闇は星を掻き消す
グイッと力任せに腕を引っ張られ、琴のコートの裾から細い手首が覗く。そこには、レイが残した赤い華がうっすらと残っていた。
それを見つけた蒼羽の目が細められる。琴は一気に冷や水をかぶったような心地に襲われた。
「これは何だ? あ?」
「あ……」
「あの刑事にでもつけられたか?」
「ち、ちが……これは、蚊に刺されて……」
「この真冬にか? それは無理があるんじゃねえのか」
なぶるような蒼羽の尋問に、琴は頭が真っ白になる。蒼羽は相変わらず笑みを浮かべていたが、琴にはその笑顔が恐ろしかった。
「ちが、本当に……」
「神立レイ」
レイの名前を出され、琴は電気が走ったように顔を上げた。
「何でその名前を知っているって顔だな……? 警視庁の検挙率ナンバーワンの刑事を、俺のような闇に生きる人間が把握していないと思うか? 容貌までは知らなかったが、連れの女に『レイさん』と呼ばれていたこと、少し前にニュースで騒がれていた金髪の刑事、そして拳銃を持った相手を一瞬で制圧する機動力を見れば、すぐに結びつく。それから……」
蒼羽の酷薄そうに歪んだ唇が、琴の手首に落とされた。レイのキスマークを上書きするように触れてきたと思えば、そのまま犬歯で噛みつかれる。琴は悲鳴を上げた。
「それから、あの男がお前にご執心だってこともすぐに分かった」
「な……っ!?」
「ポーカーフェイスで上手いこと隠しちゃいたようだが、あのホテルのレストランで俺がお前に触れるたびにあの刑事は殺気だってやがった。俺がお前を連れて逃げた時の焦りようからしても、お前はあの男の特別みたいだな」
「そ、それは……幼なじみだから……」
「幼なじみが、手首に痕をつけるのか? こっちは?」
息も絶え絶えに言い訳をする琴のコートのボタンを乱暴に引きちぎり、蒼羽が言った。中に着ていたニットをひっつかまれ鎖骨のあたりまで晒されると、そこにはレイの独占欲の証が点々と散っていた。
「や……っ! やめてください!」
琴は羞恥と恐怖に襲われながら、ニットの襟を掻き抱いた。
「随分冷てぇじゃねえか。俺に会いたくてこの車に乗ったんだろう? 他の男にマーキングされてるなら、俺に同じことをされたって文句はあるめえよ。それとも、あの刑事だけが特別か?」
特別、という単語に反応して、琴の瞳孔が開く。それを見逃す蒼羽ではなく、彼の口元が嗜虐的な弧を描いた。
「目は口ほどに物を言うとは、このことだな」
「ひう……っ」
掴んだ手首を捻りあげられ、琴は呻いた。そのはずみで、かろうじてコートに引っかかっていたボタンが座席の下に落ちて転がる。運の悪いことに、それは折川が用意した発信機のついたボタンだった。
ボタリ、と重い音を立てて落ちたそれが、まるで斬首された頭のように琴には見えた。琴の視線を追った蒼羽は、それを拾い上げてほくそ笑む。琴の息が浅くなった。
「他に男がいながら、何が目的で俺に近付いている?」
「あ……」
「答えろ。素直に答えないなら……そうだな、お前の腕を折るなんざ、片手で十分だ」
琴の手首を掴む蒼羽の力が増す。蒼羽に凄まれ、琴の喉がヒュッと鳴った。
琴の息が荒くなったことに気付いた蒼羽は、ヘーゼルの瞳をたちまち柔らかく細めた。慈愛に満ちた表情が何を考えているのか読めず、琴の恐怖心を煽る。
歯の根が合わない琴の長い髪を、蒼羽は慈しむように撫でた。
「怯えんなよ……俺だって好いた女の手足を折りたくはねえ」
「や……いや……」
「この発信機は、神立レイが仕掛けたものか? お前は神立レイに指示されて、俺に近付いてきたのか?」
「は、発信機? まずいですよ蒼羽さん!」
カーテンの向こうの運転席で沈黙を守っていた部下が、焦った声で言った。
「黙れ。こうすりゃ問題あるめえよ」
「……っ」
折川が琴に取りつけた小型の発信器を、蒼羽は磨き上げられた革靴で踏みつぶした。バキリと、無慈悲な音が鳴る。この世の終わりを告げるような音だと琴は思った。
(――――……まずい、まずいまずい……!)
