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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第三章
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僕らの愛する星は違うね

 蒼羽に気に入られたことはよかったものの、次にどうやってコンタクトをとればよいものか。折川と神立次長から待機との指示を受けていた琴だったが、チャンスはすぐにやってきた。スマホに、蒼羽から連絡が来たのだ。


 内容は食事の誘いで、都合のいい夜を教えろというものだった。


 夜中の間に届いていたメールに起床してから気付いた琴は、まずはメールの内容をそのまま神立次長へ転送する。すぐに誘いに応じろと返事がきた。


 それを確認した琴は、キッチンで朝食を用意してくれているレイの元へ駆け寄った。

 平日は琴、休日の朝食はレイと担当を決めたばかりで、日曜日の今日はレイがサンドイッチを作ってくれていた。


 黒いエプロン姿が様になっていて、何度見てもときめいてしまうのは惚れた欲目だろうか。捲った袖口から覗く腕の筋肉を見ると、この腕にいつも抱きしめられているのかとドキドキしてしまう。


 目が合えば、レイは金糸の髪をさらりと揺らし


「おはよう」


 と、トーストの上のバターのように蕩ける笑みをくれた。それだけで、琴は粉砂糖をふりかけたフレンチトーストを食べたような甘さが全身を駆け巡った。


 何度見ても、何度経験しても、きっとおばあちゃんになっても、琴はレイにときめくのだろうな、とぼんやり思った。だから、この甘い時間を二度と手放したくない。たとえ相手が、大物政治家の娘相手だろうと。


「おはよう、レイくん……あれ、この匂い……」


 ほんのりと鼻孔をくすぐるのは出汁の香りだ。


 不思議に思ってレイの手元を覗きこむと、湯気の立ったフワフワの厚焼き卵が、パンに挟まれていた。


「これ、なあに?」


「関西風のたまごサンドだよ。職場の同僚に聞いたんだ。食べてみる?」


「あ、う……じゃあ、いただきます」


 聞きたいことがあったのだが、目の前に差し出されたサンドイッチがあまりにも美味しそうで、琴はボリュームのある黄金色の厚焼き卵が挟まれたそれを一つ摘まんだ。


 手に持ってみると、作りたてであるためじんわりと温かい。赤ちゃんのほっぺのような弾力に思わず頬が緩む。小さい口を精一杯あけて頬張ると、口いっぱいに優しいうまみが広がった。


「ん~……美味しい……」


 出汁の味が絶妙な上に、ミルフィーユ状に巻かれた卵の中心が半熟という仕上がり。琴はあまりの美味しさに頬を押さえた。


 美味しいものを食べると、それだけで幸せになれるから不思議だ。ニコニコと食べきった琴を、三日月のように目を細めて見ていたレイは、残りはテーブルで一緒に食べようか、と言った。それに頷きかけて、琴は止まる。


 朝食は魅力的だが、自分にはやることがあったのだ。まずこれを聞かねば残りのサンドイッチは食べられない。


「れ、いくん、明日はお仕事早い?」


「明日? そうだな……」


 レイはサンドイッチの盛られた大皿をダイニングテーブルに持っていきながら、キッチンカウンターの上に置かれた卓上カレンダーを見て言った。


「残務処理と、そのあと別件の調査があるから朝帰りになるかもしれない」


「そうなんだ……!」


 蒼羽は基本的に夜型の人間であるため、夜に誘ってきたのだろう。レイに作業玉であることを秘密にしなければならない以上、基本的にレイがいない時を見計らって蒼羽に会わねばならない琴は、明日がチャンスだと思った。


「琴? どうかした?」


「ううん。何でも……遅くまで大変だね、気をつけてね」


「ああ。ありがとう……」


 透き通った海のような瞳を伏せてから、レイは笑顔で言った。







 翌日、一旦学校から帰った琴は真っ先に着替えた。


 すっきりとしたシルエットのアンゴラニットと膝丈のフレアスカートを選び、シャーベット色のノーカラーコートを羽織る。そして玄関で盗聴器を仕込んだブーツを履く。まるでスパイにでもなった気分だ。


 ぺたんこの後頭部を相手に意識させないよう、パールの連なったバレッタを留め、亜麻色の髪はハーフアップにしている。


 公安から支給されたボイスレコーダーの入ったハンドバッグを持って家を出ると、昼間より一段と冷えこみ、冷たさを増した風が琴の頬を撫でた。


 蒼羽との待ち合わせ場所は、大きな駅から少し離れた広場だった。


 ライトアップされた噴水を背に、琴はきょろきょろと視線を彷徨わせる。神立次長から捜査を任されている折川によると、折川は琴の盗聴器越しに様子を窺い、それとは別に公安の仲間が離れたところで見張っているとのことだった。が、パッと見たところそれらしい人物はいない。


 そばのベンチには糊づけされたように抱き合うカップルしかいないし、少し離れた石畳の小道には、犬を散歩させている人やウォーキングをしている人がいるだけだ。


 先日は折川が近くにいてくれたため安心感があったが、今日は心もとない。寒さとは関係なくどんどん冷えていく指先に息を吐きかけていると、紫煙の香りがした。ついで、コツリと石畳を叩く革靴の音。


「まさか本当に律儀に来るとは思わなかったな」


 煙草のフィルターを口にくわえた蒼羽が、宵闇を携えて立っていた。


「俺に殴られた倉沢がそんなに心配だったか?」


 折川のことなら、心配に決まっている。しかし、どうやら自分を亡くした彼女に重ねて気に入っているらしい男にそう言えば、変な誤解を生みそうだ。言葉選びに難儀して寡黙になる琴の頭を、蒼羽はくしゃくしゃと乱暴に撫でた。


