不意に悪意が牙をむく
蒼羽がレストランで襲われた次の日、レイは仕事で朝早くに出勤し、月曜の朝になっても帰ってこなかった。
一人になると、レイへの罪悪感に胸を掻き毟りたくなる。が、琴は首を大きく横に振り、今は作業玉のことに集中しようと気を引き締めた。
どうやら圧力がかかったようで、銃撃のことはニュースで取り上げられてはいない。しきりに琴を誘っていた蒼羽からは、事件以降音沙汰がなかった。どうやら本当に潜ったようだ。しかし、何としてもリバイブの取引までに彼に接触せねばならない。琴は正念場だと思った。
「なぁんて、作業玉に集中すると言いつつ、チョコレートなんか作ってみちゃったりして……」
琴は冷蔵庫を覗きこみながら、棚の二段目に載ったザッハトルテに苦笑を零した。窓の外には粉砂糖のような雪がうっすらと積もっている今は二月。何を隠そう、今日はバレンタインデーだった。
作業玉やレイの縁談に気を取られ、琴もつい昨日まではすっかり忘れていたのだが、街へ繰り出せばどこもかしこもバレンタイン一色。夕食の買い出しに出たつもりが、帰宅した時には板チョコや杏子のジャム、純ココアなど、手作りチョコレートに必要な材料がエコバッグにぎっしり詰まっていた。
「レイくん、今日はきっと帰ってこられるよね」
警視庁に二日続けて缶詰になるという連絡はきていない。ならばきっと帰ってきてくれるはずだ。
学校から帰ったら夕食の準備をして、デザートにザッハトルテを出そう。甘いものがあまり得意ではないレイのために甘さは控えめにしてある。それと彼の好きなアールグレイを淹れて沢山レイの話を聞こうと、琴は久しぶりにウキウキした気持ちで家を出た。
ああでももしかしたら、蘭世からのチョコを貰うかも。職場の人からも大量に。そう思うと、道中どんどん頭が垂れていく。ぐるぐるに巻いたマフラーに顔が埋まりそうになるくらい俯きがちに歩いていると、通い慣れた学校が見えてきた。
今日は小雪が舞っているため、電車で登校してくる生徒が遅れているのだろう。通学路は人がまばらだ。琴はタイヤの跡が残っていない箇所を選び、シャクシャクと雪道に足跡を残して校門をくぐった。
(教室に向かう前に、サクちゃんのいる保健室に寄って義理チョコ渡そうかなぁ……いるかな?)
外足場で靴を履きかえながら、予定を組み立てる。しかし、外足場から各々の学年の教室へ繋がる階段前の掲示板で、ざわめきが聞こえ琴の思案は中断した。
「……なに……? 休校にでもなったのかな……」
人だかりができている掲示板へ琴も向かう。中心に向かうに連れ、数珠を擦り合わせたような音でしかなかった声の一つ一つが鮮明に聞こえてきた。
「は? やばくね? ビッチかよ」
「社会人ばっかだよねー。年上好きとか?」
「はー……清純そうな顔してやるなぁ。俺センパイのこと可愛いと思ってたからちょっとショック」
「あ、やばい! 本人来たって!」
次々に聞こえていた声が、琴の登場により水を打ったように止む。掲示板の前に群がっていた人垣が割れて道ができ、琴は瞠目した。
「え、な、なに……?」
周りを見回せば、白い目で見てくる人、人、人。平素より登校してきている生徒が少ないとはいえ、全学年の生徒に囲まれ、琴は困惑した。
「宮前さーん。これ、ホント?」
ギャラリーの一人である女生徒が、掲示板を指差し琴に尋ねる。琴が彼女の視線を追うとそこには、先週まではなかった、溢れんばかりの写真が貼られていた。
「え……?」
中には引き延ばしてプリントされたものもある。そしてそこに写っていたのは――――……。
「これ全部、宮前さんと男だよね?」
隠し撮りされたと思われる、ありとあらゆる琴と異性の写真だった。
たとえば、掃除当番で一緒にゴミ捨て場にいく際に転びかけた琴の腕を掴んで引きとめる加賀谷との写真。校内の藤棚で朔夜に頭を撫でられている写真。折川に強引に肩を抱かれ、人目を忍ぶように公安の車へ押し込まれている写真。それから、街の広場で蒼羽と二人密会している写真……。
そして、それらの写真と共に、新聞の切り抜きで作ったような怪文書も貼られていた。
人垣の中の一人が、その文書を声に出して丁寧に読み上げた。
『宮前琴はビッチだ。幼なじみの男をたらしこんでおきながら、他の男とも関係を持っている』『節操無し』『男好き』『毎日違う男をとっかえひっかえしている最低女』
中には、明らかに顔の向きがおかしい琴と蒼羽が半裸で絡み合っている合成写真もあった。
「………何、これ……。誰がこんなこと……」
指先の感覚がなくなった琴の手から、スクールバッグが滑り落ちる。膝が震えた。何これ。何で。どうして。誰が何のために……?