逃げなくては。
スパイになるよう話を持ちかけるどころか、逆にスパイとばれてしまった今、自らの命が危険だ。ブーツに仕込んだ盗聴器はまだ生きている。この状況を公安の人は知っているはずだ。
(車の、車の外にさえ出られれば……!)
幸い車はまだ発進していないし、ここは駅前だ。人はいる。車内の様子はスモークガラスに遮られて外からは見えないだろうが、ドアを開けて叫べば……!
琴は震える足を叱咤し、蒼羽の一瞬の隙をついてドアノブに手を伸ばした。
もつれる手でドアを開けた瞬間、駅前の喧騒がなだれこむ。時計台の鐘の音、鳩の羽ばたく羽音、車のクラクション、インターネットカフェのビラ配りの声と木枯らし。
海中から顔を出した時のような音の洪水に、数分前の日常に戻ってこられた気がして一瞬琴の気が緩む。恐怖から乾いた舌で、琴は悲鳴を弾きだした。
「誰か助けて……!!」
そのまま地面に片足をかけ、車から飛び出そうとする。涙で滲んだ視界の向こうには、駅舎の方から様子を窺っていた公安と思しきスーツ姿の人が走りよってくる。琴は必死で手を伸ばした。
ああ、助かる――――……。
「な、わけねえだろ」
絶望が、耳元で甘く囁いた。
琴の腹に回った蒼羽の太い腕が、琴を車内へ再び引きずりこむ。ハンドバッグが手から滑り落ち、携帯が道路に転がった。無情な音を立てて閉じられるドア。曇ったガラスの向こうで、公安の捜査官が血相を変えて車のドアノブを引いた。しかし、すでにロックがかかっている。
「出せ」
蒼羽が運転手へ無慈悲に言った。
焦った捜査官が車の窓を割ろうと腕を振りかぶる。しかし、蒼羽の車はギャリッとタイヤを唸らせると急発進した。
駅のロータリーに潜んでいたもう一人の捜査員が進行方向に立ち塞がっていくのが見えたが、その直後ドンッと嫌な音がして、何かとぶつかったような衝撃が車に走り、琴は後部座席に背を叩きつけられた。
嫌な予感がして琴が窓ガラスに額を押しつけると、蒼羽の車に跳ねられた捜査員が道路に倒れているのが見えた。全身の血が凍る。
「死んじゃいねえよ。心優しい、看護師希望さん?」
耳たぶをくすぐるように、蒼羽が琴の耳元で囁いた。
「今はお前が看護師を目指してることすら、本当の情報か分かりはしねえがなぁ」
「何てことを……!」
怒りが恐怖を上回り、琴は蒼羽をキッと睨みつけた。
「跳ねたことが許せねえか? だが俺ァ『そういう』人間だ。まっとうなことをする必要はねえ。それより、今のあれは何だ? 神立レイのお仲間か?」
「……っ違います! レイくんは関係ない……っ」
「ほお?」
「……とにかくおろしてください! 私が貴方に目的があって近付いたと思うなら、もう関わらない方がいいでしょう?」
「そうはいかねえなぁ。お前からは、『犀星会の蒼羽真』に近付いてきた理由をじっくりと問わなきゃならねえし……それに……」
頤を強い力で掴まれて、琴の骨が悲鳴を上げた。
「俺がお前を手放すと思うか? 瑠璃」
琴は瞠目した。まさか、琴がスパイだと気付いてもまだ蒼羽が『瑠璃』としての価値を琴に見出しているとは思わなかったからだ。
「言ったはずだ。もう二度と離さねえと。今車からお前をおろしたら、どこに雲隠れするか分からねえからなぁ」
再び、恐怖が琴の背を這いあがってくる。獣のような獰猛さを宿した蒼羽の瞳が、琴を射抜く。琴は叫び出したくなった。
