かの者の声は塞がれる
模範的な学生である琴が校長室に入るのは、生まれて初めてのことだった。
普段の琴なら興味深く室内を観察しただろうが、今は部屋の中央に置かれた二人掛けのソファに所在なく座り、ひたすら身を小さくするしかない。
生花の活けられたローテーブルを挟んだ向かいには、主任が腕を組んで立ち、琴を見下ろしている。朔夜は切れ長の目を閉じ、入口近くの壁を背に立っていた。
部屋の奥にある、磨き上げられた机には白髪の目立つ老年の校長が掛けている。校長は微動だにせず、皺の深い指を組み、そこに額を預けていた。
五分ほどすると、相変わらず腹周りのだらしない担任が焦った顔でやってきた。それを合図に、厳めしい表情の主任が口火を切った。
「さて宮前、どういうことか説明してくれるか? あれは何だ」
「分かりません……。私にも、何が何だか……」
どうしてあんなことをされたのか分からない。スカートが皺になるほど握りしめながら、蒼白な顔で琴は言った。
しかし、主任の反応は琴が思っていたものと違った。
「分からないことはないだろう。自分でやったことだ。未成年が成人した男を何人も引っかけて、どういうつもりだ。ふしだらな!」
「……え……? ひ、引っかけてなんかいません……!」
琴は横っ面を張られたような衝撃を受け、急いで否定した。
「ならどうしてあんな掲示板に貼り出されるようなことになる。……宮前のご両親に連絡は?」
主任は、琴の担任に向かって尋ねた。担任は首の後ろを掻きながら、困り顔で言った。
「あー……宮前ンとこの親御さんは、二人とも海外にいるもんで」
「なるほど? 親が放任しているから、子供がこんなに乱れるわけだ」
カッと赤くなり、膝の上で琴は拳を握った。その仕草を見逃さなかった担任は、琴を庇う。
「いや……宮前は素行もいいし、真面目な生徒ですよ」
「真面目な生徒が、不純異性交遊なんてしますか? ねえ、校長先生!」
主任は鼻で笑い、校長に同意を求めた。
校長が答える前に、それまで沈黙を守ってきた朔夜が壁から離れ口を開いた。
「宮前がまさか掲示板に貼られている文書の通り、複数の男と不純異性交遊でもしていると思ってるんですか? 自分の学校の生徒を信用していないとでも?」
「伽嶋先生、口を慎んでください」
主任はピシャリと言った。
「貴方は疑われている身ですよ」
「ええ。だから言っているんです。俺と宮前が潔白なことは、本人である自分たちが一番よく知っている」
「どうだか。前々から伽嶋先生と宮前が深い関係にあるのではと、噂は立っていた。あれは真だったんじゃないですか?」
「違います! 私と伽嶋先生は幼なじみなだけです!」
琴は真っ赤になって否定した。先ほどまでは誰かに貶められた恐怖に震えていたが、今は怒りで頭が沸騰しそうだった。これは侮辱だ。琴と朔夜への。
「うんうん。それで? 幼なじみの先生を誘惑したのか?」
「……っいい加減にしてください! 私はそんなことしてません! サクちゃ……伽嶋先生だってそんなことしない!」
「ならあの写真はなんだ……。色んな男と……まさか援助交際なんてしてないだろうな」
主任は校長の座る席まで歩み寄った。
「校長先生、まずいですよ、まずいですね。何がまずいって、これを知った保護者が騒ぎ出すのがマズイ。不純異性交遊もまずいし、うちの学校の教諭と生徒がそういう関係だと騒がれるのもマズイ。しかるべき対応をとらねばなりませんね」
校長は落ちくぼんだ目をしばたき、薄い唇を開いた。しかし、またしても校長より先に答える者がいた。
「ええ、まずいですね。非常にまずい」
まるで舞台にいるかのように凛と通る声が、校長室に響く。圧倒的な自信を備えた声の持ち主は、芝居がかった声で言った。
「……教師が、生徒の言葉に耳を傾けず話を進めてしまおうとするのは、非常にまずい教育現場だと思いますよ」
「レイくん……!」
思わぬ人物の登場に、琴はソファから弾かれたように立ち上がった。一同の注目を集めた声の主であるレイは、校長室のドアを開けて、恭しく佇んでいた。