冷たい玉座にすわる覇者
「……どうぞ。そろそろ来ると思っていました。琴を捕まえてくるとは思いませんでしたが」
一目で高級だと分かるピュアウールのピンストライプスーツを着た神立次長は、息子の刺々しい口調を意に介した様子もない。
整えられたロマンスグレーの髪も、定規を当てたようにしゃんと伸びた背筋も、他を従えることを当然とした冷徹な目も相変わらずだ。そして、年を重ねても色あせることのない、息子によく似たその美貌も。
整った顔同士で睨み合うのはできればやめてほしい。見ていて胃に穴があきそうだ。
元々たれ目だというのに、困ったせいでますますたれていく自らの目が若干心配になりながら琴はドアを閉めた。
琴が部屋の壁に立てかけてあるパイプ椅子を広げて勧めれば、神立次長は心地のよいテノールで礼を言って座った。彼が掛けるだけで、ただのパイプ椅子が、巨匠が手掛けた高級ソファに見えるから不思議だと琴は思った。
琴は出ていくか迷いドアに視線を走らせたが、その視線を察したレイと神立次長の両方から同席するように言われる。静電気のようにバチバチした空気の中には居たくなかったが、レイが心配でもあったので、琴はすごすごとベッド脇に元々置かれていた丸椅子へ腰を落ち着けた。
不安を紛らわせるように、腰まで伸びた亜麻色の髪を琴が指でいじったところで、神立次長が切り出した。
「三乃森議員はおかんむりだよ。君の息子は娘になんてことをしてくれるんだとつまらん電話を寄こしてきた」
琴の強姦未遂の件は、示談の方向に進んでいる。娘が娘なら、親も親らしい。
「それでも蘭世嬢は、まだお前のことが好きらしい。お前は宮前くんの強姦未遂を理由に縁談を断ったそうだが、蘭世嬢は認める気はないそうだ」
「その件ですが――――もう何度も蘭世さんや三乃森議員にも言っていますが、縁談はお断りします」
「警察を辞める気か?」
「いいえ。そうせずとも、破談にする用意は整えています」
「ほう? ……それは?」
神立次長は興味深そうに片眉を吊り上げてから、レイの行動を見守った。レイは琴が座っている方とは反対のベッド脇に備え付けられた棚の引き出しから、A4サイズの封筒を取り出した。その中に入った書類を、ベッドのオーバーテーブルへ広げる。神立次長が立ち上がり、その書類を吟味するように上から眺めた。
「――――三乃森議員と、犀星会の癒着の証拠です」
「ほう?」
神立次長の瞳が、この部屋に入って初めてきらめく。琴は目を瞬いた。
――――レイは何と言った? 三乃森議員と、犀星会の、癒着? 大物政治家と、暴力団が繋がっている?
唖然とする琴を余所に、男二人は話を進めた。
「三乃森議員は選挙で票を獲得するため犀星会に全面的な支援を受けている。そして見返りとして、犀星会に関する脱税の告発をことごとく握り潰しています。今ここに広げた書類は、その証拠を集めたものです」
「なるほど?」
神立次長は書類を一枚持ち上げて手の甲で叩くと、ニヤリと笑った。
「やるじゃないか。この証拠が出回れば、三乃森議員は失墜する。そうなれば蘭世嬢とお前の縁談は破談に持ちこめるだろう。考えたな」
レイは仕事の傍ら、自力で不正の証拠を集めていたのだ。琴は『縁談を断ってみせる』と約束したレイがさすがに無策だとは思わなかったが、琴との交際のためにここまでやってくれるとは思わず、感動と驚きで口をポカンと開けた。
(やっぱり、レイくんは神立レイなんだ……)
苦労をおくびにも出さず、しなやかに実行する。そして約束を守るスマートな男――それが『神立レイ』なのだと、琴は思い知らされた。
琴がレイに惚れ直している隣で、しかし父親に褒められたレイは不服そうだった。
「よく言う……貴方は最初からこれが目的だったんでしょう。三乃森議員の不正を暴くことが」
レイは砂を噛むような面持ちで言った。
「僕は貴方の手のひらで踊らされていただけだ。貴方は僕が縁談を断るため三乃森議員について探ることを予想し、また、琴を蒼羽と接触させることで、嫉妬した僕が蒼羽について調べて犀星会の存在に辿りつくよう誘導した。そして調べを進めていくうちに僕が三乃森議員と犀星会の癒着に気付き、蘭世さんとの縁談を破談にするため証拠を揃えてくると踏んでいたに違いない。違いますか?」
レイは不機嫌を隠しもせず神立次長を睨みつけた。
「三乃森議員の汚職は、政治家への信頼を失墜させる国家の汚点だ。まして、リバイブの件で蒼羽が捕まり犀星会の名が連日ニュースで取りあげられている今は特に。国家を守る警察庁次長としては、暴きたいスキャンダルでしょう。どうですか、貴方が望んでいた通りのものですよ」
「期待はしていたが必ずしも上手くいくとは思っていなかった。予想以上の結果に満足している。お前が揃えた証拠があれば確かに三乃森議員は破滅だ……が、これは私が預かっておこう」
「そんな……!?」
琴は椅子を引き倒す勢いで立ち上がった。
(まさか、もみ消す気じゃ……!?)
