立ち上がろう、信じてくれるなら何度でも
窓が破壊されたことにより、刺すように冷たい風が部屋に流れこんで琴の長い髪を舞いあがらせる。しかし、琴の目頭は求めていた人を見つけたことで熱くなった。
(ああ、やっぱり――――……)
「レ、く……」
「遅くなってごめんね、琴」
ああ、夢じゃない。琴は思った。銃声で鼓膜が破けようとも、この声だけは拾える自信がある。世界で一番、何よりも焦がれてやまない、愛しい声だ。
「レイくん……!」
琴が叫んだのと、蒼羽が引き出しから取り出したサイレンサーをつけて発砲したのはほぼ同時だった。
レイの耳の横を通り抜けた弾丸は、背後のテレビに命中する。レイは破り取ったカーテンをマントのように広げると、蒼羽に投げつけ目くらましに使った。蒼羽の銃撃は止まない。琴は青ざめた。
「レイくん!」
「ヒーローのおでましか? どうやってこの部屋が分かった?」
琴から身を起こした蒼羽は、レイに照準を合わせたまま口の端を歪めた。
「宿泊には偽名を使っていたはずだが?」
「貴様が今組み敷いている彼女がファンタジーランドの近くにいると教えてくれた」
レイは忌々しそうに蒼羽を睨みながら言った。
「瑠璃が……?」
蒼羽が横目だけで琴を振り返る。琴は肘を使い、注射器をベッドの下へと落とした。泣き濡れた顔で、蒼羽を挑むように睨みつける。
「説明してもらおうか? 刑事さんよ」
「ホテルの下に落下していた琴のブーツから、大体の部屋の目星はつけていました。あとは、ファンタジーランドに無理を言って打ち上げさせた花火です」
「花火だぁ?」
蒼羽は疎ましそうに窓の外で輝く花火を一瞥した。
「普通花火が上がれば、ホテルにいる客は窓やカーテンを開けて見る。まして、パークと提携しているホテルに泊まるようなパーク好きの客なら尚更だ。だから、花火が上がったにも関わらず一切反応がない部屋が、琴がいる部屋だと分かった」
「そうかい。そいつは名推理だ。だが一つ推理し忘れてるぜ」
蒼羽はクッと喉を震わせると、愉しげに笑った。
「ここが、テメエの墓場になる場所だってな」
そう言った瞬間、蒼羽が再び引き金を引いた。咄嗟に避けたレイの髪を、弾丸がかする。琴は悲鳴を上げた。
「逃げて!!」
どうやらレイは銃を携帯していないようだった。リビングルームへ飛びこむレイを追い、蒼羽が銃を乱射する。花瓶が砕け、照明スタンドは割れ、ドアに風穴があいた。
「この前の銃撃のように、弾切れになるのを待つつもりか? マカロフ相手にそいつァ、いくらテメエでも分が悪いんじゃねえか」
この前の銃撃で使用されていたリボルバーの拳銃と違い、オートマチックのマカロフは装弾数が多い。弾切れを待っていては、身体に穴があく方が先になってしまう。
「返事はねえ、か」
穴のあいたドアを蹴破り、蒼羽がリビングルームへ足をかける。その瞬間、ドアの横に隠れていたレイが低い位置から一瞬にして現れた。長い手には特殊警棒が握られ、蒼羽の顎を狙い撃つ。顎に命中したことで蒼羽の撃った弾は上にそれ、シャンデリアを撃ち落とした。二人の背後で、シャンデリアがテーブルに落下する。欠けたパーツが上質な絨毯に真珠のように散らばった。
よろめいた蒼羽に、レイの突きが繰り出される。しかし蒼羽はそれを、拳銃を持つ腕でいなした。レイの攻撃を、肘を振りおろしてはねのけ、再びレイに照準を構える。レイはそれを警棒で弾くと目にもとまらぬ速さで回りこみ、蒼羽に足払いをかけた。
ぐらつくところへ、畳みかけるように関節技をしかける。しかし、さすがは犀星会の幹部。蒼羽は自分よりウェイトの軽いレイを投げ飛ばした。
すかさず受け身を取り、ソファの上に着地するレイ。しかし、休む暇なく蒼羽の猛追が襲う。レイはローテーブルに足をかけると、それを縦に押し上げ、壁を作った。そのまま、渾身の力でローテーブルを蹴り飛ばせば、蒼羽はそれを忌々しげに避けた。
迷いなく急所を狙って撃ちこんでくる蒼羽の凶弾から逃げるため、レイはダイニングのテーブルの下に滑りこむ。琴はここまでレイが苦戦するのを初めて見た。
「レイくん……!!」
琴の声に悲鳴が混ざる。もし、もしレイが負けたらどうしよう? レイの身に何かあったら、自分は……!
