夜王を暴く星明かり
バーに流れる静かな音楽は、緊張で喉がカラカラの琴の気をほぐすにはちょうどよかった。
壁一面がガラス張りのバーは薄暗く、青いライトに照らされて深海にいるかのようだ。首都の夜景を窓辺に貼りつけた空間の中、琴は蒼羽と共に、カウンターの丸椅子に二人腰掛けていた。
「蒼羽さん、ハイペースですね。やっぱりお酒強いんだ」
琴の手元のグラスは入店した時からずっと同じ物で、すっかり汗をかいている。アルコールが飲めないためソフトドリンクを注文した琴の杯が進むはずもない。氷が溶けて水っぽくなったドリンクを持てあます琴とは対照的に、蒼羽は杯を重ねていた。それはもう、こちらが心配になるくらいに。
「蒼羽さん、あの、もうやめておいた方が……」
飲まない琴でも、蒼羽のペースが早すぎると分かる。様々な酒をちゃんぽんしながら、現在は丸い月のような氷をグラスに浮かべてスコッチを飲んでいる彼の瞳は完全に据わっていた。
レイも朔夜も大のウィスキー党で酒豪だが、ここまでハイペースに呷ったりはしない。途中ナッツをつまんだりしながら、長い時間をかけて飲んでいる。
匂いだけで酔いそうになりながらも、琴はやんわりと蒼羽の手を掴んだ。しかし、蒼羽はグラスから手を離そうとしない。
「……お仕事でしんどいことでもありました? 蒼羽さんのお酒を飲む姿はかっこいいけど、これ以上は心配です」
優しくたしなめる琴。蒼羽は顔色こそ変わらないものの、いつも以上に据わった目を向けてきた。
「――――仕事は順調だ。店も順調だし、シマも落ち着いてる。それに……」
それに、何だ。もしかして情報を漏らすかと期待したが、蒼羽は何も言わずグラスを傾けた。
(やっぱり口は固いか……)
「そうなんですね。もしかして、お仕事のストレスが溜まってるのかなって思ったんです。だったら、話してほしいなって……でも、女子高生の私なんかじゃ、蒼羽さんの話を聞く相手にすらなりませんよね。少しでも役に立ちたかったんですけど……」
話すだけで楽になることもあると、琴は蒼羽を誘導する。仕事の愚痴を話すならば――――もしリバイブや反警察団体と関わりがあるなら、必ず口にするはずだ。
琴は悲しげに目を伏せ、愚痴を零す相手として自分では頼りないだろうか、と蒼羽の良心を刺激する。
蒼羽は酔いが回って温かくなった手を伸ばすと、琴の丸い頬に添えた。
「そんな顔するな」
「だって蒼羽さんが何も話してくれないから」
「……本当に、仕事のことで悩んじゃいねえよ。ただ……」
「ただ?」
「――――確かに飲みたい気分で、お前が誘ったから、それに乗ったんだ。今日は……今日は、瑠璃の誕生日だから」
「――――……え」
あの手この手で蒼羽から情報を引きだそうとしていた琴の思考が固まる。ヘーゼルの瞳を切なげに揺らして言った蒼羽の言葉を脳内で反芻した。
「瑠璃さんって……亡くなった恋人の……?」
「お前によく似た女だ。ドレスを買い与えてめかしこませたのも、オペラに連れて行ったのも、ホテルで食事したのも……あいつが生前、誕生日には必ずそれをねだったからだ」
「じゃあ、今日は一日……」
私を通して、生前の瑠璃さんとの日々を思い出していたのか。
死んだ恋人と生き写しの人物に出会い、もう二度と叶うはずのなかった誕生日デートを楽しんだ蒼羽は、もしかしたら酒の力を借りて本当に琴が瑠璃だと思いたかったのかもしれない。琴はそう思った。
琴は胸元を押さえた。キリキリと心が搾り上げられているような気分だ。目の前の男にひどく同情する。
(この人はやっぱり、レイくんと同じだ……)
レイと同じように、大切な人を失って、そしてレイとは違い、その場所から動けずにいる人だ。
(自分は間違ったことはしてない……でも……)
今傷ついている相手の心に踏みこむことは、琴にはできなかった。
