誰が為の嘘だろう
レイは目を細めて言った。
「琴、言っていたよね。自分から煙草の匂いがするのは、カラオケ店に行っていたせいだと。その言い訳を考えたのは君か、それとも……別の誰か、かな? でも知らなかっただろう。蒼羽の煙草が、フランス産の黒煙草だと。あれと同じ煙草をカラオケ店で吸っている客が沢山いるとは思えないけど」
何度か琴から蒼羽の煙草の匂いがした理由。その言い訳のためについた嘘を、レイは見抜いていた。琴は青ざめる。
「――――……気付いてたの……?」
「君が、同じ人物と逢瀬を重ねていたこと? そうだよ。気付いていたけど黙ってた。嫉妬で気が狂いそうになりながらも。何でだか分かるかな」
「レイく」
「君を信じたかったからだ」
血を吐くように苦しげな声で言われ、琴は頭を殴られたような衝撃を受けた。
今にもひび割れそうなレイの瞳は、久しぶりに見た気がする。知らず知らずのうちに、レイを傷つけていたのだとやっと気がつき、琴は心臓を握り潰されるような痛みを味わった。
(私……)
「今も」
すり、と滑るような手つきで、レイが琴の丸い頬を撫でた。痛みに耐えるようなレイの顔を見ているのが、琴には辛かった。
「今も、信じたいよ、琴を。だから教えてくれないかな。蒼羽さんとは、どういう関係なの?」
「どうって……別に……っあ……!」
琴の手首を握るレイの力が増し、琴は痛みに顔をしかめた。
「いた……っ、レイくん……っひあ!?」
強く握られていた手首に、生温かい何かが這う。それがレイの唇だと気付いた瞬間、カッと腹の底が熱くなった。ベッドの上で身悶えするたび、スカートが捲れ上がる。
「レイくん……っ?」
琴が息も絶え絶えに呼ぶと、レイは琴の白い手首から唇を離した。カーディガンの袖口から覗く琴の細い手首には、レイの独占欲の証が真っ赤な華を咲かせていた。
「ああ……ごめん、琴がはぐらかそうとしたからカッとなって」
「はぐらかしてなんて」
「じゃあ、ちゃんと答えてくれ」
唇に息がかかる距離で、レイが詰め寄る。深海のような瞳の色に、琴は溺れてしまいそうになった。威圧感に気圧され、息が上手く吸えない。
いつまでも答えずにいると、レイは痺れを切らし、ベッドの上で肩を上下させる琴の耳元に顔を埋めた。耳元で冷酷な声が裁きを下す。
「答えないなら、答えるようにするまでだよ」
レイの湿った吐息が鼓膜を揺らし、琴のまつ毛がふるりと震えた。
「やだ、レイくん、やめて、待って」
「……俺の質問に答えるまでやめない」
「……待ってレイくん、ねえ……あ……っ」
レイから逃げるように顔を反らせると、耳の後ろに吸いつかれた。ピリッとした痛みが身体に走り、ベッドの上で跳ね上がる。レイが琴のシャツのボタンを外し、襟元をくつろげていくのを見て、琴は慌てて抵抗した。
(レイくん、本気……!?)
「レイくん、やだ、待って、ねえ」
自由になった手で、レイの広い肩を必死に押し返す。しかし、レイの身体は岩のようにビクともせず、琴は圧倒的な力の差に愕然とした。
「蒼羽さんとは何もないの、ねえ……っ」
「なら、どうして嘘をついたの。話して」
「それは……」
「……そこで口ごもるんだね。じゃあ、質問を変えるよ。写真の中には折川さんがいた。どうして琴が折川さんと一緒にいるの?」
「…………!」
琴がごくりと唾を飲んだ。それこそ、答えられっこないのだ。レイの目がさらに細められる。室内の温度が下がった気がした。
(答えられない、でも――――……)
果たして、レイともあろう人が、何も知らないなんてことはあるのだろうか。
琴の嫌な予感は見事に的中した。
「……土曜日、襲撃事件のあとに調べたんだ」
レイは静かに言った。
「蒼羽さんを襲撃した犯人二人は、とある暴力団の組員だった。そして、蒼羽さんは……あの男は、一般人じゃない。蒼羽真――――犀星会の幹部だ」
「……っ」
たった二日で、蒼羽の名前から彼が何者か調べたのか。琴はレイの情報収集能力に慄いた。レイは獲物を追いつめる鷹のような笑みを浮かべて問う。
「その反応、知っていたって顔だね。公安警察の折川さんと犀星会の蒼羽……琴がこの二人と接触しだしたのは、同時期だろう。何かあるのかな」
「あ……」
「君は今、『何』をしているの?」
さらに核心をつくような質問を投げられ、琴は目を見開いた。
「……何も答えないなら……」
「待って! あの、えっと……ごめん、答えられない……。蒼羽さんと、折川さんと会ってたのは事実だけど、でも疾しいことがあるわけじゃないの。だから、だから」
