眠れる獅子を起こして
三日ぶりにマンションへ帰宅したレイは、徹夜明けで凝り固まった肩をほぐすように揉んだ。
グレーのセンターベントのスーツがしわになると思いながらも着替えるのすら億劫に感じ、ベッドにダイブする図を思い浮かべて革靴を脱ぐ。
ふと視線を下に落とせば、琴のローファーが転がっているのが視界に入った。しっかり者の琴は靴を揃えることが染みついているはずなのに珍しいこともあるものだ。今日は雪になる可能性が高いし、スニーカーを履いていったのだろうかと思いながらレイはローファーを揃えてやる。
そして氷のように冷えたフローリングに一歩踏み出したところで、胸ポケットに入れていたスマホが震え着信を知らせた。
「……疲れているので今貴方の声を聞きたくはありませんが、何か用ですか伽嶋」
着信相手を確認してから、レイは素っ気ない口調で言った。
通話の相手である朔夜は、レイの態度は気にせず切り出した。少し憂いを含んだ声で。
『琴が休みだそうだが、まさか掲示板の件で学校に行くのが怖くなったりしてないだろうな。ホームルームを終えた琴の担任に聞いたんだが、無断欠席しているらしいが……連絡できないほど具合が悪いのか? 神立くん?』
「……琴が学校へ行っていない……?」
体調が悪いとは連絡が来なかった。例えケンカ中でも体調不良だけは知らせるようにと、以前こんこんと言い聞かせたことがあるのに、琴は約束を破ったのだろうか。
気が重くなるのを感じながら、レイは廊下を進み琴の部屋のドアをノックする。返事がないので一言断ってからドアを開けると、そこはもぬけの殻だった。
『寝てるか?』
「いえ……いません……。というか家に気配がない……それに……」
ベッドの上には脱ぎ散らかされた制服があった。代わりに開きっぱなしのクローゼットからは琴のお気に入りのコートが一着消えている。それに、玄関に転がっていたローファー。学校に行こうとしていたのに、直前で予定を変更し慌てて出ていったような図だ。レイの中で、嫌な予感が膨らむ。
琴の行動に心当たりがありすぎて、徹夜明けの身にめまいがした。ドアに背を預けてズルズルと座りこむ。頭痛がする。レイは稲穂色の髪をぐしゃりと掴んだ。
静かになったレイを不審に思ったのか、朔夜が語気を強めて言った。
『神立くん? 琴は大丈夫なのか?』
「星を」
『神立くん?』
「星を掴もうとしたから、悪かったのかもな」
レイは立てた膝に頭を埋めて言った。
「地上の星なら、掴めると思ったんだ。でも、僕には過ぎた星だった。真夏の夜に輝くベガを手にしたいなんて」
『……しっかりしろ。琴が見知らぬ男と一緒に写っていた写真と何か関係があるのか? 琴は今何をしている』
「そんなの俺が一番知りたい」
『なら、知るといい。胸騒ぎがする。星を一度捕まえたなら、ちゃんと愛でろ。それは琴の恋人である君にしかできないことだろう』
朔夜に喝を入れられ、レイは押し黙る。
朔夜の言うことを聞くのは癪だが、たしかにその通りだ。琴は、レイが捕まえた星だ。たとえレイの知らないところで、蒼羽や折川と接触していたとしても、琴が帰ってくる場所は自分の腕の中だ。
「……たまにはいいこと言うじゃないか。伽嶋」
ニヒルな笑みを零し、レイは朔夜との通話を切る。それからスマホの画面を何度かフリックし、折川の番号を呼び出した。
数回のコールが、静まり返った部屋に鳴り響く。そろそろ留守電に切り替わるかと思い始めた頃、目的の人物は電話に出た。
電話越しに、焦った怒鳴り声や雑音がしたが、レイは気にせず口火を切った。
「琴の居場所を知っていますね? 彼女は今どこです?」
『……何の話だ』
ややあってから、すげなく折川は答えた。レイは冷笑を浮かべる。
「しらばっくれないでください。貴方が何らかの公安の任務で琴を使役し、蒼羽と接触させていたことは分かっています」
レイも、それこそ初めの頃は琴が他の男に靡いたのかと思った。
しかし、琴がそんな浮気な女ではないことはレイが一番よく知っていたから、心配しながらも黙って様子を見守っていた。実際に蒼羽と一緒にレストランにいる現場を目撃しても、激しく嫉妬こそすれ、琴が自分から心変わりしようと、不誠実に浮気するとは信じられなかった。
そして蒼羽を調べてみれば、出てきたのは関東最大の暴力団『犀星会』の幹部であるという事実。
そしたら、今度は琴と折川が接触している写真が見つかった。これで、レイの中で一つの仮説が浮かんだ。琴は、折川――――公安の指示で、蒼羽と接触しているのではないかと。
それからは、心配で気が狂いそうになった。
どうして琴が。何故? 世界で一番大切で、大事に大事に守ってきたお姫様が、何を間違ったら危険の代名詞であるような公安の任務に巻き込まれている? それも、レイが触れるたびいまだに初な反応を示す愛しい恋人が、悪人にベタベタ触られるのを許容している!