この男は、いまだに琴に執着しているのだ。琴が何者か分からなくても、それすら関係ないと言えるほど――――……。
「……お、ろして……」
「諦めろ。そして大人しく吐け。そしたら、お前をひどい目に合わせずに済む」
「ひどい目って……もし吐かなかったらどうするつもり……」
琴は大きな瞳を不安げに揺らしながら蒼羽を仰ぎ見た。蒼羽の切れ長の瞳が、残虐な色に染まる。琴の肺を絶望が満たした。酸素が薄い。目の前がチカチカと光で白く染まる。
蒼羽の鷲鼻が近付き、冷えた琴の首筋をくすぐった。
「そうだな……俺は腕の一本、足の一本が欠けたお前だって変わらず愛せるが、できれば傷はつけたくねぇなぁ」
「ひ……っ」
琴はつぶれた悲鳴を上げた。胃の腑が凍る。怯えて後ずさる琴を、蒼羽は溺れた蟻を見つめる子供のように冷酷な笑みで見下ろす。
(怖い、やだ……!)
琴は思わず後ろを振り返り、助けを求めてリアガラスの向こうを見つめた。いつもなら公安の車が少し離れた距離から琴を追ってくれていたはずだが、発信機を壊されては――――……。
琴の動きで目敏く察した蒼羽は、冷酷にも琴の期待の芽を摘み取った。
「刑事がつけてきてる可能性がある。……撒け」
「へ、へい!」
運転手が返事をする。
街道を北上していた車は、蒼羽の一言により急なUターンをかけた。突然の進路変更に驚いて急ブレーキをかけた後続の車が、さらに後ろの車に追突される。追っていた公安の車は事故車に阻まれて、蒼羽の車を追えなくなった。
――――発信機を破壊された今、撒かれたらおしまいだ。助けがくる希望は潰える。
琴の背筋を冷や汗がつたった。
「……いや! おろして!」
琴は激しく暴れて抵抗した。もうなりふり構っていられない。もう一度後部座席のドアを開けようとしたが、それを察したのか、車は琴がおりられないよう高速に乗った。
「いやです! やだ……っ! 止めて!」
運転席と後部座席を仕切っていたカーテンを引っ張ってブチブチと外し、琴は運転手に怒鳴った。蒼羽はどうにもできなくても、せめて運転手なら――――。
琴の暴挙に運転手は驚いたようだが、スピードを緩めなかった。琴が前に乗り出そうとする。しかし、蒼羽に腹に腕を回され、後部座席に引き倒された。ドアポケットに後頭部を打ちつけ、琴の目の前に星が散る。目の前がかすんで視界が回った。
「いや、やだ……っ」
「……っち」
なおも激しい抵抗を続ける琴に業を煮やした蒼羽が、ハンカチを取りだした。それを鼻に無理やり押しあてられ、琴は苦しさからもがく。その瞬間、鼻の奥にツンとした薬品の匂いが貼りつき、急に意識が遠くなった。
「んーっ! んぐ……」
(やだ、やだ……眠りたくない! 眠ったら……)
「そ、蒼羽さん……? どうします……?」
抵抗が小さくなった後部座席を、運転手の男は怖々振り返った。
「このまま進め。目的地は変わっちゃいねえ」
(目的地……?)
琴は霞む視界の中、カーナビに写る目的地を盗み見た。ゴールの旗がささった場所は――――……。
(ファンタジー……ランド……?)
意識が薄れていく中、つい一月半ほど前にレイと行ったファンタジーランドでの出来事を思い出す。あの幸せな頃に戻れたらいいのに。
(レイくん……ごめんね)
心配してくれたのに、きっとまた心配をかけてしまう。レイに辛い顔をさせてしまう。
目の前がブラックアウトする。もう腱の一本すら動かせない。頬に涙を滑らせながら、琴は深い眠りに落ちていった。