結局、蒼羽は琴の注意に耳を貸さず杯を重ねて泥酔してしまった。しまいにはカウンターに突っ伏し、顔を上げようとしないので参った。
今日蒼羽から情報を聞き出すことを諦めた琴は、熊のような巨体の蒼羽を揺さぶる。
「蒼羽さん、起きてください。部下の方を呼んで迎えに来てもらいましょう」
とてもじゃないが一人では帰れないだろう。そう思い琴は声をかけたが、それはいらぬ心配だったようだ。見かねたバーテンダーがグラスを拭く手を止めて口を挟んだ。
「この方は、このホテルに連泊されているお客様ですよ」
「え……。じゃあ、蒼羽さん、お部屋に戻りましょう。何階ですか?」
返事をするのも面倒くさいのか、蒼羽はスーツのポケットから、ホテルのカードキーを緩慢な動きで出した。そこに書かれた部屋番号を一瞥し、琴は諦めたように立ち上がった。
自分より三十センチ近く高い蒼羽へ肩を貸し、半ば引きずるように歩く。蒼羽は酔っていたが、意外にも足はしっかりとしていたので、つまずいて押し潰されることはなかった。それでも体重をかけられると重く、部屋の前に辿りついた時には、琴は冬場だというのに額に汗をかいていた。
「着きましたよ蒼羽さん、蒼羽さん?」
何度呼びかけても、蒼羽からは呻きしか返ってこない。正直部屋に入るのは身の安全の為にも遠慮したいので起きてほしいのだが、これでは無理そうだ。
念のためスマホのボイスレコーダーは起動させたままだが、もし部屋に入った途端蒼羽が豹変した場合に備え、すぐに折川と通話できるようにした方がいいかもしれない。
琴は一度大きく深呼吸してから、カードキーを差し込み、扉を開けた。
「広い……」
主寝室とは別にリビングルームがある部屋は二つの方向に窓があり、宝石をちりばめたような夜景が広がっている。ハイセンスなインテリアが上質な空間を演出しており、琴は足を踏み入れてよいものか迷った。
しかし、スイートルームに連泊するなど、よっぽど羽振りがいいのだろうか。店の営業だけで? 暴力団の実情は知らないが、資金繰りに苦労している組もあるとニュースで耳にしたことがある琴は、やはり蒼羽は怪しいと思った。
「蒼羽さん、鍵、ここに置いておきますからね」
磨き上げられたマホガニーのテーブルにキーを置きながら琴が言う。
ベッドに運ぶまでに腰が悲鳴を上げたため、申し訳ないが蒼羽をリビングルームのソファに寝かせることにした。さすが高級ホテルのソファだけあって、蒼羽の巨体をなんなく包みこむ。しかし長い足だけははみ出してしまい、琴は少し迷ってから、蒼羽の革靴を脱がした。
「…………」
律儀な性格もあり、クッションを蒼羽の首元に敷いてやる。数十万円はしそうなジャケットがしわになるのも忍びなくて、琴は夢うつつの蒼羽に一言断り、ジャケットを脱がせた。
「んしょ、うう……重い、えいっ」
弛緩した蒼羽からジャケットを脱がすのは大仕事だった。まるで大きなカブをすっぽ抜くように、蒼羽の太い腕から袖を抜く。しかし、勢いに任せて引っ張ったせいでシャツの袖口が肘の部分までめくれ上がってしまった。
「わわ、ごめんなさい……」
空調設備は完ぺきだが、万が一にでも風邪を引かれてしまっては困る。琴は慌てて捲れ上がった袖に手をやったが、そこでピタリと手を止めてしまった。蒼羽の腕に、点々と散った花弁のような痕を見つけたからだ。
「――――……え……?」
まるで点滴を失敗した際に青黒くなった内出血に似たそれは、蒼羽の血管が浮かぶ二の腕に集中していた。
「蒼羽さん! これ……」
以前の神立次長との会話内容が、まざまざと蘇る。彼はこう言っていなかったか。リバイブを使用すると、花びらのような注射痕が浮かぶと。
蒼羽の腕に広がるこの痕はまさに、聞いていた注射痕そのものだった。