恋に落ちる音がした
車は繁華街を走り抜け、フランスの旗が揺らめく一件の高級レストランの前に横付けされた。そのことに一先ず安堵の息を吐いていると
「東京湾じゃなくてよかったな」
と蒼羽に笑われた。
「もうっ。からかわないでください」
蒼羽という男は狂犬のような雰囲気に対し、女には意外に甘く冗談もたしなむようだ。車で移動中にそのことに気付いた琴は、蒼羽相手に少しくだけた調子で話せるようになった。
大理石の敷きつめられた店内に入ると個室に通され、蒼羽が慣れた様子でメニューを頼むのを観察する。琴はレイや朔夜によって高級店に慣らされていてよかったと心底思った。でなければ、ナイフを持つ手が震えてしまったかもしれない。
もっとも、しばらくして運ばれてきた前菜のオマール海老とウニのジュレの味は緊張で分からなかったが。
(最近、美味しい料理を食べるチャンスには恵まれてるのに堪能できない……)
思えば神立次長に御馳走された懐石料理も極度の緊張で味が分からなかった。高級料理よりも、レイと食べたインスタントラーメンやたまごサンドの方がずっと美味しかったと琴は思う。
琴は次の料理が運ばれてくるまでの間に、失礼にならない程度に周囲を見回した。間接照明に照らされたセンスのよい個室は密談にはもってこいの場所だ。蒼羽はこういった場所を、取引で使ったりはしないのだろうか。
気付かれない程度にごくりと唾を飲んでから、琴は前のめりになって言った。
「蒼羽さんは、えと、堅気の人じゃないって言ってましたけど……ヤクザさんって、ガールズバーの経営をするのもお仕事の一つなんですか? 他にもお仕事されてたり……?」
覚醒剤の密売人としての仕事はしていないのか。その答えを期待したが、蒼羽は眉を吊り上げ、怪訝そうな顔で答えた。
「キャバクラも経営してる。うちの組の仕事は多岐に渡るな」
曖昧な答えに、琴はテーブルの下で指をいじった。質問を変えるべきか。ジュースで舌を湿らせるものの、緊張ですぐに乾いてしまう。
「じゃ、じゃあ、ガールズバーのお客さんって、どういう人がやってくるんですか?」
クスリを求めてやってくる客はいないのか。客に交じって『リバイブ』を求めに、反警察団体がやってくることはないのか。
聞いてから、琴は失敗だったと口を噤んだ。青いクロスが敷かれたテーブルを挟んだ向かいで、蒼羽の眉が寄ったからだ。
「俺の仕事について聞いて何か楽しいか?」
どうやら蒼羽は、素人が任侠の世界に興味を持ち野次馬根性で質問していると思ったようだ。目に見えて蒼羽の機嫌が下降していくのが分かり、琴は青ざめた。
「いえ、あの……すみません。緊張して、何話したらいいのか分からなくて……気分、害しちゃいましたよね……」
不躾すぎた、と琴は後悔した。
「構いやしねえ。が、好奇心は猫をも殺すって、覚えておいた方がいいぜ?」
「はい……」
(ヤクザさんに言われると、しゃ、洒落にならない……!)