信じて。
その言葉を冷えこんだ空気に触れさせた瞬間、なんて軽い言葉だろうと琴は自らに失望した。こんなにレイを心配させても何も言わないくせに、信じろなんて、なんて都合のいい言葉だ。
おそるおそるレイを見上げれば、レイの瞳は、真冬の月よりも凍っていた。
レイがわずかに身を起こす。長いまつ毛が白い頬に影を作り、俯いたその表情は見えない。琴が身を起こしたのと同時に、レイは自身の前髪をぐしゃりと掴んだ。弧を描いた薄い唇が、自嘲気味に歪む。
「――――……何だ、それ」
「レイ、くん……?」
精巧な人形のように美しい顔をしているレイだから、瞳から色が失われると、本当に傀儡のように感じられることがある。糸が切れた人形のように、無感動で感情を殺してしまったかのようなその姿は、琴の心をナイフで抉った。血が流れる。レイの悲しみが吹き出して、琴の心から血となって流れる。
「レイくん、あの……」
「――――君は時々、誰よりも残酷だ」
ひどく弱弱しい声で言われ、琴は瞳を揺らした。
ああ、またやってしまった。また、自分はレイを傷つけたのだ。誰よりも大事にしたい彼を。
「自分の知らぬところで、恋人が別の男と会っていて、そしてそれは危険人物で。おまけに恋人は公安警察とまでつるんでいる。なのに、何でもないって、信じてって……? あんな銃撃に巻き込まれる君を見ておきながら?」
「……レイくん……んっ」
行き場を失った子供のようなレイの瞳が迫ったと同時に、互いの額がぴたりとくっつき、口付けられた。
レイの唇がかすかに震えている気がして、彼の痛みを思うと泣きたくなる。琴がレイの背中におずおずと腕を回そうとすれば、その前にぐっと体重をかけられ、再びシーツの海に縫いつけられた。
長い亜麻色の髪がシーツに散らばる。乞うようなキスの合間に、レイはぽつぽつと声を落とした。
「どうして、蒼羽と一緒にいるの。どうして……触れさせているの。……最近の琴は、手首に痣を残して帰ってきたり、情緒不安定で、ずっと心配だった」
琴はハッとして手首を押さえた。狼狽する琴へ、レイは悲しげに微笑む。
「でも、その訳も言ってくれないんだね」
「それは……っ」
言えるなら、今すぐに言いたい。本当はいつも泣きだしたいくらい不安だし、弱音だって吐いてしまいたい。レイに悲しい顔をさせてまで、作業玉であることを内緒にすべきか?
それでも、義務が琴の喉を絞めつけ声を発することを許さなかった。
雪が止んだのか、窓から差しこむ冬の鈍い陽光が、レイの高い鼻梁を悲しく照らした。
「君が、一緒に住むようになってからどんどん強くなって、凛としていく様子を見ていると誇らしく思うと同時に、ダメにしたいと思った」
以前のレイは、たしかにそうだった。それでも、琴の意思を尊重して見守ることに決めてくれていた。しかし――――……。
「でも今の君は……っ」
レイの大きな手が、琴の目を塞いだ。視界が黒く染まり、レイがどんな表情をしているのか分からない。しかしレイの手が震えていることから、彼がひどく傷ついているのが伝わって、琴はやるせなくなった。
琴が遠慮がちにレイの手に触れようとする。レイは逃げるようにその手を離した。
「でも、今の君は……っ本当にダメにしてやりたいと思うよ。どこにも行かせず、誰の目にも触れさせず、危険なことにも近付かせずに……俺だけを見るように閉じこめておきたい……」
レイが琴の顔の横についた手で、葛藤するようにシーツを固く握りしめた。
「でも、そうしたらきっと、琴は琴じゃなくなってしまう。だから我慢してるんだ。ずっと昔から見守ってきた花を手折らないように、必死に自分を抑制してる。だから……」
レイは自らの顔を覆う。そして指の隙間から、消えてしまいそうなほど細い声で言った。
「……僕に君を、手折らせないで」
レイに囁かれた言葉は、祈りに似ていた。ひどく弱った声の懇願に、何も返せない。それでも、掲示板に晒しあげられた恐怖に襲われた時ですら押さえていた涙が、自然と頬を濡らしていくのを琴は感じた。
レイを傷つけた自責の念に囚われて。
「……もう行くよ。今ここにいたら、僕はもう僕じゃなくなる」
最後に一つ、琴の青ざめた唇にキスを落としてから、レイは振り返ることなく出ていった。
三章で一番書きたかった話の一つです。
今話がレイの心情といいましょうか……レイは琴が幼い頃からずっと、守りたいと思って接してきました。大事に育ててきた花を手折ることはしたくないのだと思います。