琥珀色に揺らめく思惑
「すっごかった……!」
一幕が終わったところで、琴は感嘆の息を吐いた。
劇場へ入った時は天井や壁が厚いオーク材で仕上げられた厳かな空間に萎縮してしまい、一階の中央寄りというこれ以上ないほどの良い席に自分の尻を落ち着けることすら躊躇ってしまったのだが、演目が始まれば物語にのめり込んでしまった。
四階建ての観客席の隅々にまで響き渡る天界の調べのような歌声に、大がかりな舞台装置と四面舞台。見るものすべてが琴の目を楽しませ、耳を刺激する。つい前のめりになって見入ってしまいそうになるのを何度堪えたことか。
休憩になって初めて隣の席の蒼羽を見れば、蒼羽は面白そうに琴を見つめていた。
「面白かったか?」
「はい! とても! オペラって初めて見ましたけど、はまってしまいそうです。蒼羽さんはよく来られるんですか?」
「俺ァ芸術にはとんと興味ねえよ」
てっきり誘ってきたくらいだからオペラに興味があるとばかり思っていた琴は肩透かしをくらう。しかし、椅子に深く腰掛けた蒼羽はコロコロ変わる琴の表情を見つめている方が楽しいようだ。
「お前を見てると飽きないな」
「ええ……? もったいないですよ。私じゃなく、オペラをちゃんと楽しんでください」
「ちゃんと楽しんで、ね。懐かしい台詞だ」
ふと、蒼羽の表情が懐古の情に囚われる。琴はもしかして、と思った。
(もしかして、蒼羽さんが私をオペラに連れてきたのは……亡くなった恋人の瑠璃さんがオペラが好きだったからかなぁ……)
琴を通して、もう二度と敵わない瑠璃とのデートを楽しんでいるのかもしれない。そう思うと切なくて、胃の辺りがきゅうっとなる。琴はたとえ悪人であっても、この人がリバイブにも、反警察団体にも関わりがなければいいと思った。
今日の蒼羽は、何か変だ。いつも不遜で自信満々で粗野で横暴、そして傲慢な彼が、今日はどうにも線が細く見える。
痩せたわけではない。スーツの上からでも厚い胸板が分かるし、特に目に見えて変化はない。が、テーブルの端に置いたグラスのように、少し押せば落ちて割れてしまいそうな不安定さを感じた。
「蒼羽さん……蒼羽さん?」
オペラを鑑賞したあと、いつものように蒼羽に連れられ夜景の見えるホテルのフレンチで舌鼓を打っていた琴は、蒼羽が黙りこんだのを不思議に思い声をかけた。
「ああ、何だ」
「もしかして、体調悪いですか? もう帰ります?」
琴としては予定通りバーに連れこんで酒を飲ませて情報を得たいところだが、例えターゲット相手でも、体調が万全でない相手に酒を飲ませるのは、看護師志望の身としては気が引ける。
今日も収穫なしだろうかと内心ガッカリする琴だったが、蒼羽は帰る気はないようだった。
「体調は問題ねぇ。今日はもう少し一緒にいろ」
「でも、顔色が……」
「平気だって言ってんだろ!」
押さえつけるように言われ、琴は大げさに反応しナイフを落としてしまった。すぐにやってきたウェイターが琴に新しいナイフを渡すのを、蒼羽は舌打ちしながら見ていた。
「……怯えさせたつもりはねえ」
「わ、分かってます。私が勝手にビックリしてしまっただけなので、気にしないで下さい」
「……今日は」
「蒼羽さん?」
「もう少し一緒にいろ」
たった今発した言葉をもう一度繰り返す蒼羽に、やはり違和感を覚える。怪訝に思う琴の視線の先で、蒼羽はアッシュがかったグレーの前髪をくしゃりと掻き上げた。
(どうしよう、攻めこむべきかな)
体調が問題なく、まだ一緒にいろと蒼羽が要求してきたなら、自然な流れでバーに連れこめる。盗聴器を持ち合わせていないため、もしもの時の指示を折川や神立次長に仰げないという不安要素はあるが、いつもの隙のない蒼羽と様子が違う今は、核心に踏みこむ絶好のチャンスだと思った。
「……もう少し一緒にいてもいいなら、あの、バーに連れていってもらえませんか? 私は飲めないけど、実は前から少し、そういう大人な雰囲気のところに憧れていて」
ませた女子高生らしく、大人の世界を垣間見たいという興味に満ちた様子を装い、琴はねだった。
「蒼羽さんの仕草、好きなんです。グラスを持つ手とか……あの、ダメ……?」
骨ばった蒼羽の手に琴が甘えるように触れれば、僅かに蒼羽の指が跳ねた。
「……確かに、飲みたい気分ではあるな」
蒼羽は食事を終えると、琴の肩を少し強引に抱き、同じホテルにあるバーへと連れて行った。
同時刻、レイもまた、六本木にある隠れ家のようなバーで酒を呷っていた。隣にはレイに見劣りしない年上の友人、朔夜を連れて。
平素はしっとりとしたピアノの旋律が耳に心地よい静かなバーだが、今日ばかりは芸能人も形なしの美形二人の来店に、店内の女性客はざわつく。カウンターにかけた二人の容姿を見たバーテンダーは、色めき立った店内に苦笑を禁じ得なかった。
騒がれるのにすっかり慣れた朔夜は、公務員とは思えない黒いシャツ姿でグラスの氷を揺らしていた。今日は仕事でないため眼鏡をかけておらず、精悍な目元がよく見える。
「今日は? 琴はよかったのか?」
「琴は帰りが遅くなるそうなので。それに、渡したい物があるからたまには外で飲まないかと誘ってきたのはそちらでしょう」
同じくスーツ姿のレイは、不機嫌に朔夜を睨む。品があるため紅茶がよく似合う彼だが、ロックのウィスキーを傾ける姿も映画俳優のように様になっている。
