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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第三章
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凍えるエマージェンシー

 窓の外に星のような街明かりが灯りだしてから、ようやく琴はみじろぎした。


 暖房どころか電気すらついていない部屋は寒々しい。真っ暗な広い部屋の中、琴はレイのベッドにしばらく座りこんでいたが、やっと重い腰を上げて部屋をあとにした。部屋の主はすでに家の中にはいない。数時間前に、琴に一瞥も投げず仕事に戻っていってしまった。


 いっそ、もっとひどく罵ってくれたら身も世もなく泣いて縋り、恥も外聞も捨ててひたすら謝ったかもしれないし、秘密を白状してしまったのに。


 しかし、部屋を出る前にレイが残していったのは、琴を罵る言葉ではなく、『琴を手折りたくない』という懇願だった。それがあまりにも悲しい音色を秘めていたから、琴は何も言えなかった。


「白状するまで、やめないなんて嘘つきだよ……レイくん」


 外された制服のボタンを留め直しながら、琴は力なく笑った。無理やり最後までなんて、レイがするはずもない。あんなに弱った声で、琴を手折りたくないと言った優しい彼が。


「……っごめんね……」


 それでも、言えない。ことが全て終わるまでは。琴の事情でもしも作業玉の件がバレれば、一体どれだけの人間に迷惑がかかるのか分からないのだから。


「せっかくのバレンタインだったのにね……」


 冷蔵庫を開ければ、登校前と同じようにザッハトルテが鎮座していた。


 それだけではない。チルド室にはバレンタインだからと奮発して買ったステーキ用の分厚い肉が眠っているし、ダイニングのテーブルには、レイの好きなナッツの缶も置いていた。これにキャラメルを絡めたものをレイは好み、リビングの大きなテレビで洋画を見る際によく摘まんでいたから。


 てっきり今日も二人仲良く、琴はレイが淹れてくれた甘いココアを、レイはホットワインを手にソファに並んでかけて、前に眠気に負けて途中になっていたDVDの続きを見ると思っていた。


 しかし、それはもう叶わない。そう思うと、目が熱くなり、喉がつまった。


「……私が、悪いんだ……」


 フローリングにぱたぱたと散った涙は、やがて海になった。






 それから三日、レイは仕事で帰ってこなかった。


 学校は居心地が悪いかと思ったが、そうでもなかった。人気者である加賀谷と紗奈とつるんでいるせいか、表立って琴を批難する者はいなかったからだ。


 たまに一人でトイレに行く際に好奇の視線に晒されたりもしたが、別に写真の人物たちと疾しいことをしていたわけではない。堂々としていれば、わざわざ声を大にして嫌味を言ってくるものはいなかった。懸念していた朔夜のファンたちも、騒げば朔夜の迷惑になると理解しているのか大人しいものだった。


 それに、レイのいない静かな家にいるよりは、学校で喧騒に揉まれている方がましだ。琴は今朝もレイが帰っていないのを確認し肩を落としてから、家を出た。


 しかし、鍵穴に鍵をさしこんだところで、コートのポケットに入れた携帯が震える。レイからのメールかもしれないと期待に胸を膨らませた琴は、手袋を慌てて外し、ロックを解除した。


「え……」


 メールの差出人は蒼羽だった。


 内容は、今から会いたいというものだった。琴は急いで折川に電話をかける。リバイブの取引が近いと蒼羽が告げてから、すでに五日は経っている。――――つまり、蒼羽をスパイにするなら最後のチャンスだ。


 折川もそう思ったらしい。琴が制服から私服に着替え直している間に、マンション近くに車でやってきた折川は、琴のショートコートのボタンに発信機を仕込んだ。盗聴器は、いつもと同じようにブーツに。


 折川はいつにもまして真剣な面持ちで言った。


「もし蒼羽が少しでもスパイになることに興味を持ったなら、私に電話を繋いでくれ。こちらは蒼羽にとって悪くない条件を提示するつもりだ。潜った蒼羽がわざわざ危険をおかしてまで君の願いを聞き入れ、会う約束を取りつけてきた。奴は君に懐柔されている。君が願えば、十分に奴がこちらへ寝返る可能性はある」


