先にそらしたのはどっちでしたか
まざまざとレイが男であると思い知らされたせいで、レイを見つめ返す勇気が出ない。
捲りあげられた寝間着を戻しながら、琴は「ええと」と意味のない言葉を発した。
(何か、何か話題を振らなきゃ……! この甘い空気を霧散するような……!)
「あ、えと、私から甘い匂いがするって、もしかしてボディクリームの香りかなぁ……? 今日はまだ塗ってないんだけどね。ちょっと持ってくる」
冬場は肌が乾燥するため、よく甘い香りのするボディクリームを塗っている。琴はこの妖しい空気から逃げるためにもソファから立ち上がり、ボディクリームをしまっている自室のドレッサーへ走った。その際に、鏡に映った自身の上気した顔を見て消えてしまいたくなるほどの羞恥に襲われる。
琴は引き出しからお気に入りのボディクリームを取り出すと、数回深呼吸してから平常心を意識してリビングに戻った。
「これの香り?」
レイの隣に座り直し、クリスタルの花がキャップについたボディクリームを開けてレイの鼻に近付ける。スン、と香りを嗅いだレイは、得心がいったように頷いた。
「ああ……琴から香る甘い花の香りはこれか」
「やっぱり。これね、お気に入りなの」
「へえ。貸して、塗ってあげる」
「え、あ……」
するりとボディクリームを取られた琴は、そのままレイによってソファのひじ掛けに背中を預けるように指示される。言われるがまま琴は横向きにソファへ座らされ、伸ばした脚はレイの膝の上へ乗せられた。
「れ、レイくん……あの」
「脱がすよ」
寝間着のショートパンツはそのままに、パイル地のニーハイソックスをレイによって焦らすように脱がされる。暖房がかかっているため寒くはなかったが、琴はふるりと小さく震えた。何となく身を守るように、手近のクッションを胸に抱きこんでしまう。
「ほ、本当にレイくんが塗るの?」
「いや?」
「嫌じゃないけど……」
金糸の髪をさらりと揺らして、小首を傾げて問うのは卑怯だと琴は思った。レイは普段は精悍で格好いいが、たまに二十代半ばとは思えないほど可愛い仕草をする時がある。それをあざといと思わないのは、惚れた弱味だろうか。
(でもでも、ついさっきのことを思い出して、ひたすらに恥ずかしいんですけど……!)
あの淫靡な空気を霧散させるためにボディクリームの話を振ったというのに、これでは結局同じではないか。
悶々とする琴を尻目に、レイは手のひらの熱であたためたボディクリームを、琴の足首から白いふくらはぎへ滑らせていく。
「あ、う……」
ローズマリーの香りがするクリームは温めてもやはり少し冷たくて、琴はキュッと足の指を丸めた。
(う……なんか、エッチな感じがする……)
レイの手つきに、先ほどのようないやらしさは感じない。むしろリンパの流れを意識したような塗りこみ方だ。それなのに、いつもよりレイの触れる面積が大きいだけで、動悸が止まらない。羞恥で頭が沸騰しそうだ。耳が熱い。血行がよくなっているせいだと思いたい。が、絶対に違う。
(どうしよう、さっき押し倒されたこともあってドキドキする……)
琴はレイの節くれだった大きな手を見つめた。膝の裏のリンパを刺激するようにクリームを塗りこむレイ。その慣れた手つきに、以前にも他の女性にこういうことをした経験があるのでは、と邪推してちょっと妬けてしまう。
そうとは知らないレイは、淡い髪色と同じ色をした長いまつ毛を伏せて言った。
「琴の肌は白いね」
「もやしっこだから」
「本当だ。筋肉がない」
「そこは嘘でもそんなことないって言うところだよ、レイくん!」
甲斐甲斐しくボディクリームを塗るレイの肩をバシリと叩く。鍛え抜かれた身体は痛くないはずなのに、レイは大げさに痛そうなリアクションをとった。
「でもやっぱり、何も塗らなくても、琴は甘い香りがするよ」
足へ顔を近付けたレイが言う。そのまま琴の足の甲へ唇を落とすかに見えたが、レイの顔は何もせぬまま遠ざかっていき、彼は再びクリームを塗ることに専念する。肩透かしを食らった気分になった琴は、慌てて頭を振った。
(……ちょっと、何期待してるの私!?)
すこしでもレイに『そういうこと』をされると思った自分がエッチな子みたいで嫌だ。激しい自己嫌悪に襲われ、琴はもんどり打ちたくなった。
(レイくんのせいだ……! レイくんが我慢してるなんて言うから、私エッチなダメな子になっちゃった……!?)
「ひう……っ!?」
「ごめん、冷たかった?」
いつのまにか琴の太ももの内側へ伸びていたレイの手に、琴は大げさにとび跳ねた。柔肌に触れるレイの手つきは、やはりどこまでも健全だ。嫌味なくらいに。
そこで琴はやっと気付いた。これはわざとだと。
(レイくん、絶対にレイくんに我慢をさせていることに気付かなかった呑気な私に、意趣返ししてる……!)
