王子の逆鱗に触れる時
「レイ、く……」
(嘘……誰もいないの、確認したのに……)
声が上ずる。現役刑事の隠密行動を甘く見ていた。レストランを抜けだした琴を見逃さず、気配を消して追ってきたのだろう。琴はレイの革靴の音を吸いこむ、ウィルトン織りの絨毯を恨めしく思った。
身を守るように、胸の前でスマホを固く握りしめる。嫌な汗で手が滑りそうだった。その動きを、レイは凍った瞳で観察した。
(電話相手は……見られてないよね、大丈夫……)
もしレイに見られていても、折川の番号は『母親』と偽って登録しているので問題ない。が、今の琴はそれすら頭が回らなかった。眼前のレイから発せられる静かな怒気に、頭の芯から足の先まであてられてしまっている。
「び、っくりした……レイくん気配なかったよ? あ、いいの? 蘭世さんを置いてきて……」
「僕の質問に答えてと言ったはずだけど」
にべもなく言われ、琴は口を噤んだ。穏やかな口調なのに、鋭い刀身を首に当てられているような心地がする。思わず一歩後退したが、腕を掴まれ、壁際に追いこまれてしまった。
「い……っ」
「あの男は、君の何かな? どうして君と一緒にいるの? 琴、今日は紗奈ちゃんと出かけるはずでは?」
「それ、は……」
「それにあの男から、たまに琴の髪から香る煙草と同じ匂いがした。その説明もしてくれる?」
「…………っ」
(バレてたんだ……!)
ついレイの顔を見てしまう。前髪を後ろに撫でつけているせいであらわになったレイの瞳は鋭く、悪あがきしようとする琴の喉笛を狙っている獰猛な獣のようだった。
息が上手く吸えず、琴は喘ぎ喘ぎ言う。
「何でも、ない、よ……。あの人はただの知りあいで……」
「何でもない……?」
レイの声が一段と冷えこみ、言葉尻が尖った。
「こんな場所に二人で来ておいて……?」
ドン、と顔の横の大理石の壁に手をつかれる。琴の肩が小さく跳ね上がると、レイはさらに琴との距離を詰めた。鼻先の触れあう位置で発せられるレイの言葉に、指先が痺れる。
「……あの男の君を見る目は、まるで恋人を見るような目だった。それに……」
「きゃ……っ」
するりとレイの手が、琴の肩から背中を這った。
「ここにも、ここにも触れていた」
糾弾するレイの手が、琴の背を強く掻き抱く。これがレイの嫉妬だと琴は気付いた。しかし、まずいという気持ちと同時に、琴の中でも先ほどから燻っている嫉妬が牙をむいた。
「そ、んなの、レイくんだって……」
「僕?」
「レイくんだって、触れられてたじゃない。蘭世さんに、腕組まれてた……! それに、それに、デートだって彼女言ってた! デートなんだ!?」
「違うな。ここへは無理やり蘭世さんがいきたいと言ったから連れてきただけだし、それに、僕は事前に琴に今日彼女と会う旨を伝えたはずだ。デートじゃない」
「でも、向こうはそうは思ってないみたいだったよ。レイくんのこと、下の名前で呼んでたし……」
「彼女との交際はもう何度も断ってる。ただ、相手が相手だ。大物代議士の令嬢だ。不敬にあたらないよう、ボーダーラインを探りながら事を進めてる……」
探った結果が、あの距離感なら本当に破談にできるのだろうか。その言葉を、琴は苦虫と一緒に飲みこんだ。
「でも、琴は? 何の意図が会ってあの男と会っているの? 隠れてずっと会っていたんだろう? あいつは琴の何?」
「い……っ」
ギリッと、力のこもったレイの指が、琴の腕に食いこむ。まくし立てられた琴は、レイの剣幕に圧され、もどかしさから泣きたくなった。
自分だって、やましいことは一つもない。同情こそすれ、蒼羽に対して恋愛感情なんて一つも抱いてないし、ときめきもしてない。彼と一緒にいるのは、捜査のためだ。蒼羽に甘言を吐くのも、ほだされた振りをするのもすべて、作業玉としての自分の役目を果たしているだけだ。
でも……。
(言えない……)
捜査内容は、極秘事項だ。たとえレイ相手だとしても言ってはならない。神立次長と初めにそう約束した。破ってはならない。
説明できるのに、何一つ口に出せない。泡のように言葉が消えていく。
「……だんまり?」
「ちが……っ」
見上げたレイの瞳が、今まで見たことがないくらい冷えこんでいて、琴は身震いした。
「違うけど、でも、今は、言えない……。いつか言うから……だから――――」
――――ドンッ!!
続きの言葉は、重たい銃声に掻き消されてレイに届くことはなかった。
「え……!?」
ここ数カ月の間で聞き慣れた音のあとに続く悲鳴。そして、繰り返される腹に響くような発砲音。
「え、なに、え……」
「――――銃声だ。琴はここにいて!」
「レイくん!?」
レイは舌打ちすると来た道を引き返し、走ってレストランへと戻っていく。怒声とガラスの割れる音が、ついさっきあとにしたレストランから響いていることに一拍遅れて気付いた琴は、もつれる足でレイのあとに続いた。