嘘を重ねて溺れる色
再びの襲撃を恐れてか、蒼羽と琴を乗せた組の車は、時間をかけて望月エマの最寄り駅で琴をおろした。
蒼羽の車が見えなくなってから、今度は公安の車が駅から少し離れた場所に止まり、折川が琴をレイのマンションへ送り届けてくれた。
正直、レストランでのレイとの別れ方を思い出すと、彼の部屋に戻る足は鉛のように重い。
それでも覚悟を決めて玄関のドアを開けると、廊下の電気は真っ暗で、レイはまだ帰っていなかった。
顔を合わせづらいと思ってはいたが、いないと不安になる。レイは大丈夫だったのだろうか。怪我をしている様子はなかったはずだと自問自答しながら、夕食や入浴を済ませた琴の耳に玄関のドアが開く音が聞こえてきたのは、夜の十時を回ってからだった。
琴が急いで玄関に続く廊下のドアを開けると、玄関で靴を脱いでいたレイと目が合った。
「レイく……」
「琴……っ」
レイに強い力で抱きしめられ、背骨が軋んだ。そのまま腰が砕けて琴がフローリングに座りこんでも、レイの腕は離れない。しばらくしてから、レイのブルートパーズの瞳に覗きこまれた。
「怪我は? 無事だったのか? 君は本当に……っ、何もされてないのか?」
「大丈夫。ごめんね、心配かけて。レイくんは? どこも怪我してない?」
琴の丸い頬や薄い肩、腕をつぶさに観察するレイへ、琴は声をかける。
レストランでは掻きあげられていた髪が、今は下ろされている。前髪の影が映ったレイの目元が、レストランで会った時よりも疲れている気がして、琴はレイの背を労わるように撫でた。
琴がどこも怪我していないと納得したのだろう。琴を解放したレイは、やるせない表情を浮かべ、奥歯を噛んだ。
「琴が目の前で連れ去られて、心臓が凍りついた」
「……レイくん」
「心配でたまらなくて。琴を連れ戻す邪魔をする奴らすべてに殺意が湧いた」
「ごめん。でも、メールしたように大丈夫だったから心配しない……」
「琴の大丈夫は、全然大丈夫じゃない」
レイの大きな声に遮られて、琴は口を閉じた。
「……でも、無事でよかった……」
まつ毛を震わせて言ったレイに、琴は申し訳なさで胸が張り裂けそうになった。世界で一番大切な人を、世界で一番気高い孤高の人を、こんなに弱弱しくさせてしまった。
その事実が、罪悪感となって琴を苛める。捜査のため仕方ないことだと分かっていても、心配するレイに対し謝罪しかできない自分に嫌悪感がわいた。
(どんどん、自分のことが嫌いになってく……)
「ごめんねレイくん……」
「琴がもし家に帰ってなかったら、地の果てまでも探しに行くつもりだったんだ」
「帰ってくるよ。どんな時だって、レイくんのところに」
「……あの男は?」
レイの語気に力がこもった。
「蒼羽さん……だっけ。あの男が君をレストランから連れ去った理由は?」
「それは」
琴は、折川が運転する車内で彼から用意された言い訳を思い出しなぞった。
「厄介事に巻き込まれたくなかったみたい……。何で蒼羽さんが、銃撃になんてあったのかは私も分からないんだけど……」
あくまで、蒼羽の素性は知らない振りだ。暴力団員と知って蒼羽に接触していたとレイに知られるわけにはいかない。その理由を詰問されるからだ。
琴はフローリングについたレイの手に、そっと自らの手を重ねた。
「あのね、ホテルでは驚いてちゃんと答えられなかったけど、私と蒼羽さんは、何でもなくて……。蒼羽さんには、以前酔い潰れていたのを見かけて介抱したら、そのお礼に食事をごちそうしてくれるって言われたの。何度も断ったんだけど、仕方なく一回だけ……。紗奈ちゃんと会うって言ったのは、レイくんに心配させたくなかったからなの……」
饒舌すぎたかもしれない。一息で言ったあと琴はそう思った。
言葉を発すれば発するほど、レイに嘘を重ねれば重ねるほど、心が削られる。どうして好きな相手に嘘をついているのかと、耳の奥でもう一人の自分が責める。
寝間着の上から胸元をギュッと押さえる琴の仕草を見つめてから、レイが言った。
「……何度も君から蒼羽さんの煙草の香りがした訳は?」
「あ、あれは、最近カラオケによく行くからだよ。前に部屋を使ってたお客さんの煙草の匂いが、たまたま蒼羽さんと同じだっただけじゃないかな」
「……そう」
「だからそんな、レイくんが心配するような関係じゃないから……」
主人の顔色を窺う犬のような様子で琴が言う。蒼羽に対して、レイに抱くような感情は持ち合わせていない。惹かれることなどありえない。これだけは自信を持って言える。
琴の真摯な訴えに、レイは少ししてから頷いた。色素の薄い長いまつ毛を伏せ、それから、いつものお伽噺から飛び出してきた王子様のような笑みを浮かべて。
しかしその頬笑みが一瞬、薄い氷のようにひび割れそうな脆さを含んでいたように琴には見えた。
「レイく……」
「今日は沢山のことがあって疲れただろう。沢山疑って質問してごめんね、琴。食事に行く約束が一度きりだったなら、もう蒼羽さんに会うことはないんだね、よかった。彼が何者かは分からないけど、拳銃に気後れ一つしていなかったところから見て、堅気の人間とは思えない。もう会わない方がいい。危険だよ」
「う、ん……そうだよね」
レイの鋭さにギクリと肩が強張る。ぎこちなく頷く琴の頬を、レイは輪郭をなぞるように撫でた。