「はい……」


 支度を済ませた琴は、折川に駅前で車を下ろされた。平日の午前中、通勤によく利用される駅は人がまばらだった。


 いつもなら待ち合わせ場所として人がごった返している近代的な楕円のモニュメントの周りも閑散としている。チェックのタイトスカートの下に六十デニールのタイツを履いたのは寒くて失敗だったと琴が後悔し始めた頃、バスのロータリーの近くに、もう見慣れた黒塗りの車が止まった。


 色白だと言われる琴だが、今日は極度の緊張からいつにもまして蒼白だった。紙のように白い唇を誤魔化すために塗ったティントリップの苦みが、唇を噛んだことで口内に広がる。凍りそうなほど寒いのに、ハンドバッグを握る手のひらだけは冷や汗をかいていた。


(頑張るんだ、私……。これ以上レイくんを傷つけなくて済むように。蒼羽さんにも、これ以上罪を重ねさせないで済むように)


 ハンドバッグの持ち手を、覚悟を決めるように一度固く握ってから、車へと近寄る。ウインドウにはシートが貼られているため、外側から中の様子は見えなった。


 琴が控えめに窓をノックしてみると、車のロックが開く。周囲を警戒するように見渡してから滑るように乗りこめば、後部座席の蒼羽に「よう」と声をかけられた。


「……蒼羽さん、無理を言ってすみませんでした。あの、怪我の具合はどうですか?」


 相変わらずのアッシュグレイの髪に、羽根のついたエクステ。そして彫りの深いアイホール。烏のような男は黒いコートを着ていたため、先日負った怪我の具合がよく分からなかった。


「平気だ。お前は変わりないか」


「はい……きゃっ」


 蒼羽に肩を引き寄せられ、琴は彼の胸へとなだれこむ。レイとは違う人工的な香水と煙草の香りを肺に吸いこみながら、琴は笑みを取り繕った。


「大丈夫ですよ、問題ありません」


(……よかった。蒼羽さん、機嫌よさそうかも……)


 先日襲撃されたこともあり、取引前でピリピリしているかと思ったが――琴を腕の中におさめた蒼羽の機嫌は良好に見えた。これなら、スパイの件を切り出しやすいかもしれない。問題はタイミングだ。


「……お前からあんな必死に会いたいとせがまれたのは初めてだったからな。行きたいところはあるか? 人目につく場所は無理だが……」


「行きたいところ……」


 琴はカーテンで仕切られた運転席を一瞥した。蒼羽の部下が運転する黒塗りの車に乗るのも慣れてきたが、スパイになることを持ちかけるには、蒼羽の部下がいる車内は危険だった。


 琴は照れたように目を伏せると、蒼羽の胸元に鼻先を擦り寄せ、甘えた声を意識して出した。


「蒼羽さんと二人きりになれる場所なら、どこでも……」


「随分可愛らしいことを言うじゃねえか」


 くっと、蒼羽が浮き出た喉仏を揺らす。本当に、今日は機嫌がいい気がする。この好機を逃すわけにはいかないと琴は思った。


 骨ばった蒼羽の手が、琴の平たい後頭部を、猫をあやすように撫でる。その手は首元から肩、そして腕へと撫でるように下りてくる。

 されるがままにしていると、やがて蒼羽の手は琴の手首にたどりつき、彼の眼前まで腕を持ちあげられた。


「……蒼羽さん……?」


「その甘い声を、あの男の前でも紡ぐのか?」


「え……?」


 蒼羽の奥目が、ゆるりと弦月のような弧を描く。その目を見つめ返すと、何故だか琴は胸騒ぎに襲われた。一瞬の、空気がたわむような気配。そして――――……。


「いた……っ!?」


 骨がミシリと呻くほどの激痛に襲われ、琴は顔を歪めた。


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