完璧な彼は完ぺきじゃない②
先ほどのほの暗い瞳といい、背中の傷といい、レイは刑事として計り知れない何かを背負っているに違いない。
それなのに、彼は涼しい顔で自分の世話を焼いてくれる。すごい人なのに。ううん、すごい人だから?
(子供の私なんかじゃ、足元にも及ばないような世界の人だ……)
だからやっぱり、せめて邪魔にならないように、自分も自立した大人になりたいと琴は思った。レイのように何でもできる大人にとはいかないかもしれないが、せめて誰かの重荷にならない大人になりたい。
(やっぱり、自立への第一歩は自分でお金を稼ぐことかなぁ……)
バイトがしたい、と自室の机に置きっぱなしのアルバイト情報誌へ意識を向けていると、レイがTシャツを着て部屋から出てきた。蕩けるような笑みを携えて。
「ところで琴? 君の部屋の開いたドアの隙間から見える、机の上に置かれたアルバイト雑誌はどういうことかな?」
ぞっとするほど迫力のある笑顔で、レイが言った。レイの整った顔の後ろに、何故か琴は黒いオーラが見えた気がした。
嫌な予感に琴の背筋が凍る。レイは開いた扉から見えたアルバイト雑誌に一瞬で目をつけたというのか。目敏すぎる。いやでも、これはアルバイトのことを切りだすチャンス――――?
琴は汗ばんだ拳を握り、意を決し言った。
「あ、あのね、私実は、バイトしてみたいなって思って」
「あはは。絶対にダメだよ」
光の速さで一刀両断される。取りつく島もないとはこのことだと琴は愕然とした。
「ええっ。なんで!」
「バイトなんてしたら帰宅時間が遅くなるじゃないか」
「だってレイくんも帰宅するの遅いし、ちょうどいいじゃない」
「だからダメなんだ。僕が迎えに行けないのに、琴に一人で夜道なんて歩かせられない」
「ええー……心配ないよー」
「大ありだよ。不審者情報が多発している。襲われでもしたらどうするんだい?」
「そんなまさか……」
気を回し過ぎでは、と言いかけて、琴は口を閉ざした。実際に毎日事件と遭遇しているレイにとっては、それこそが日常なのだろうと思ったからだ。レイは珍しく眉を吊り上げ、腕を組んだ。怒っている時の仕草だ。琴は肩を縮こまらせた。
「油断はよくないな……。それに、琴の学校はアルバイト禁止だと以前伽嶋に聞いたよ」
「う……っ」
そうなのだ。琴の通っている高校ではアルバイトは禁止されている。紗奈は隠れてしているが、見つかれば停学になるだろう。
「だって……自立した大人になりたくて……」
「それで停学になったら、琴のご両親に迷惑がかかるよ。それは本末転倒なんじゃないのかな?」
「……おっしゃる通りです」
こんこんと諭されてぐうの音もでない。バイトは諦めた方がよさそうだ。しかし、バイトがダメならせめて自分のことくらい――――……。
「じゃあ、せめて家事は私に任せてくれないかなぁ?」
琴はダメもとで提案してみた。
「レイくんが自分以外の人間にキッチンに入られるのが嫌じゃなかったら……だけど。レイくんは私の世話を焼いてくれすぎるというか……。レイくんの味には及ばないけど、レイくんがお仕事の時は私がご飯だって作るし、掃除も引き受けるから――――レイくん?」
俯いたレイを不審に思い、琴は声をかける。ペールブロンドの髪からのぞくレイの表情はとても虚ろに見えた。
「……っ。レイ、くん……?」
「ん? ああ、ごめん。でもショックだな、僕が世話を焼くのは迷惑だった?」
「迷惑なんてことはないよ? レイくんが世話を焼いてくれるのはすごく嬉しいし」
「じゃあ問題ないね。僕は琴の世話を焼くのが好きで、琴もそれが嬉しいなら」
「えっ!? いや、そうじゃなくて……」
有無を言わさぬ笑顔で言われて、琴はどもってしまう。このままではまずい。レイのペースに持ちこまれたら、いつものように丸めこまれてしまう。
ただ、レイが一瞬見せた虚ろな表情が気になってしまって反論が浮かばない。
(さっきの目といい……今の表情はたしか刑事になって一年経った頃から、レイくんが時折見せる表情だ……)
レイはたまに、遠くを見つめることがある。それは遠い景色を見つめているわけじゃなくて、見えない虚空を眺めているような、手の届かない何かを思っているような瞳。たそがれているようにも見える瞳……。
一度、仕事帰りの母とレイの三人で鉢合わせた時に、母にレイのあの表情について聞いたことがある。すると母は悲しそうに言っていた。
『つらい別れを経験したことがある人の瞳ね』……と。
(つらい別れ? レイくんが? 誰と……?)
心当たりはない。今考えても詮なきことだと無理やり自分を納得させる。
「と、とにかく、あのね、このままじゃダメなの。このままレイくんに甘やかされていたら私、優しさに依存して、レイくん無しではいられなくなっちゃう……!」
琴はたれ目がちな瞳を潤ませて必死に訴える。上目遣いで言われたレイは、うっすらと口を開いた。
「……それは……好都合だな」
ちょっと考える仕草をしながら言ったレイに、琴は慌てた。
「こ、好都合って……レイくんももういい大人なんだし、私みたいな子供に依存されたら迷惑でしょ……? 恋人とかに誤解されたり……」
「あいにく僕に恋人はいないから、そんな心配は無用だよ」
「あ、そうなの……?」
思いがけずフリーであることを教えられ、琴の心が弾む。
(いや、何でちょっと嬉しいとか思ってるの私! あれだ。お兄ちゃんが誰にも取られる心配がなくて喜ぶブラコンの妹みたいな心境、それだわ!)
一人で脳内と格闘し百面相をする琴の滑らかな頬に、すっとレイの手が添えられる。
「……この澄んだ大きな瞳が僕だけを映して、君の笑顔が僕だけの為に咲くなら、何にも代えがたいよ」
「……澄んだ瞳は、レイくんの方じゃない……」
黒曜石のような琴の瞳と、レイのブルートパーズの瞳では、彼の瞳の方が透明度は高いというのに、どうして彼は琴の瞳を澄んでいるというのか。
「穢れてないってことだよ」
至近距離で甘く微笑まれて、琴の心拍数が上がる。レイの骨ばった手はそのまま、琴の命が流れる細い首筋へと下りていく。
「でも大人になってほしくないこっちの気も知らないで……残酷だね、琴」
「……え? 何か言った?」
レイの声があまりにも小さかったため、琴は首を傾げる。琴の首にかかった猫毛を払ってやりながら、レイは「いや、何も」と首を振った。
「でも僕の役に立ちたいなら……そうだな、目を見せてくれる?」
「目? 私の?」
「うん。僕が帰宅した時、もし琴が起きていたら、君の瞳を見せてほしいんだ」
「……? それって、レイくんの役に立つの」
「ああ。どんなことよりも役に立つよ。俺を此処に、繋ぎとめるためにね」
そう言ったレイが、風に消えてしまいそうなほど儚く見えて、琴は胸を締めつけられるような心地がした。色素が薄い彼は、光に溶けこんでいきそうに見える。
彼は完璧だけど、完璧なんて言葉は、彼には似合わないのかもしれないと琴は漠然と思った。