責められたいと泣いた夜
琴は医師が放った言葉を反芻しながら、朔夜に付き添われてレイの眠る病室へ向かった。
音を立てずに扉を開けると、月明かりに青白く照らされた個室のベッドで、レイの厚い胸板が上下していた。病室に身体を滑り込ませた琴の後ろに立っていた朔夜は、扉の隙間からレイの穏やかな寝顔を確認すると、ロビーで待っていると言い残し去っていってしまった。
普段憎まれ口を叩きあっているとはいえ、友人のことが心配だろうに。それでも朔夜がちらりと様子を見ただけで部屋を去ったのは、琴に気を使ってのことだろう。朔夜の優しさに、琴は感謝した。
「数ヶ月前も、こんなことあったね」
琴はベッド脇の丸椅子に腰かけながら、静かに眠るレイへ語りかけた。
襲撃犯とカーチェイスをしてレイが病院に運ばれたのは記憶に新しい。医師は琴のお陰でレイが無茶をする回数が減ったと言ったが、そんなことはない。レイはいつも彫刻のように綺麗な身体に傷を作っている。
よりによって、今回は琴のせいで。
「……それでも、レイくんのそばにいたいなんて、傲慢だよね……」
視界がゆらゆら揺れたと思ったら、レイの姿がぼやけていく。悔悟の情が胸の内から溢れては、涙という形になって流れ出た。自己嫌悪で消えてしまいたくなる。
「……泣かないで、琴」
ふとまつ毛に温かい指先を感じて目を開ければ、レイが気遣わしげにこちらを見上げていた。点滴に繋がれていない方の手が、白露のようにはらはらと散る琴の涙を優しく拭ってくれる。その仕草に、琴の涙腺はますます緩んだ。
「ごめんなさいレイくん、ごめんなさい……っ」
「琴、もういいから」
「よくないよ! だってこんなに……!」
レイの頬には大きなガーゼが貼られ、腹や腕にも包帯が巻かれている。あらためて痛々しいレイの姿を見ると、琴は心臓を握りつぶされるような痛みを感じた。
「私のせいでレイくんを危険な目に遭わせちゃった……」
時間が経てば経つほど、後悔が波のようにとめどなく押し寄せて琴を苛む。いっそ向こうみずだった自分を激しく罵ってほしかった。
彼を守りたくて作業玉になったのに、彼を危険な目に遭わせてしまっては意味がない。
「琴、それは」
「私、最低なの」
「琴?」
「だってきっと……レイくんは蘭世さんと一緒になれば出世の道が拓けて、安全な地位に立てる。でも私といたら、危険な目に遭う。ちゃんと分かってるの。分かってるのにそれでも……それでも私と一緒にいてほしいなんて、思ってしまって……私、最低……」
最後の方は、風に掻き消されてしまいそうなほどか細い声だった。膝の上に置いた手に静脈が浮かぶ。
「それに……私、レイくんに守ってもらう価値なんてもうない……」
「琴?」
琴の瞳が虚ろになったことに気付いたレイは傷口を押さえながら起き上がると、怪訝な表情で聞き返した。琴は無意識に拳を当てて唇を隠す。
混乱の中で薄れていたが、ホテルで琴は蒼羽にキスをされたのだ。無理やりとはいえ、レイ以外の男性にキスをされてしまった。レイが蒼羽に会うのはやめてほしいと望んでいたにも関わらず、任務のために蒼羽と会った結果が、レイを裏切るような行為に発展してしまったのだ。
突然唇を押さえた琴に、聡いレイは敏感に異変を感じとった。深海のように暗い室内で、レイのアイスブルーの双眸が心配そうにきらめく。
「琴……? 蒼羽に何かされた?」
「…………」
琴はますます深く俯いた。
「……キス、された?」
琴が小さく息を飲む。それだけで、レイには伝わったようだった。
「……そう」
「……っごめんなさい、レイくん! 嫌わないで、ねえ、嫌わないで……捨てないで、お願い、ごめんなさい、謝るから、だから」
「許せないな」
レイの固い声に、琴は言葉を紡げなくなる。しかし、レイの細い指は泣いて熱を持った琴の頬を、涙の筋をなぞるように撫でた。
「琴をこんなボロボロになるまでに助け出せなかった自分が許せない」
「レイくん……?」
「怖かっただろう。ごめんね、琴。もっと早く助けにいけばよかった」