どうして自分から火の粉に飛びこみ危険な目に遭おうとするのか、なぜ隠しごとをするのか。
しかし、我慢の限界がきて強硬手段に出るも、琴は結局口を割らなかった。必死に守ってきた花の周りにはいつの間にか蜂が飛び回り、琴の蜜を吸おうとしている! それがレイには許せなかった。
その上己の思いのひとさじでも汲みとってほしいと、痛めつけるつもりで組み敷いたのに、根底に琴を傷つけたくない気持ちがあるレイは、琴に対し最後まで欲を押しとおすことが叶わなかった。
結局、レイに琴を手折るなんて無理なのだ。
代わりに、三日前に家を出てから、レイは仕事の合間に蒼羽と公安について調べていた。どれもこれも厳重に情報が守られ、出てくる情報は犀星会についてばかりだったが。
ただ、調べていない場所がまだ一つある。レイは不敵な笑みを浮かべて言った。
「答えてくれないなら、警察庁のデータベースにハッキングし詳しい情報を抜きだしてもいいんですよ」
『現職の刑事にあるまじき発言だな』
「それほど本気ということを分かってください。三日ぶりに家に帰宅したら、愛しい子が行方をくらませていた気持ちが分かりますか?」
『…………』
「琴はどこです」
『知らんな』
「折川さん」
『本当に――――……』
『ダメです! 蒼羽の車は見つかりましたが、乗り捨てられていました! どこかで宮前琴をつれて別の車に乗り換えた可能性があります。いくつか蒼羽の向かいそうな場所を割り出し、検問を張りますか?』
電話越しに、折川に指示を仰ぐ部下の声が聞こえてきた。聞こえてきた単語に、レイは鬼のような形相を浮かべる。
「……今、琴の名前が聞こえましたが」
『…………』
「蒼羽を捕まえるために検問を張ると? 物騒ですね……まるで……」
『…………』
「まるで琴が誘拐されたような物言いだな! 公安!」
レイは冷静さをかなぐり捨て、青筋を浮かべて怒鳴った。
怒りで目の前が真っ赤に染まる。自分の大切な星が手元から消えただけで発狂しそうなのに、琴が蒼羽と一緒にいる? そして電話から聞こえてくる公安の捜査官たちの焦り具合は、ただ事ではない。それなのに、何も知らされないとは――――……。
「……あのタヌキが、口封じでもしましたか」
レイは脳内に実の父親を思い浮かべ、苦々しく吐き出した。
『……次長の口止めに関わらずとも、公安の捜査内容は秘匿だ』
「おや。だんまりを決めこんでいたのに、この質問には答えるとは、あの男が絡んでいると認めるようなものですね。貴方たち公安は、何が目的で琴を利用している? 答えないなら……」
『……捜査官を半殺しにしてでも吐かせるだろうな、君という男は』
折川はひどく疲れたような声で言った。
『いいだろう。話そう。正直私も焦っている』
電話の向こうで折川の部下の狼狽したような声が聞こえたが、折川は取り合わなかった。
『外部の者に話した責任は私が負おう。次長にも報告を入れる。……手詰まりだ。話すからには、君には手を貸してもらうぞ、神立警部補』
「喜んで」
五分後、ことの詳細を知ったレイは車のキーを手に家を飛び出した。