琴の心配が顔に出ていたのだろう。封筒に書類をしまった神立次長は、考えの足らない子供を叱るように言った。
「宮前くん、世の中というのは君が思うほど綺麗でも単純でもなくてね。一介の刑事が告発しようと、事実は簡単にねじ伏せられ、葬られてしまうんだよ。下手をすれば、葬られるのは癒着の証拠だけではなく君たちだ」
脅しでも何でもなく、それが真実なのだろうと、はっきりと分かる物言いだった。
「不正を不正だと声を上げるには、力が必要だ。レイ、お前には実力があるのに権力が伴っていない。だからノンキャリアでおさまったお前に私は失望したんだ」
「でも、そんなのおかしい……っ」
「琴」
血管が浮かぶくらい拳を握りしめた琴を見やり、レイが気遣わしげに呼ぶ。神立次長は感情的になる琴へ呆れたように
「話は最後まで聞きなさい」
と続けた。
「一介の刑事ならともかく、官僚の私からこの不正の証拠をちらつかせれば、三乃森議員も大きくは出られまい。三乃森議員の不正は世に出ることはないが、この証拠を脅しとして、三乃森議員には早々に表舞台から去っていただく。汚職を理由に、見合いの件も私の口から断ろう。もちろん、蘭世嬢には宮前くんに二度と近寄らないよう誓約書も書かせてやる。政治生命と娘の縁談、天秤にかけるほど三乃森議員も親ばかではないだろう」
「……三乃森議員と警察庁長官は懇意な仲だと聞いています」
レイは懸念を口にした。
「ああ。だから不正を白日の元にさらそうとすれば、邪魔をされるだろう。そうなれば私の身も危ない」
「……不正を今ここでつまびらかに出来ないならせめて、さっさと貴方が警察庁のトップに登りつめて不正や犯罪のない社会を作ってください。それが、僕と母をないがしろにして仕事に生きてきた貴方の贖罪だと思いませんか」
「ああ……そうだな。もし私が警察庁長官の座についた暁には――――その翌日に、うっかりと『何者』かがリークをして、三乃森議員の不正が明らかになるやもしれん。まあ、その時まであの能なし議員をのさばらせるつもりはないが」
神立次長は薄い口の端を吊り上げて悪戯っぽく笑った。その表情が、とても生き生きして魅力的に見えた。
(少し分かった気がする。この人は、単にキャリアに固執しているわけじゃない……。少なくとも、大義の名の元に国民を守るには、権力が必要だと感じているんだ……。でも……)
「……っ本当に最初から、三乃森議員の不正を暴くことが目的だったんですか?」
「いや、もちろん、人々を闇に引きずり込もうとする組織を潰すことが最重要事項だ。ただ問題が同時に三つ片付けば、これほど好ましいことはないだろう?」
再び席にゆったりと腰掛け、長い足を組み、両手の指の腹を合わせた神立次長があっけらかんと言う。琴はパイプ椅子より高級ソファより、この男には金の装飾をあしらった玉座の方がピッタリだと思った。
見合いの破談、三乃森議員の汚職、そして反警察組織の壊滅。それを同時進行で片付けてしまったのだ。彼は椅子にかけたまま、琴やレイ、多くの人間という駒を動かして。
これが超絶ハイスペックなレイの父親なのだと、琴は改めて思い知らされた。
琴が圧倒されていることに気付いたのだろう、神立次長は円熟した顔に笑みをかたどって言った。
「本来なら私がすべて行動できればいいんだが、次長の立場ではできることが限られているのでね。君は知らないだろう、宮前くん。立場が上になればなるほど、制約が伴い不自由だ。いっそ登りつめれば、自分の好きに変えられると期待しているがね」
だからこの人は、キャリアとして上を目指しているのだ。そして、おそらく息子にもそうしてほしかったに違いない。ノンキャリアというだけでキャリアの言うことを聞かねばならぬような状況を、避けてほしかったのだろう。
琴はそう思った。そう、レイは神立次長が家庭を顧みず、冷たいだけの父親だったと思っているが、琴はそれだけではないと思っている。その証拠を――――……。
「さて、約束を果たそうか。宮前くん」
神立次長はパッと両手を広げると、目尻に皺を寄せて微笑んだ。思考の鎖を切られた琴だったが、彼が切り出した話こそが今、琴が求めているものだった。
残すところあと2話になりました。引き続きお付き合い頂けると嬉しいです。