呼吸が浅くなる。驚愕で言葉が出ない琴の背後で、野次馬からのささめきが踊った。琴は耳が遠くなっていくような感覚を味わいながらも、悪意に満ちた声を拾った。
「全員イケメンじゃん。やっるー」
「俺も一発相手してくれねえかな」
「つか伽嶋先生に頭なでなでされてるのありえないんだけど。何様だよ」
「ねえ、そういえば前にファンタジーランドで話題になった刑事さん、あれ絶対前に学校に来てた神立刑事だよね? あの動画に入ってた声って宮前さんの声に似てない?」
「は!? じゃあ神立さんにまで手出してるってこと!? ふざけんなよアバズレが」
「ちが……っ」
上げようとした抗議の声は、喉元で絡まる。振り返った先にいる人たちがすべて、琴を軽蔑の目で見ていたからだ。嫌悪の眼差しを向けられた琴は、よろめきながら後退した。掲示板に背中がぶつかる。
バラバラといくつかの写真が落ちてきて、足元に広がった。
(一体誰がこんなこと……何で……)
写真を拾おうとするものの、手が震えて掴めない。琴は混乱から泣きそうになるのをぐっと堪えた。
そういえば以前藤棚で朔夜と話をしていた時、朔夜が人の視線を感じていた。まさか写真を撮られていたなんて。
それに、蒼羽との写真も。蒼羽が気配を感じていたのは、公安ではなくカメラに対してだったのかと、琴は今更気付いた。
(私に恨みがある誰かにずっと、つけられてた……? でも誰に……? 何でこんなこと……)
「はいはい散れ散れー!」
パンパン、と空気を割るように手を叩く音が響き、生徒を押しのけて中年の学年主任がやってきた。険しい表情をした主任は、蚊を払うように生徒たちを散らそうとする。
「まったく……誰だこんなことをした奴! ほら、集まるな! 教室へ行け!」
「だって先生」
「だっても何もない! ほら、行け!」
渋る女生徒の背中を押し、主任は生徒を教室へと誘導する。放心状態の琴はそれを呆然と眺めていたが、職員室に繋がる廊下から姿を現した朔夜に、再び生徒がざわついた。
「伽嶋センセー! 宮前さんと付き合ってるなんて嘘ですよねー!?」
朔夜の熱心なファンである女生徒が声を荒げる。掲示板を見て、朔夜は眼鏡の奥の目を吊り上げた。朔夜は何も言わない。ただ、写真の一つ一つを吟味するように眺め、何かを見極めようとしていた。
(どうしよう……サクちゃんにまで迷惑をかけちゃった……)
「……サクちゃん……」
「宮前。校長室に来い。……伽嶋先生、貴方も付き合ってもらいますよ」
琴の発言を遮り、主任は低い声で言った。最後の一言は朔夜に向かって。朔夜は眼鏡のブリッジを押し上げ、小さくため息を零してから頷く。
「分かりました」
「…………っあの、伽嶋先生は関係な……」
「いいから来い」
主任に強い口調で言われ、琴は押し黙った。衆人環視の中、連行されていく犯罪者のような気分を味わう。琴に対する非難の声が背中に纏わりつくのを感じながら、琴は主任と朔夜に挟まれて校長室へ向かった。