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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第一章
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その手の温かさが知りたい

 それから数日、相変わらず琴はレイにかいがいしく世話を焼かれていた。クラスメートの加賀谷からよく鈍くさいとバカにされる琴では、レイの要領のよさには追いつけない。


 レイが朝から出勤の時はいつだって栄養バランスの取れた朝食を用意され、食べている間に髪も可愛くアレンジされる。


 レイが帰宅した時に琴が風呂上がりであれば必ずレイは琴の髪を乾かしたがる。お陰で琴の髪や体の調子はすこぶるいい。実家で暮らしていた時に比べ肌はむき卵のようにつやつやだし、髪にも艶が出た。良質な睡眠を取っているため身体も軽い。


 だが、健康的な生活を送っていても、どうしても抗えない痛みはあるもので。六限目、琴は激しい生理痛と戦っていた。


 腰を襲う鈍痛と、下腹部をしぼられるような痛み。おまけに貧血で足に力が入らない。しまいには吐き気にまで襲われ、琴はよろめきながら保健室へと向かった。


 琴が蒼白な顔で保健室のドアを開けると、朔夜は難しい顔で琴の首筋に手を当てた。


「……生理痛か」


 こくりと頷く琴。ワイルドな見た目の朔夜の口から『生理』という言葉が出てくると平常ならざわつきそうなものの、今の琴にはそんな元気はなかった。というか、さすが養護教諭だけあり察しがよくて助かる。


 足元が覚束ないのを見かねた朔夜に、琴は肩を抱かれ奥のベッドへと寝かされた。


「薬は飲んできたのか?」


「ううん……。でも、実家から持ってきた救急箱の中に痛み止めが入ってると思う」


 お腹の上まで布団をかけられながら琴は答えた。


「神立くんには言ったのか? 彼ならお前の異変に気付きそうだが」


「……レイくん昨日は夜通しお仕事で、今朝はまだ帰ってきてなかったから……。それに朝は割と平気だったんだよね……。子宮が突っ張るような感じがしたから、そろそろ来るかなぁとは思ったけど……よりによってこんなに重いなんて……」


 うう、と呻きながら枕に顔を埋める。額まで金槌で殴られているように痛みだした。


「悪いがここでは薬を処方できないんでな……その様子じゃ授業を受けるのは無理だろう。自宅に帰って薬を飲んで休め。神立くんに連絡を入れよう」


 そう言って白衣からスマホを取りだし、ベッドを仕切るカーテンの向こうに消えようとした朔夜の袖を掴む。朔夜が眉をひそめて振り返ると、琴は真っ青な顔で訴えた。


「れ、レイくんには言わないで……!」


「紙みたいに白い顔色をしておいて何言ってる。保護者代わりの彼に連絡を入れるのは当然だろう」


 眼鏡のレンズ越しに切れ長の目ですごまれ、琴はぐっと詰まる。しかし琴は知っているのだ。朔夜はどんなに怖い表情をしていても根本的に琴に甘いのだと。


「だ、だってその……男の人に知られるのは、は、恥ずかしいし……」


「ほお? 俺も男なんだがな」


「さ、サクちゃんは男の人の前に、保健の先生だもん……!」


「それを言うなら、神立くんだって男の前にお前の保護者なんじゃないのか」


「それとも琴にとって、彼は男か?」と意地悪く弧を描いた唇で言われ、琴は口ごもった。


「で、でも……迷惑、かけたくないんだもん……」


 琴は掛け布団を額の上まで引っ張り上げながら言った。


「レイくんは、いつも私のことを優先して世話を焼いてくれるから……こんなことで迷惑かけたくない。お仕事の邪魔したくない」


「…………」


「だからサクちゃん、お願い……。鎮痛剤飲んだら平気だから……」


「お前はどうやら、迷惑をはき違えている節があるな……」


大きなため息をついて、朔夜は「神立くんに連絡しなかったことを後悔しても知らんぞ」と言った。


「神立くんはああ見えて、プライドがエベレストより高いんだ。頼りにされないのは、彼にとって残酷だぞ」


 朔夜の言葉の意味をはかりかねて、琴は聞こえない振りをした。結局レイに早退することは伝えず、朔夜の車でマンションまで送ってもらう。


 部屋まで送ろうしてくれる厚意を断り、琴はエレベーターに凭れかかって自力で部屋の前まで辿りついた。自室に置いた救急箱を開けた時には節々まで痛み出していたが、鎮痛剤を取りだしたら一瞬痛みが和らいだ気がした。


