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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第三章
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黒白相見える時

「……っんん!」


 ぬるりとした舌が入りこもうとしてきたのを感じ、琴は咄嗟に蒼羽の下唇を思いっきり噛んだ。短く呻いた蒼羽が、琴から身を起こす。血色の悪い蒼羽の薄い唇から、鮮血が滴ってベッドシーツに落ちる。


 蒼羽は節くれた指で唇をなぞると、指の腹を染める真っ赤な血を見て愉悦の表情を浮かべた。蛇のような瞳孔をした蒼羽の瞳が嗜虐で細められるのが、琴には恐ろしくて堪らなかった。


「交渉は決裂だな。瑠璃」


「……っ」


「お前が俺のものにならないのなら、俺は公安のスパイにはならねえ」


「だったら! ……さようならですね。私を解放してください」


「そうはいかねえな。俺はお前を手放す気はねえ」


 琴は信じられないものを見るような目で蒼羽を凝視した。この男は何を言っている? 否、蒼羽が琴に執着していると、琴は理解したくなかった。


「私は、貴方の恋人にはならないと言ったはずです」


「ああ。だからスパイの件は交渉決裂した。バカな女だ。頷いておけば、自由に愛してやったのに」


「……え……?」


「俺は犀星会の蒼羽であり続ける。捕まる気もねえ。……お前が泣こうが喚こうが、手放す気もない。お前は俺のもんだ」


 琴は零れ落ちそうなほど目を見開いた。驚愕を浮かべる琴の亜麻色の髪を、蒼羽は慈しむように梳いた。


「お前が欲しいものはすべてやる。だから俺のそばにいろ。瑠璃……」


 麻薬のような言葉が琴の耳に流れこみ、全身を麻痺させる。指先が恐怖で痺れた。


「自由以外なら、全て買い与えてやる」


「……っお、断りします……っ!」


 琴は怯みそうな心を必死に奮い立たせて噛みついた。


「私には、愛してる人が他にいます」


「神立レイか」


「……っ。そうです」


「関係ねえな。お前が誰と付き合っていようが愛していようが、瑠璃は俺のものだ。お前がこれから愛するのは俺だ」


「何、言って……」


 瑣末事だと言わんばかりの蒼羽に、背筋が粟立って泣きたくなる。まるで言語が通じない相手に道理を訴えている気分になった。


 震えだした琴の額に、蒼羽が口付ける。それにすら嫌悪感が湧いて、琴は瞳を潤ませた。


「もう二度とあの男には会わせねえ。そうすりゃ諦めもつくだろう」


「会わせないって……私をどうするつもりですか……!?」


「分からねえか? 囲って、閉じこめて、俺しか見えなくさせる。それでも俺を見ねえなら……そうだなぁ」


 皮の厚い蒼羽の指の腹が、すい、と琴の柔い下まぶたを撫でた。


「その眼球、見えなくしてでも俺の隣にいさせてやらァ」


「……貴方、それ……」


 本気で言っている、と琴は直感した。


 蒼羽は、琴が抵抗し続けるなら本当に、物理的に琴を蒼羽しか視界に映せなくさせるつもりだ。そうして、鎖でつないでゆっくりと、確実に心をむしばんでいくに違いない。


 自らが望む『瑠璃』にするために、この男はきっと『琴』を殺す。琴が『琴』であろうとする心を、証を殺していくのだ。


(何それ……。何て勝手な……私、私は……)


 身体が震える。ほの暗い手に掴まれ、深い闇に引きずりこまれそうな恐怖で。琴の十七年間を否定し、瑠璃として生きさせようとする蒼羽の狂気で。鎖に繋がれ、二度と外に出してもらえないかもしれない戦慄で。


 そして、怒りで。


「ずっと……」


 琴は上ずった声を出した唇を噛みしめると、気丈に言い放った。


「ずっと、貴方とレイくんを似ていると思っていました。見た目は正反対だけど、大切な人を失った孤独な背中が一緒だと。…………でも、確実に違うものがある」


 琴は涙の滲んだ瞳で、蒼羽をきつく睨んだ。


「レイくんは、私を本当に閉じこめたりしなかった」


 そうだ。レイは、琴を誰よりも大事に扱ってくれた。琴を、琴として見てくれた。


「無茶をする私を、彼も閉じこめたいと口にしたけど、決して本当に行動に移したりしなかった。誰かの形代にしようともしなかった。それは、私を、私の個を尊重してくれたからです。貴方とは違う」


 蒼羽が一流ホテルや高級レストランにばかり連れていってくれた意味が、琴は今なら分かる気がした。女の子なら誰だって一度は憧れるシチュエーションを演出して、お姫様のような気分にさせて、いざとなったら琴が蒼羽を望むように刷りこもうとしたのだ。


 琴をダメにしようとした。今回はレイじゃなく、蒼羽が。


 圧倒的な経済力で欲しいものは全て買い与えて、琴を手中におさめようとしているのだ。


(でも、私は……)


「私は、蒼羽さんと同じように私を無理やり囲う力を持ちながらも、それをしなかったレイくんがいい。私を手折らないように自らを制してくれたレイくんに応えたい」


 琴は蒼羽を睨んだまま、痛烈に言い放った。


「お金で買った誠意に意味なんて、まして愛なんてないです。ここから出してください」


「――――……黙れ」


「いやです、私は」


「黙れ!」


 ドンッと鈍い音が響き、ベッドが揺れた。鼓膜が痛んでくらくらする。風穴のあいた枕から羽毛が舞い、琴は羽根越しに、こちらを向いた銃口を見つけた。そしてその先に、鬼のような形相をした蒼羽がいる。