そうと気付けば憎たらしくて、琴は胡乱な目つきでレイを睨んだ。琴の非難するような表情を見たレイは、肩をすくめてすっとぼけた。
「どうかした? 琴」
「……何も!」
一枚どころか二枚も三枚も上手な相手だと分かってはいるが、それでも何だか負けた気分になり、琴は頬を膨らませ、プイとそっぽを向いた。
レイがおかしそうに笑う気配がする。だから琴は気付かなかった。この時、レイが何を考えているのかを。
さきほどの琴の入浴中、電気を消すために琴の部屋へ入ったレイが、ハンガーにかけられたコートに移った蒼羽の残り香に、気付かないはずはないことを。
余裕がない琴は、一ミリたりとも気付いていなかった。
「琴……」
「なあに、レイくん」
「……いや、何でもないよ」
恋人の物憂げな表情の理由にさえ、今の琴は気付けなかった。
「そう? あ、メール……ちょっとごめん」
パーカーのポケットに入れていたスマホが震えたため取りだすと、蒼羽からメールがきていた。ソファから立ち上がり、窓際に行ってメールを開けば、内容は次の食事のお誘いだった。
正直、蒼羽と会うのは気が乗らない。しかし……。
ホテルでの爆発に巻き込まれてからしばらく、琴はエレベーターに乗るのが怖くなった。いつ爆発するともしれない、落下するかもしれない当時の状況を思い出して息苦しくなり、脂汗が滲んでパニックに陥るようになったのだ。
高層マンションに住んでいるためエレベーターとは切っても切れぬ関係だったが、エレベーターに乗るたび動悸がひどくなることに気付いた琴は、しんどくても階段を上がる生活を続けていた。が、琴の異変にレイはすぐに気付いた。
すぐに気付いて――――……恐怖から丸まった背を撫で、ゆっくり深呼吸するように促し、会話を途切れさせぬようにし、そして手を繋いで毎日一緒にエレベーターに乗る練習をしてくれた。
そのお陰でトラウマを払拭し今でこそエレベーターに以前と同じように乗れるようになったが、自分はレイという存在がいて恵まれていただけだ。事件に巻きこまれた人間は、それを忘れず、一生それと向き合い、傷を抱えたまま生きていく。
きっと、ホテルを爆破した団体を野放しにしていれば、第二、第三のテロを起こし、琴のようなトラウマを植えつけられる人が出てくる。それを防ぐために自分ができることは……。
(一刻も早く、蒼羽さんが反警察組織と関わっているか見極めないと。そのためには会って情報を聞きだす他ないもんね……)
「……レイくん、私、金曜日は友だちと晩ご飯食べに行くことになったから遅くなるかも。レイくんのご飯は作っておくね。何が食べたい?」
スマホの電源を落としてから琴がソファに戻ると、レイは「そう?」と言った。
「琴が作ってくれる料理なら何でも好きだよ……ああ、でもシチューが食べたいな」
「シチューね。あ、でも一人だと余るかも」
「そしたら次の日は僕がシチューの残りをリメイクしてグラタンにするよ」
「グラタン!」
好物のグラタンを持ちだされ、琴は目をキラキラさせた。クリスマスを前にした小さな子供のようにはしゃぐ琴に、レイは優しい笑みを浮かべる。
しかし琴は、次のレイの言葉に肩を強張らせた。
「そうだ。金曜日帰りが遅くなるなら、最寄駅まで迎えに行くけど」
「え!」
(もし折川さんか蒼羽さんと一緒にいるところを見られたら困る……!)
レイの優しい申し出はありがたいが、作業玉の件を知られるわけにはいかない。琴は平静を取り繕って言った。
「ううん、駅からお家まで近いし、人通りの多い明るい道を歩いて帰るから大丈夫だよ! 心配しないで!」
「でも、絶対に安全なんて保障は……」
「じゃあ、あんまりにも遅くなるようなら連絡するから」
「……分かった。琴……」
「? レイ……くん……?」
渋々頷いたレイは、琴の細い首にそっと指を這わせた。
「一緒にご飯を食べに行く友だちって、紗奈ちゃん?」
一瞬、ヒュッと息が詰まる。瞳が揺れないよう気をつけながら、琴はレイを見つめ返して言った。
「……うん、そうだよ」
「…………そう」
一瞬、ほんの一瞬、琴はレイが悲しげに目を伏せた気がした。しかし瞬きをしてレイを見れば、もういつものレイで。
離れていくレイの指先。触れられた感覚の残る薄い皮膚の下、琴の脈は妙に早く打っていた。大事な任務のためだと分かってはいても、レイに嘘をつくたび心が切り落とされていくようだと思う。
しかし、琴はその痛みに気付かない振りをした。