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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第三章
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まだ戦うよ、何度でも

 頭がひどく重い。四肢は鉛玉でもつけられているようだ。身体がゆらゆらと揺れて、浮遊感を覚える。どうやら誰かに抱きかかえられているらしい。


 ああ、またリビングで海外ドラマを見ている途中で睡魔に襲われ、ソファで寝てしまったのをレイが抱っこしてベッドまで運んでくれているのだろう。


 いつも琴がウトウトし始めたところで、レイはそっとマグカップを琴の手から抜き取り、彼の肩に頭を預けさせてくれる。だから安心しきって寝てしまった琴を、まるでガラス細工を扱うようにそっと抱き上げてくれるのを、琴はいつもまどろみの中で感じていた。


「れ……くん……」


(ごめんね)


 心配かけて。悲しませて。傷つけて、ごめんね。


 ああ、重い瞼を押し上げて謝ることができたらいいのに。最後に見たレイの、傷ついた顔が忘れられない。


 琴は温もりを求めて手を伸ばす。くん、と掴んだ服からは、レイの石鹸の香りはしなかった。


(――――……ああ、夢なんだ)


 レイに会いたくて、夢を見ているんだ。だって、レイからはこんな煙草の香りはしない。人工的な香水の香りも。


(……夢でもいいから、会いたいよ)


 やがて、平たい後頭部が綿菓子のような感触に包まれる。どうやらベッドに寝かせられたようだ。レイと離れたくなくて無意識に伸ばした手に、静かに落ちるかさついた唇。


 その感覚がレイとは違う気がして、琴は目を瞑ったまま眉をひそめた。


(……こ、こは……)


 ゆるりと脳に覚醒を促され、琴は目を開ける。しばらくは頭がぼうっとして視界がぼやけていたが、やがて焦点が結ばれると広くて白い天井が見えた。


「……?」


 自分の部屋とも、レイの部屋の天井とも違う。視線を彷徨わせると、クリスタルのペンダントシャンデリアが吊り下がった、豪奢な客室が広がった。


 寝かせられているベッドのそばには、猫足の足置き台が置かれている。分厚いカーテンで閉めきられた大きな窓の傍にはマホガニーのテーブルと、背の青い一人がけのソファが鎮座していた。


 ベッド脇のランプに照らされたつる草模様の壁紙は、これらのインテリアを殺すことなく、むしろ上質な空間に仕上げている。


 そして寝かせられているベッドはキングサイズ。エジプト綿のリネンのようだが、琴には快適さより居心地の悪さの方が勝る気がした。


 部屋の様子から察するに――――ここは何処かのホテルの――――……。


「スイートルーム……?」と発しようとして、琴は異変に気付いた。


 声が出ない。いや、口を、布で塞がれている。


 口だけではない。腕を頭上で一纏めにされ、琴は手錠に繋がれていた。手錠の鎖が、欄間のように絵柄のくりぬかれたデザインのベッドの背に通されているせいで、起き上がることができない。


(何これ……っ。何で……!?)


 一体誰に? いや、分かりきっているではないか。自分は昏倒させられる前、誰といた? 誰と――――……。


「…………っ」


 意識を失う寸前に見た凶暴な蒼羽を思い出し、琴は身震いした。途端に、恐怖が背筋を這いあがる。


(そうだ、私蒼羽さんに誘拐されたんだ。落ち着いて、落ち着いて……状況を把握しなきゃ……)


 琴はパニックになりそうな気持ちを必死で抑えつけた。ここがどこかのホテルのスイートルームなら、蒼羽に気絶させられたあと、琴は運びこまれたのだろう。そして監禁されている。


 琴は視線を部屋中に走らせた。この部屋に……蒼羽はいない。ベッドの向かいに一つだけある扉は閉めきられているが、おそらくリビングルームに繋がっているのだろう。しかし、そこからも物音はしなかった。


 蒼羽の気配がしないことに、琴は一先ず息をつく。しかし状況は絶望的だ。監禁され、助けを呼ぼうにも声が出せない。室内は空調管理が行き届いていたが、恐怖のためか薄ら寒く感じられた。


(……コート、脱がされてる……)


 ご丁寧に脱がされたコートは窓際の椅子の背にかけられ、はいていたブーツはベッドの近くに転がっていた。


(ブーツ……?)


 琴はハッと息を飲んだ。


 そうだ! ブーツには盗聴器が仕込まれているではないか! 見たところ、盗聴器が仕込まれたブーツのヒール部分に損傷はなさそうだ。ならばまだ中身は生きている。


(どこかのホテルのスイートルームに監禁されているって現状を伝えられれば、助けがくるかも……)


 しかし、どこのだ? ここは一体どこのホテルなのだろう。窓はあいにくカーテンが閉め切られているため、目印になる景色も何も分からない。


(思い出して……思い出して……何か大事なことを忘れている気がする……)


 琴は薬品をかがされたせいで鈍く痛む頭を酷使しながら考えた。意識を失う寸前に、自分は何かを見たのだ。そう、カーナビ。カーナビが指していた目的地は……。


(ファンタジーランド!)


 ならばきっと、ここはファンタジーランド近くのホテルに違いない! よくよく見れば、欄間のように彫られたベッドの背の絵柄には、ファンタジーランドの人気キャラクターである子猫が隠れていた。


 琴の中で希望が風船のように膨らむ。しかし声を出せないことを思い出し、それは一瞬にして失望に変わった。


(そんな……せっかく場所が分かったのに……)


 相手に伝える術がなくては意味がない。琴は項垂れた。脱力した手首に手錠が擦れて痛い。ジャラリと重い音を立てた手錠は鉛のようだ。


(……今、何時なんだろう。レイくん……もう帰ってきたかな……)


 優しい彼に、また心配をかけてしまった。今頃愛想をつかしているだろうか。それとも、まだ誘拐された時からそんなに時間が経っていなくて、何も知らないまま職務に励んでいる?