 箱をひっくり返し、中身が空だと気付くまでは。


「……嘘でしょ……」


 青い顔色をますます青くさせて琴は呻く。そういえば先月の生理の時に薬を飲みきってしまい、買いに行くのを忘れていたことを今さら思い出した。


 最悪だ。ガンガン痛む頭を押さえる。腰の鈍痛がひどくなり、立っているのも辛くなって壁沿いに座りこむ。貧血で目の前も白みだしてきた。


(どうしよう……薬……薬局まで買いに行こうか……。でも……)


 足に力が入らず立てない。レイの家に救急箱はあるのだろうか。ああ、でも電話して薬箱の場所を聞いたら、レイに体調が悪いとバレてしまう。ならば自力で探すか。薬が見つかったとしても、何か口に入れなくては……。


 せりあがってくる吐き気に襲われ、とても何かを食べる気にはなれない。琴はズルズルとフローリングを這いながら、リビングの黒いソファに寝そべった。


(……ちょっと、立てるようになるまで休もう……)


 体の内側を削られるような猛烈な痛みに耐えながら、琴は目を閉じた。


 貧血で意識が遠のく。具合が悪いせいだろうか、感傷的になり、過去の出来事が頭を巡った。


 あれはたしか小学一年生の頃だっただろうか。学級閉鎖が起こるくらい風邪が大流行したことがあった。琴も例に漏れずその風邪に感染したのだが、両親は深夜まで仕事なので、無理を押して登校することになった。


 次第に上がる熱。視界が霞み、案の定具合は悪化した。


 登校してきたクラスメートの数人にも風邪の症状がみられ、親が迎えに来て順番に早退していく。母親に手を引かれて校門を出ていく友だちを窓から見下ろしながら、琴は自分もそうなるのだろうと思い、担任の先生が琴の母親に電話してくれるのを見守った。


 しかし、電話を切った先生は困ったように琴へ言った。


「琴ちゃんのママは、お仕事でお迎えに来られないみたい」と。


 途端に、母親と手を繋いで帰っていく友だちが遠くに感じられた。自分とは違うのだと。自分には、あの温かな手は伸ばされないのだと思った。


 でも仕事なら仕方ない。琴はそう聞き分けようとした。それでも、隣の席の子が言った言葉は、琴の胸にひどく突き刺さった。


「琴ちゃん、かわいそうだね」


 自分は、他人から見て可哀相に見えるのだ。ぺたんこの後頭部を押さえながら、琴は悲しい気持ちになったことを覚えている。


 ……子宮を締めつけるような痛みに現実へ引き戻される。気づけば日が沈み、窓の外は宵闇に染まっていた。


 起き上がろうとしても、腹部に力を込めるとキリキリした痛みに耐えかねて腹を押さえるだけになってしまう。こんなにひどい症状は久しぶりだ。


 真っ暗な室内でただ一人、痛みに耐えるのが精いっぱい。


「――――……痛いよう……誰か……」


 ああ、やだな。琴は色を失った唇を噛んだ。調子が悪いと弱い自分が顔を出してしまう。高校生にもなってこんなに甘ったれなのだと痛感する。


(……小学生の頃のことまで思い出すなんて)


 暗闇のせいだろうか。それとも体調が悪くて精神が不安定になっているのだろうか。自立して立派な大人になりたいと思いながら、今この瞬間、誰かに傍にいてほしいとも思ってしまう。一人で生きていける強さが欲しいのに、傍で支えてくれる温もりもほしいなんて矛盾している。


 身体は成長しても、本質は子供の頃のまま。親が迎えに来てくれる子が羨ましくって仕方なかった頃のままだ。ないものねだりと分かっていても、弱っている時に誰かに傍にいてほしいという願いは、今も変わらず自分の中に巣くっているらしい。


(バカみたい。でも……)


 空を切るだけと知りつつも、関節の痛む腕を伸ばし、見えない手を掴もうとする。情けなくなって琴の瞳に涙が滲んだ。耐えるようにぎゅっと目を瞑る。


 手に入らない。分かっている。小さな頃から痛いほどに知っている。『アレ』は、あの温もりは、自分が知ることのできない温度なのだ。


 じわりと涙が滲む。本格的に体調不良で心が弱っているのかもしれない。


(ああ、でも誰か、この手を握ってくれたなら――――……)


 ――――ガシッ。


「――――……っ!?」


 冷えた指先に絡む他人のぬくもり。


 涙で滲んだ視界を開くと、琴の手に、琴よりもずっと大きな手のひらが重なっていた。ゆるゆると目線を上げる。そこには琴の手を握りながら、心配そうに顔を覗きこんでくるレイの姿があった。


(……う、そ……)


 胸の中に、一陣の風が吹いた気がした。


「琴……? 部屋が真っ暗だから、いないのかと……どうしたんだい?」


「レイ、く……」


 声がかすれる。琴の目の端から、たまっていた涙が一粒、雫となって零れ落ちた。


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