「え……」


「そんなに畏まるな。取って食いやしねえよ」


 ククッと唇を歪めて笑う蒼羽は、真冬の青い月光に照らされてとても艶やかに見えた。


 レイが美青年なら、蒼羽は偉丈夫という言葉がよく似合う。レイのように、万人が振り向く美形というわけではない。それでも、蒼羽という男には妙な引力がある。清廉潔白で紳士的なレイとは対照的に、アンダーグラウンドの背徳的な世界を携えて立っているような。


 もちろんレイも品のよいティーカップに注がれた紅茶のような見た目でありながら、中身はウィスキーという一面がある。が、蒼羽は外見から荒々しく、飲む者を一杯で潰すような蒸留酒に見える。


 黒豹のようにしなやかで、気がつけば喉笛を噛みきられそうな危険な空気を孕んでいるのに、きっとその危ない雰囲気に酔って夢中になる女はごまんといるだろうな、と、琴は蒼羽の整った容姿を見て思った。


 きっと女慣れしている相手から情報を聞きだすのは、骨が折れるだろう。琴は、神立次長と折川から事前に指示されていたことを思い出す。


 レイのように話術のない琴がまずすべきことは、自分も蒼羽に興味を持った振りをすることらしい。今日情報を聞き出せないまま蒼羽に会うのがこれっきりになってしまっては困るので、次回も蒼羽に自然に会う口実を作るには、琴自身も蒼羽に興味を持っていると相手に思わせる方が自然ということだ。


 ハニートラップという単語が頭に浮かび釈然としないが、作業玉になった以上、公安からの大抵の指示は聞く他ない。


(本当は、亡くなった人をまだ思っているであろう人に、似た容姿の自分が近付くことにも抵抗があるんだけど……)


 もしそれが、お天道様の下を歩けない悪人相手だったとしても、事情を知ってしまった以上、琴は気が引けた。


 しかし、亡き恋人に瓜二つの琴が現れたことに蒼羽は喜んでいるようだった。水槽の熱帯魚を見つめる子供のように、飽くことなく切れ長の瞳で琴を見つめている。


 琴はゆっくりと考えながら、口を開いた。


「……倉沢さんのことは心配です。暴力も、よくないって思ってます。でも……何だか、貴方の危うさが、放っておけないから……今日は貴方が気になって来ました」


「危うい? 俺がか?」


 虚をつかれたような顔をする蒼羽に、琴は小さく頷いた。これは本当に初対面から思っていたことだ。学生時代のレイを彷彿とさせる尖ったガラスのような危うさを蒼羽から感じていた。


 琴は躊躇いがちに、蒼羽へ手を伸ばす。一瞬蒼羽が警戒の色を強め身体に力を入れた気がしたが、琴が彼の頬に触れても怒ることはなかった。


 琴は指の腹で蒼羽の頬を撫でながら、陶器のように冷たいイメージのある彼がちゃんと温かいことに驚いた。


「何だか、放っておいたらひび割れてしまいそう、です」


 先日折川に襲いかかった凶暴さは、半身のように思っていた恋人を失ったことによる反動ではないかと、琴は思った。


「……っは。ますます面白い女だな」


 ダークグレイの髪を掻き上げ、蒼羽はニヒルな笑みを零す。しかし、次の瞬間その目を鋭くさせて広場の向こうを睨んだ。


「誰だ!?」


「……え……っ?」


 蒼羽が睨みつけた方向を琴も見つめる。広場の向こうは緑が植わっているが、陽が落ちた今は不気味な闇が広がっているだけだ。人がいる様子はない。しかし、蒼羽は蛇のような眼光で茂みの奥を睨みつけたままだった。


「誰かの視線を感じた気がする……」


 もしや見張っている公安の人間の視線か。ばれては困ると、琴は蒼羽の気をこちらに向けた。


「き、気のせいですよ。それで、どこに連れて行ってくれるんですか?」


「あ? ……そうだな……」


 少し逡巡してから、蒼羽は行きつけのレストランに琴を連れていくと言った。のだが、そこに向かうため黒塗りの車に押しこまれた時は、琴はさすがに泣きたくなった。


「あの、蒼羽さん……」


「気付かなかったか? 俺が堅気じゃないって」


 ウサギのように震える琴を見て、ゆったりとした後部座席のシートに腰掛けた蒼羽は鼻で笑った。


(知ってたよ、知ってたけどーーーーっ)


 蒼羽が犀星会の人間ということは神立次長に知らされていたが、まさか組員の車に乗せられるとは。琴はポケットに忍ばせた発信機を御守りのように握りしめ、しっかり折川が追ってくれていますようにと祈った。


「ま、コンクリートで固めて東京湾に沈めたりはしないから安心しろや」


「全然安心できませんけど……!」


 気楽そうに言う蒼羽からできるだけ距離を取り、琴は車が波止場へ向かっていないか確認するため必死に車窓を眺めた。その仕草を見て、蒼羽は懐かしそうに目を細める。


「……ますます昔の瑠璃にそっくりだな」


 キラキラした遠い昔の思い出をそっと思い出したように呟いた蒼羽の横顔は切なげだ。琴は彼の整った横顔越しに見える、窓の外の凍える月を見上げた。レイの髪の色だ。同じ車内で、琴も蒼羽も、それぞれ一番に想う人物は違っていた。



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