「もういいよ、レイくん! 逃げて、死んじゃったらヤダ!!」
「だとよ。尻尾巻いて逃げたらどうだ。瑠璃は俺が幸せにする」
「抜かせ。あの子の本当の名前も知らないくせに」
テーブルから滑り出たレイが、一足飛びに蒼羽の間合いへと飛びこむ。蒼羽の撃った弾がレイの頬をかすり、琴は悲鳴を上げた。
「レイくん!!」
悔しくて、怖くて涙が止まらない。どうしてそこにいけないの。どうして。
手錠の食いこんだ琴の手首から血が滴り、シーツに血だまりを作る。ひどく噛みしめた唇から血が滲んだ。
「ねえレイくん! お願い、やっぱり逃げて! 私のことはいいから! レイくんが生きていてくれたら、もうそれでいいから!」
「ふざけるな!!」
レイの声が花火よりも大きく響いた。
「俺は君を助けるために来たんだ!!」
レイの振りおろした警棒を、蒼羽が拳銃で受け止める。鍔迫り合いのような拮抗が続き、レイが押し勝った。そのまま流れるような突きを繰り出し、テーブルに蒼羽を追いつめる。
「だから俺は死なない。君が信じてくれる限りはな!! 信じろ!!」
「……っ」
胸を突く思いだった。
(死なないって、今確かに言った……レイくん……)
琴の瞳に、涙が盛り上がる。数ヶ月前のレイとはもう違うのだと痛感した。いつ死ぬか分からないからと琴を突き放したレイとはもう違う。彼は確実に、琴といることで変わった。死ぬのを厭わないレイから、生きようとあがくレイに変わったのだ。
レイは生きようとしてくれている。琴が共にある限りは。
その変化が、危険な局面に立たされているというのに、琴は涙が出るほど嬉しかった。
「……っ信じてるよ!! ずっと、いつも……っ今も信じる!! 神立レイは私のヒーローだって!!」
「じゃあヒーローが助け出すまで、そこでいい子にしていてくれ」
子猫をあやすように言って、レイが笑う。琴はレイからは見えていないと理解しつつも、涙で詰まりながら頷いた。
「……面白くねえじゃねえか。なあ?」
レイの腹を蹴り飛ばしながら、蒼羽が唸った。
「瑠璃は俺のものだ」
「彼女はお前に渡さない。自由を奪って、誰かの身代りにするようなお前にはな」
「あいつは瑠璃だ」
「そう思い込みたいだけだろう! 死人は戻らない! お前の身勝手にあの子を巻きこむな!!」
レイが畳みかけるように攻撃を繰り出した。蒼羽は歯噛みする。
「テメエ……柔道……だけじゃねえな。空手と、妙な動きしやがって」
「エスクリマです」
警棒でフィリピンの武術を駆使し、近寄ればすかさず関節技をきめようとするレイに蒼羽は憎々しげに発砲する。いくらレイが速くても、接近戦に持ちこめなくては分が悪い。
レイが走り出すと、蒼羽の銃弾がそれを追いかける。レイの腕を銃弾が掠め、緋色の線が舞った。レイが失速したところで、蒼羽はマガジンを装填し直した。
その隙を見逃さず、レイは壁を走ると、後ろから回りこんで蒼羽の首に腕をかける。そのまま反動をつけて後ろに投げ飛ばせば、蒼羽の巨体が絨毯に倒れる。すかさずマウントを取ろうとしたレイだったが、蒼羽は身を捻ってよけた。
「さっすが、犀星会の幹部となれば一筋縄ではいきませんね」
「テメエもお伽噺の王子とは違うようだな」
「ええ。僕は王子じゃありません。でも……」
レイは真正面から蒼羽の懐に飛びこみ、勝負をしかけた。
「琴を助け出し彼女の隣に寄り添うのは、悪党ではなく俺だ!」
「……っ!?」
まるで捨て身だ。レイの拳が蒼羽の鼻先をかすめる。拳が視界いっぱいに広がった蒼羽は、隙だらけで襲いかかってきたレイに一瞬反応が遅れた。しかし、半身を捩じって一歩下がると、隙のできたレイのわき腹に銃弾をぶち込んだ。
鮮血が飛沫を上げる。花弁のように散る真っ赤な血に、琴は金切り声を上げた。
「いやあああああっ!! レイくん!!」
レイの足元に血だまりができる。しかし―――――。
「……ッチ」
いつの間にか花火の音が止み、部屋に蒼羽の舌打ちが響いた。レイに銃口を向けたままのその手首は、レイによって骨が軋むほど握られている。眉を険しくさせた蒼羽が、苦々しげに呟いた。
「テメエ……何つう真似しやがる……」
「捕まえた」
悪戯っぽいレイの声がした。ブルートパーズの瞳は、撃たれても光を失わない。むしろ、その眼は標的を捕え、不敵な色を浮かべていた。
「自分が鉛玉を食らってでも、あの女を取り戻したいってか……」
狂ってる、と言わんばかりの蒼羽に、レイは「当然でしょう」と言った。
レイは蒼羽の動きを止めるためにわざと隙を作り、致命傷を避けてわき腹を撃たせたのだ。案の定、レイを撃ったことで油断した蒼羽には隙ができ、レイは蒼羽の腕を拘束することに成功した。蒼羽の手から銃が滑り落ちる。手首に走った激痛に、蒼羽は喉を引きつらせ、脂汗を滲ませた。
レイは至極冷静に、そして微笑んで言った。
「……申し訳ありませんが、手首の腱を切らせてもらいました。これで拳銃は握れませんね。さあ、お互い武器を捨てて、試合再開といきますか?」
そのまま、拳を握ってファイティングポーズを取るレイ。しかし次の瞬間――――ドアが蹴破られ、波のように機動隊が押し寄せた。