恋敵は突然に
レイは今週いっぱい入院することになった。養護教諭だけあり怪我には人一倍うるさい朔夜は、レイの嫌がるような小言をねちねちお見舞いしたあとで琴を家まで送ってくれた。
深夜に病院を訪れた折川の報告によると、蒼羽と反警察組織のリバイブの取引は予定通り明日ファンタジーランドで行われるようだった。
沢山の捜査員を配置し、取引現場を押さえるとのことだ。蒼羽の証言によれば、『暁の徒』の幹部も出席するらしい。上手くいけば覚醒剤の取引をネタに『暁の徒』を壊滅に持ち込めるかもしれないと折川は息巻いていた。
しかし、それは琴にはもう関係のない話だ。琴の任務は蒼羽をスパイにすることで、琴は立派に役目を終えた。そのあとのことは公安警察の仕事で、琴は彼らの仕事が上手くいったかどうかを、テレビのニュースや新聞で目にすることになるのだ。
それでいい。また一つ日常が戻ったと琴は思った。公安の捜査官が血のにじむような努力をした成果を、琴は当事者ではなく、一人の国民としてホッとしながら目にできればいい。
しばらくはニュースから目が離せなくなりそうだと思いながら、琴は何度も何度も感謝を述べる折川の手を握って別れた。
長い一日を終えて帰宅した琴は、朝に出ていったばかりの家に対し、一カ月ぶりに帰宅したような気分になった。とはいえ、レイはいない。本当に再び自分のあるべき場所へ帰還できたと実感できるのはもう少し先になりそうだと思いながら、疲れがどっと押し寄せて、琴は泥のように眠った。
目が覚めたのは、昼近くになってからのことだった。そういえばまる一日何も食べていないことを思い出し、冷蔵庫を開ければ大した食材も見当たらないので軽く身支度を済ませて近所のパン屋へと向かう。
もう盗聴器入りのブーツを履く必要もないので、今日はシャギーチェックのコートに合せた黒いムートンブーツだ。
久しぶりに履くブーツに慣れないまま到着したのは、休日に朝寝坊をした時よくレイとブランチを食べに行くパン屋だ。
ドイツの絵葉書から抜け出てきたような外観のパン屋はイートインのスペースがあり、冬でなければ日が燦々と照ったテラス席で、大通りを眺めながら毎月の新作パンを頂く。昨日の今日で外出するのには若干の抵抗があったが、このあとレイの入院する病院へ見舞いに行く予定なのでまあいいだろう。
ソテーされたリンゴにたっぷりの黄金色のりんごジャムとキャラメルカスタードが載ったデニッシュも、レイが向かいに座っていないだけで何だか味気なく感じる。しかしお昼で混み合った店内で窓際の席を確保できたのはラッキーだったと思いながら、琴がホットティーに口をつけたところで、ふと視界が陰った。
香ばしいパンの香りに混じって、ラベンダーのような香りがする。不思議に思って琴が顔を上げると、思いがけない人物が立っていた。
「相席、いいですか?」
ミルクティー色のふわふわしたショートカットを揺らした蘭世が、トレーを手に琴を見下ろしていた。
誰もが知っている衆議院議員の娘でもある彼女が、チェーン店のパン屋に何の用だ。琴は舌を焼くような熱さのホットティーをごくりと嚥下しながら、彼女は自分に会いにきたに違いないと思った。
「三乃森蘭世です。貴女は宮前琴さん……ですよね?」
胸元に花の刺繍が入ったフレアニットのワンピースを着た蘭世は、感じのよい笑顔で名乗った。袖口から覗く腕は相変わらず華奢で、ピンクダイヤのミディリングで彩られた指は深窓の姫君のように白く細い。
琴も色白でよく白ウサギに似ていると学友に例えられるが、蘭世の白さは、磨き上げられた真珠のようだった。持ち物一つ一つが洗練されていて、高級品を纏っているのに嫌味がない。
ともすればどこにでもいる女子大生のような見た目なのに、椅子にかける所作やピンと伸びた背筋から品を感じた。
「覚えていらっしゃるかしら……以前にホテルのレストランでレイさんと一緒にいる時にお会いしましたよね?」
「あ、はい……。あの……」
私に何か? なんて馬鹿げた問いを投げかけそうになって、琴は思いとどまった。蘭世がこうして自分の前に現れた意味なんて一つに決まっている。レイのことだ。
「ああ、突然ごめんなさい。驚かせてしまいましたよね? どうしよう、何て言ったらいいのかしら……」
蘭世は参ったように両手で額を押さえた。それから、丁寧な言葉を選びながら琴に自分はレイの婚約者だと名乗る。落ち着かないのかカップを撫でる指が震えていて、琴は蘭世が本当にレイに惚れこんでいることを悟った。
「実は以前貴女にお会いした時の、レイさんの様子が気になって……その、お二人は幼なじみと仰ってましたけど、レイさんは宮前さんのことをとても熱っぽい瞳で見つめていらっしゃったから……。だから、失礼を承知で宮前さんの口から直接お聞きしたくて、貴女のことを少し調べさせていただきました……。レイさんと、同居なさってるんですね……。どういうご関係なんですか……?」
今にも気絶してしまいそうなくらい弱弱しい声で蘭世が尋ねる。琴は胸がツキリと痛むのを感じつつも、背筋を伸ばして答えた。ここは、嘘をついていい場面じゃない。
蘭世のレイを想う気持ちは痛いほどに分かるが、自分も譲れないのだ。レイだけは。
「……恋人、です。蘭世さんとの縁談についてはお聞きしています。でも、すみませんが、レイくんと別れるつもりはありません」