琴は慌てて弁解の言葉を探した。
「えと、蒼羽さんのこと、知りたくて……いきなり質問攻めにして、すみません……」
「ほお?」
今の発言は好感触だったようだ。琴が発言一つ一つに最大限の注意を払っていれば、ポケットの携帯が震えた。
「鳴ってるぞ」
「あ、母からです。すみません、少し席を外してもいいですか?」
琴はスマホに表示された『母親』の文字を見せる。もちろん海外にいる母親からではなく、電話の相手は折川だ。彼からの指示で、琴は事前に折川の番号を母親として登録していた。
この場の空気から逃げたいこともあり、琴は少し小走りで個室を出ると、ウェイターにトイレの場所を聞き、そこに着いてから用具入れまでチェックして誰もいないことを確認したあと電話に出た。
「もしもし、折川さんですか? あの、どうし……」
『焦りすぎたな、宮前琴』
「うう。はい……」
先ほどの質問攻めについてだろう。盗聴していた折川に叱責され、琴はうなだれた。
『今日は攻めこむな。あまり最初からグイグイ聞くと怪しまれる上、しつこく質問して蒼羽が君から興味を失っては、今後奴と接触するチャンスがなくなる』
「は、はい……」
『蒼羽が君に興味を失わない限り、チャンスはまだ存分にある。今日はこのまま、君は蒼羽に惹かれていく振りをするんだ。いいな』
「わ、分かりました……」
電話を切ってから、琴は洗面台の鏡に映る自分を見つめて嘆息した。成果を焦りすぎてはいけないということだろう。じっくりと距離をつめていかねば。
それでも、長引けばいつまで自分は作業玉として活動せねばならないのかという漠然とした不安もわいた。
「ママとの電話は済んだのか?」
トイレから戻ると、蒼羽に揶揄めいた口調で聞かれた。
「危ない男に気に入られて、逃げ出したいと泣いたか? お嬢ちゃん」
「ち、違います! 泣いてもないですし!」
「そうだな、お前の目元はあいつみたいに腫れてない」
テーブルを回りこんで座ろうとした琴の細腕を掴み、蒼羽はグイと引き寄せる。テーブルに咄嗟に手を突いた琴は、唇が触れ合いそうな距離にギクリとした。至近距離に迫った蒼羽に、目元を擦られる。
「……本当に、瑠璃にそっくりなのにな」
目元が腫れていたなんて、蒼羽の亡き恋人である瑠璃は、いつも泣いていたのか。しかし彼女を知らないことになっている琴は何も聞けず、蒼羽の肌蹴た胸元に視線を落とした。そして、ふと気付く。
蒼羽の胸元に華のように咲いたタトゥーに。今までまじまじと見る機会には恵まれなかったが、よく見るとこれは――――……。
「青い鳥……?」
「ああ、これか」
蒼羽は琴の指すものに気付き、シャツの襟をさらに開いて見せた。蒼羽の浅黒く厚い胸元から首にかけては、賢しそうな青い鳥が大きな翼を広げたタトゥーが入っていた。
蒼羽の見た目からして、龍や蓮の花の模様だとばかり思っていた琴は、芸術のようなタトゥーに釘づけになる。しかし、不思議と蒼羽によく似合っていた。
「意外か?」
「意外というか……ううんと……」
青い鳥というチョイスが引っかかる。しかし、直後に頭の中に電流が走ったように閃き、琴はポンと手を打った。
「あ、そっか。『蒼羽』さんだからですね! 蒼い羽って名前が青い鳥を連想させるから。当たりでしょう? 幸運の青い鳥、素敵な名前ですね。きっと、幸せを掴める名前ですよ」
そこまでニコニコと言ってから蒼羽の返事がないことに気付き、琴はまた機嫌を損ねてしまったかもしれないと縮こまった。
しかし、蒼羽はわずかにヘーゼルの瞳を揺らしただけだった。その瞳は琴を射抜いているのに、琴の中に別の誰かの面影を探しているようでもあった。
「お前は……」
蒼羽の手が、琴の後頭部に伸びる。まるでお化けの輪郭をなぞろうとしているような動きだった。
「あいつと全く同じことを言うんだな……」
「え……?」
「昔、バカな女がお前と同じように俺の名を『幸運の青い鳥』だと言って、タトゥーを入れるなら青い鳥にしろと言ってきた」