レイがグラスをテーブルに置いたタイミングで、朔夜はジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出し、黒いテーブルの上を滑らせてレイに差し出した。
「……これは?」
「君の母親が伽嶋病院に入院していた頃、勤めていた看護師の連絡先だ」
電話番号の書かれた紙に視線を落とし、朔夜が言った。レイは眉間にしわを寄せる。
「その方の連絡先をどうして僕に?」
「君は以前、母親であるエリーさんが自分を本当に捨てたのか真偽を確かめるため、当時俺の父の病院に勤めていた医療スタッフに聞きまわっていたことがあっただろう。その内の一人が、今はもう別の病院に勤務している看護師に、最近になってその話をしたそうだ。すると、ぜひ君にエリーさんと神立次長について話したいことがある、と俺に連絡を寄こしてきた」
「わざわざそんな人が……」
「会って話を聞くかどうかは君の自由だ。俺はその看護師に、君に連絡先を渡してくれと頼まれただけなんでね」
「……あの男の話なら、聞く気はしませんが……頂いておきます」
レイは紙を折り畳み、胸ポケットにしまった。朔夜は琥珀色の液体を口元に運び、皮肉っぽく笑う。
「あの男、か。神立次長に釣書を渡されたようだな。君の性格だ、琴が学生のうちは君と琴は結婚しないだろうから、俺の方が結婚は先かと思っていたが?」
蘭世との縁談が進めば、トントン拍子で結婚に持ち込まれそうだな、と言外に匂わせられ、レイは筋の通った鼻にしわを寄せた。
「からかうなら帰るぞ。恋人もいないお前に先を越される気はありませんが、三乃森議員の令嬢との縁談は断ります」
「琴が不安そうにしていたが、本当に断れるのか?」
「琴が……」
渡したいものがあると言って誘ってきたが、本題はこっちだったのでは、とレイは勘ぐった。このクールでいけすかない腐れ縁は、どうにも琴に甘い節がある。それはもう気に入らないほど。琴自身も懐いているのがまた、レイとしては面白くなかった。
(……ただの昔馴染みにしては、琴を可愛がりすぎじゃないか?)
レイはイライラと言った。
「奥の手を使ってでも破談にしますよ」
「君がそう言うなら、勝算があるんだろう」
「……どうでしょうね。でも、今は僕の縁談より琴が……」
レイは少し言いあぐねてから、朔夜をちらりと見つめた。
「琴の、様子がおかしいんですよ。ここ最近。明らかに嘘をついている。僕が仕事で帰りが遅い日は、いつも煙草の匂いを纏わせているし……一瞬貴方の煙草かと思ったんですが、あの匂いはフランスの黒煙草だった」
「……喫煙者でもないのに煙草の種類を正確に当てる君には恐れ入るが……」
朔夜は少し考えてから言った。
「そういえば、たまに放課後、急いで学校を後にする姿を見かけるな」
「何をしていたのかと聞けば、琴は友人と遊んでいたと言いますが……それなら尚更、煙草の匂いがするのは不自然で……それに、男物の香水の香りがしたこともある」
「まさか浮気を疑っているのか? あの琴が?」
「……いえ……。ただ、もし琴が……」
レイはグラスに入った液体を一回しした。水面に映る自分が揺れているのは、心が揺れている様によく似ていると思った。
「もし琴が、別の誰かに惹かれた時、自分はどうするべきなのか、分からなくて。本当に欲しい女の子が、もし別の方向を向いてしまったら、どうしたらいいのか分からない。でも」
グッと、グラスを持つレイの手に血管が浮かんだ。
「きっと、何が正解か分からなくて、琴の幸せを第一に考えたいと思うのに……琴が別の男を好きになったらきっと、あの子が泣いてももう離せないと思うんだ」
「随分と独占欲の強いことだな」
「今更だろう」
レイは自嘲気味に笑った。
本当に今更だ、とレイは思う。以前琴を自分から振ったのは、振られる勇気がなかったからだ。だが、今は手放す勇気さえない。数ヶ月前よりももっとずっと、琴に惹かれている自分がいる。
おそらく琴は気付いていないし、自分ばかりがレイのことを好きだと思っている節さえあるが、本当は違う。レイの方がずっと、琴に執着しているのに。
(バカな子だ。俺が手放せる内に離れていったらこんな重い鎖に繋がれたりしなかったのに)
甘い言葉で、優しい笑顔で、温かい仕草で、琴を束縛しようとしているのに。
レイの暗い思考を断ち切るように、バイブ音が鳴った。スーツのポケットから携帯を取りだしたレイは、朔夜に一言断り画面を確認する。
「すみません、電話が……」
「縁談相手の三乃森議員の娘か」
画面に表示された着信相手を視認したレイの表情が煩わしげに変わったのをめざとく見つけ、朔夜が言った。
「ええ……。もしかしたら、今日が休みだとばれたのかもしれません」
「休暇までばれてるのか?」
「親の権力を使って、ね。随分と好かれているようですよ」
レイは鳴りっぱなしの携帯をスーツの内ポケットに仕舞って言った。
「さて、あと一杯飲んだら帰ります。調べることがあるので」
「そういえばスーツだな。休日にまで仕事か?」
「いいえ。これは個人的な案件で色々調べ回っていました。叩いて埃が出ればいいんですが」
獲物を狙う鷹のような顔でニヤリと笑い、レイはスティンガーを注文した。その表情と、頼んだ酒のカクテル言葉から、朔夜はレイが何かをやらかすつもりかもしれないと察してこめかみを揉んだ。