれたような神立次長に、レイはようやく、皮肉でも嘲りでもなく、朗らかに笑った。


「本当は知らなかった。でも、琴がきっとそうに違いないって教えてくれたんです。レイの名前の意味は、光に違いないと」


「そうか……宮前くん、君が……」


 神立次長は、琴を見つめて頭を下げた。王者のように君臨し、沢山の駒を積みあげた山の頂上に据えられた冷たい玉座に一人腰掛けていた背の高い男が腰をおる姿を、琴は初めて見た。


「ありがとう。……息子を頼むよ」


 レイの父親に、二人の交際を認められた瞬間だった。


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