「ちが、違うよ……謝るのは私だもん、許せないのも、私だもん」
琴は身も世もなく泣いてレイに追いすがった。
「私……っ私は、レイくんに怪我させてしまった自分が許せない……! レイくんを裏切るようなことをした自分も……!」
作業玉になることは、国のために必要なことだった。沢山の人々のために重要なことだった。頭ではそう理解していたし、そのために行動もした。でもそれでも、琴の中でずっと、レイより優先すべきことなんてないという思いがあった。
だから、役目を果たした今になって自分に嫌悪感がわくのだ。
「違うよ、琴。僕は、自分が助かるために蒼羽にわざと撃たせたんだ。蒼羽の動きを封じられなかったら今頃それこそ死んでしまってた。自分のために撃たせたんだよ」
「でも、それは私を助けにきたせいで」
「もし琴を助けにいかずあのまま琴が蒼羽のいいようにされていたら……それこそ、心が死んでしまったよ」
「でもっ」
「ねぇ琴、今は想像がつかないかもしれないけど、琴が作業玉になったことで、多くの人が救われるんだよ」
「……でも、それでも……私がレイくんを傷つけた……!」
「でも、そうだね」
どこまでも自分を責めようとする琴を遮り、優しく諌めるような口調でレイが言った。
「琴が許せないって言うなら……お互いが自分を許せないうちは、僕たち傍にいないといけないね。お互いがお互いを守りたいと思う内は、ずっと傍にいよう。琴、前に言ってくれただろう? 『二人一緒なら、不幸だっていい』って。僕も同じだ。誰かといる幸せより、琴といる不幸を選ぶよ。不思議なことに、それは僕にとっての幸せだしね。琴といられるなら、何だって幸せなんだ。琴は違うの?」
「ん?」と首を傾げ、凪いだ海のように尋ねるレイに、琴は小さな子供のようにしゃくりあげた。
(ああ、何でこの人はこんなに――――……)
「――――……私も、レイくんといられるなら、何だっていいよ。幸せだよ……っ」
「ならよかった。僕らはお互いが必要だ」
琴の両頬を掬うように包みこみ、レイは琴の丸い額に唇を落として淡く微笑んだ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、濡れた頬に猫毛を貼りつかせている琴を、レイは愛しげに見つめる。その瞳があまりにも慈愛に満ちていたから、琴はますます泣きじゃくってしまった。
幼子のようにしゃくり上げる琴の背を、レイの温かい手がトントン、と優しく叩く。消毒液の匂いに包まれながら揺りかごのような安息に身をゆだねていると、抱きしめられた腕の中から、レイの力強い鼓動が聞こえてくる。胸を押し上げるような鼓動の強さから、レイが生きようとしている証拠を見つけて、琴は安心してまた頬を濡らした。
いつまでも泣きやまない琴にレイが眉を下げ、綺麗な歯並びを見せて困ったように小さく笑う。月光に染まったレイの髪がさらりと揺れたと思うと、病室に伸びた二人の影が一つに重なった。
しばらく重なりあっていた影を、寒々しい木にひっかかった青い月が窓から見下ろしていた。
それから夜更けに折川が合流するまで、琴はレイと答え合わせのようにたわいない話をしていた。
例えば
「ホテルで私を助けに来てくれた時、高層階からどうやって窓を割って入ってきたの……?」
という琴の問いに
「屋上からロープを使って下りてきたんだよ」
とレイが何でもなさそうに答えたり。逆に
「ねぇ琴、よくモールス符号を覚えていたね」
とレイが話を切り出してみたり。
「やっぱりレイくん、あれ聞いて助けに来てくれたんだね。不思議だね、レイくんは作業玉の件を知らないはずなのに、きっと助けに来てくれるのはレイくんだって信じて疑わなかったの。だから、モールス信号でレイくんに助けを求めたんだよ」
「へえ……琴はたまに、本当に無意識で僕を喜ばせるね」
「へ?」
頭にハテナマークを浮かべる琴に、レイはクスクスと笑った。二人でこんな風に笑うのはとても久しぶりで、ようやく日常が戻りつつあることを琴は噛みしめた。