「バカな女って……先日も、さっきも、口に出してた『瑠璃』……さん……?」
「ああ。お前によく似た女だ」
バカな女と蔑む割に、瑠璃のことを話す蒼羽の目は柔らかい。
「俺が危ない目に遭うんじゃないかといらねえ心配をして、いつも泣いていた女だ。『幸せの青い鳥をその身に宿しているのに』って」
暴力団に属している相手を恋人に持つというのは、気苦労が絶えなかっただろう。琴は瑠璃に同情した。そして、ここに来て初めて、蒼羽に親近感を持った。
瑠璃のことを話す蒼羽は、恋をする目をしていたからだ。その目はよく知っている。琴も、レイを思う時にきっとそんな目をしているはずだ。
気付けば、ふと琴は呟いていた。
「瑠璃さんって方は、蒼羽さんの、大切な人なんですね……」
「抗争に巻きこまれて、俺の目の前であっけなく死んじまったがな」
蒼羽は琴を一瞥してから、肩を竦めて言った。バカにしたような物言いだが、そう告げた蒼羽の顔は痛ましい。熊のように大きな彼が、琴には一瞬小さく見えた。レイと一緒で、孤独の匂いがする人だと思った。
(目の前で大切な人を亡くした人って……けぶるような孤独を宿してる……)
レイとは全然違う見た目なのに、蒼羽はレイによく似ていると琴は思った。
蒼羽は琴から手を話すと、襟元を正しタトゥーをしまった。
「くだらないことに幸せや希望を見いだす変な女だった。汚れた世界にいる俺の名前が幸運を宿してるだなんざ、馬鹿馬鹿しい」
「そんな……! くだらなくなんて、馬鹿馬鹿しくなんて、ないです」
琴は即座に否定した。
「女の子は、好きな相手の名前には、特別な意味を見出すんですよ。両親からどんな願いを込めて付けられた名前だろう、とか。彼の名字から連想するものはどんな素敵なものだろう、とか、色々考えるんです」
オニキスの大きな瞳を輝かせ、朗々と語る琴の頭に浮かんでいるのは、誰よりも好きなレイの姿だった。別の男といるのに、何故かレイのことばかりが浮かぶ。以前よりずっとレイのことが好きになっていると琴は思った。
「だからきっと、彼女は蒼羽さんのことが大好きだったんでしょうね」
琴が『レイ』の名前の意味は『光』だと思ったように、きっと瑠璃も蒼羽に『幸運』という意味を見出したのだろう。
そう思って微笑めば、蒼羽は焦がれたように再び琴に手を伸ばしてきた。
「え……」
蒼羽から香る紫煙と香水の匂いが濃くなる。彼の背中に流れるエクステの羽根が、シャラ、と擦れる音がした。視界いっぱいに、蒼羽の整った顔が映る。
(あれ……? キス、され……)
ドン!!
「な、何ですか? いきなり……」
琴は唇が触れ合うまであと一センチというところで、咄嗟に蒼羽の肩に手を置き、突き放した。危なかった。蒼羽の吐息を感じた自らの唇を、庇うように手の甲で押さえる。
琴の動揺を見て、熱に浮かされたような蒼羽の瞳は冷静さを取り戻した。
「ああ、そういえば……男慣れしていないんだったか」
「……っわ、私は貴方の恋人じゃありませんから、こういうことはやめてください……!」
いくら任務のためとはいえ、自分には恋人がいるのにキスをされてはたまらない。琴が真っ赤になって注意すると、蒼羽は「ああ、そうだったな」と思い出したように言った。
琴は鼓動が早くなった胸を、服の上から押さえる。蒼羽は危うい。今の彼は完全に琴を望月エマとしてではなく、瑠璃の形代として見ていた。身代りだと。
琴が警戒心をむきだして蒼羽を睨むと、蒼羽は
「そう敵視するな」
と言った。
「お前に睨まれるのは、堪える」
お前とは、琴か、それとも瑠璃か。琴は蒼羽が、出会ってから一度も琴のことを名前で呼ばないことに気付いてしまった。
「……ビックリするから、やめてくださいね……」
蒼羽に琴が拒絶していると思われては、接触する機会が潰えてしまう。そのため、琴は必死に照れている振りを装った。