 時間感覚が分からないこと、それから拘束され自由を奪われていることが、琴の精神を容赦なく削った。


(レイくん……私……)


 きっと優しいレイは、どんなに琴に対し怒っていたって、琴が誘拐されたと知ったら心を痛めるのだろう。そしてもし琴が無事に帰らなかったら……。


 琴はレイの暗い瞳を思い出す。尊敬する阿澄刑事を目の前で亡くしたあと、レイは迷子の幼子のような瞳をしていた。夢を見ればうなされ、いつもは広い背中が一回り小さく見えた。


 何より、けぶるような孤独を宿していた。


 だから彼に寄り添いたいと思ったのだ。自分が傍にいて癒してあげたいと思った。レイの心に深く刻みこまれた傷を治すことはできなくても、せめて隣にいたいと。


(たとえレイくんが私に愛想を尽かしたって……あの気高い心を、守りたいと思うんだよ)


 だから自分のせいで、レイにまた孤独を味わわせるわけにはいかない。きっと琴が無事に帰らなかったら、レイは壊れてしまう。


 帰らなきゃ。


 琴は思った。こんなところで閉じ込められている場合じゃない。自分の居場所はレイの隣だ。彼の元へ帰らなくては。


「……っんん! んーっ」


 琴は手錠を引っ張った。鎖はびくともせず、手首がすれてヒリヒリするだけだ。手首の薄い皮膚から出血しても、琴は何とか輪の部分から手を抜きだそうともがいた。白い手首にはいくつもの赤い筋が入る。


(指が折れたっていい……関節が外れたって……)


 レイの元に帰れるなら我慢できる。


 しかし無常にも、手錠は外れなかった。ベッドに繋がれている鎖がガシャガシャと耳障りな音を立てるだけだ。


「…………」


(……音……? そうだ……!!)


 目が覚める思いがした。絶望の中に一縷の希望がまたたく。そうだ。口で場所を伝えることができないなら、音で伝えればいい。


(お願い、誰か気付いて……!)


 琴は明確な意図を持ち、手錠の鎖をベッドの背に打ちつけ鳴らし出した。しかし――――……。


 コツリ、コツリ、と先ほどまでは聞こえなかった足音がした。その音は徐々に大きくなり、やがて琴のいるベッドルームの前で止まる。


 何てタイミングだ。琴は急く気持ちのままに鎖を鳴らした。


 そしてちょうど琴が鎖を打ちつけるのをやめた瞬間、真鍮のドアノブが回り、ガチャリと音を立てて扉が開いた。


「暴れてる音がしたと思えば……お目覚めか? じゃじゃ馬なお姫様」


 扉から姿を現したのは、黒いワイシャツ姿の蒼羽だった。彼の肩から背中に流れていった羽根のエクステが、蒼羽が歩くたびに揺れる。


 蒼羽が一歩近寄ってくるたび、琴はベッドの上で小さくなった。自由な足を折り曲げて少しでも蒼羽と距離を取ろうとする琴を、蒼羽は面白そうに睥睨した。


「そう怯えんなよ。傷つくじゃねえか。なあ瑠璃?」


 蒼羽の切れ長の目は凶暴な色を秘めており、琴は身震いした。顔色を悪くする琴にうっそりと笑った蒼羽は、ベッドに近寄った際に琴のブーツに当たった。


 琴の心臓が嫌な音を立てる。思わず盗聴器が無事か気になってブーツに視線を走らせると、琴の目線に気付いたのか、蒼羽は「ああ」とブーツを拾い上げた。


「もうお前が外を歩くこともあるめえ……。これは必要ねえな」


「……ッ! んーっ! んー!」


 琴が抗議の声を上げる。しかしブーツを持ったまま部屋を横切った蒼羽は、分厚いカーテンを開け、それから観音開きの窓を開いた。そしてそのまま――――……。


 琴の目の前で、ブーツを窓の外に捨ててしまった。遅れて、遥か下からドシャッというかすかな音が聞こえてくる。どうやらここは高層階らしい。琴は見なくても、ブーツもブーツに仕込んだ盗聴器も壊れてしまったと悟った。


(そんな……)


 琴はだらりと腕を下げた。蒼羽は血が滲んだ手錠を見咎め、ベッドにギシリと腰掛けると、琴の手を掴みあげた。


「逃げようとしたのか? ……ああ、喋れねえのか」


 琴からの返事がないことに片眉をひそめた蒼羽は、たった今気付いたとばかりに琴の口元に手をかけ、噛ませていた布を外した。


 唾液で湿った布を吐き出しながら、琴は虚勢を掻き集めキッと蒼羽を睨んだ。


「手錠を外してください」


「そいつはできねえ相談だな」


「どうしてですか」


「それがお前の本性か? 随分と気の強ぇ瞳だ。悪くねえ」


「……はぐらかさないでください! 手錠を外して! ここから出してよ!」


「外したら逃げる気だろう? 逃がすわけねえが……俺はこう見えて心配症でなぁ」


 蒼羽の無骨な手が、琴の輪郭を確かめるように撫でた。


「愛する女が他の男に尻尾を振らねえか、気が気じゃねえんだよ」


 そう言った蒼羽の手の力が強まり、琴は痛みに呻いた。


 助けは、来ない。



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