 琴の顔すれすれに撃ちこまれた弾丸は、ベッドを貫通していた。


 右手の親指でセーフティを下ろしたのが見えたと思ったら、一瞬でハンマーを起こし、トリガーを引かれた。目にも止まらぬ速さだった。きっと蒼羽は、琴が今まで対峙してきたどの犯人よりも鮮やかに琴を殺せるのだと、琴はまざまざと思い知らされた。


「――――……なあ瑠璃。お前は瑠璃だろうが。何故俺に刃向かう?」


 蒼羽は拳銃を投げ出すと、アッシュグレイの髪を掻きむしった。


「俺は悪い夢でも見てるのか? なあ……それとも、お前が悪い夢の中にいるのか?」


「そ、うばさん、聞いて、私は」


「夢の中にいるなら、俺が覚まさせてやる」


 蒼羽は犬歯をむき出して笑うと、卵型のランプが置かれたベッド脇の引き出しを引いた。中から出てきたペンケースのようなものを取りだして蓋を開ける蒼羽。それを見た瞬間、琴の心臓が凍った。


「それ……!」


「ああ。リバイブだ。瑠璃、これでお前を正気に戻してやらぁ」


 小型の注射器には、液体に溶かされた状態のリバイブが入っていた。それを手に取って笑う蒼羽に、琴の全身が総毛立つ。針の先から漏れた液が、シーツに小さなシミを作った。


「ま、って……やだ……」


 琴は蒼羽から最大限距離をとろうともがいた。しかし、手錠が邪魔をしてシーツの海に溺れるだけだ。馬乗りになった蒼羽を足で蹴っても、容易に掴まれる。身を捩じって注射器から逃げようとしたが、恐怖に絡め取られた瞳は、注射器から視線を反らせなかった。


「やだ……! お願い、やだ」


「怖がるな、すぐによくなる」


「ならない! やだ! ホントにいや! 触らないで!」


 氾濫を起こしたように涙が溢れ出る。ボロボロと泣きだした琴を、蒼羽は痛ましそうに見つめた。酷薄な唇が、聞き分けのない幼子をあやすような口調で言う。


「大丈夫だ、俺がいる」


 何が大丈夫だ! 琴は思った。クスリで琴を廃人にして、別人に置きかえようとしているくせに!


「大丈夫だ。これからも少しずつ打って、ちゃんと昔の瑠璃に戻してやる」


「いや! 私は瑠璃さんじゃない! 私は……っ」


 激しい憤りで、琴の目の前が赤く染まる。しかし、漏れるのは嗚咽ばかりだった。必死に首を振って抵抗するが、とうとう蒼羽に細腕を掴まれる。冷たい針の先がひたりと皮膚に押しあてられ、琴はヒクリと喉を震わせた。


「いやああああああっ!!」


 ――――ドン、ドン、ドン!!


 琴の絹を裂いたような悲鳴と、外から響く大砲のような音が被った。鈍く痛む琴の細腕には、注射針が刺さっている。しかし、突如外から上がった轟音に反応して、蒼羽は注射器の押し子に手をかけたまま止まった。


「花火か……?」


 どうやら、ファンタジーランドでパレードの花火が上がったらしい。分厚いカーテンの隙間から僅かに、パークの上空を鮮やかに染める色とりどりの大輪が見えた。


「……っち」


 忌々しげに舌を打ち、蒼羽が窓から再び琴へと視線を戻した。


 涙に濡れてぼろぼろになった琴へ、蒼羽は冷酷に告げた。


「この花火のでかい音なら、叫んだって助けはこねえな。お前の求めるあの男だって来ねえよ」


「やだ……やだ……!」


 死なら、一瞬だ。一瞬で無だ。でも、クスリなら?


 徐々に精神を蝕まれて、クスリがないと生きられない身体にされて、最終的には琴ではなく瑠璃だと朦朧とする頭に刷りこまれて、廃人にされる。レイを忘れるように洗脳される。


 それが、死ぬことよりも怖いと思った。


(レイくんを、忘れさせられる…………)


 琴を孤独から救ってくれたレイを、琴を何より大切にしてくれるレイを、忘れさせられる。


「やだ……レイくん……レイくん……っっ!!」


 じわりじわりと、蒼羽の押し子に当てられた親指が動く。リバイブが流れこみそうになる。琴はしゃくり上げた。


 その時――――……。


 ガシャアアアンッとけたたましい音を立てて、観音開きの窓が外側から破壊された。カーテンがちぎり取られ、ガラス片がダイヤのようにキラキラと宙を舞う。砲撃を受けたように割れた窓枠と、吹き飛ぶ蝶番。


 そして――――……。


「――――呼んだ? 琴」


 凍える冬の月のような金糸の髪。怜悧な色を秘めた、意志の強いアクアマリンの瞳。そして、耳に心地のよい声。


 夢でも見ているのだろうか。焦がれてやまないレイが、窓から飛びこみ、ガラス片の散らばった部屋の床に立っていた。



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