君は全てを見通していた
琴が帰宅して三十分ほど経ってから、玄関の扉の開く音がした。
「ただいま、琴」
「おかえりレイくん」
お風呂の準備をしていた琴は、洗面所から顔を出して言う。
頭の中で時間を逆算してみた限り、どうやら車で見かけたあと別の場所に寄り道はしていない様子でホッとする。靴を脱ぐ彼の元へ寄ると、照明のせいだろうか、レイは疲れているように見えた。
琴はレイが着ていたコートを受け取りながら尋ねる。
「お風呂先に入る?」
「いや、琴からでいいよ」
「そう? ……レイく……」
ふ、と視界が陰ったと思えば、レイが唇を寄せてきていた。ただいまのキスだ。いつもなら照れながら受け入れるそれを、琴は少し顔を反らして避けた。琴の口の端ギリギリにレイの唇が落ちる。
少し視線を泳がせてからレイを見やると、眉根を寄せた彼と視線が合った。
「……琴……?」
「ご、ごめんね。だ、だって、何か……」
どうやら自分は自分が思う以上にやきもち焼きらしい。先ほどまで蘭世といたレイを思い出すと、素直にキスを受け入れられない。
自分も先ほどまでレイ以外の男といたが、それは任務で致し方ないことだ。もちろんレイだって好きで蘭世といたわけではない。それは分かっている。分かっているのだが……。
それでもレイを独占したいと思うこの気持ちは日増しに強くなり、琴をダメにしていく。
「……他の女性と出かけた僕には、触れられたくない?」
レイの暗い声が頭上に落ち、琴は彼を傷つけてしまったと悟った。自己嫌悪に陥り、琴は呻く。
「うー……こんな自分ダメだって分かってるんだけど……ごめんレイくん」
「へ? うわ、琴……!」
一言謝罪を述べてから、琴は背伸びしてレイの髪に指を差し入れ、綺麗なオールバックをくしゃくしゃにかき乱した。
ハイブランドのスーツに身を包み、髪をセットした隙のないレイもたまらなくセクシーだったが、それが蘭世に会うためだと思うと他人のものみたいで面白くない。自分の知る清涼飲料水のように爽やかなレイが恋しくて、琴はレイの髪を乱した。
綺麗な額が前髪で隠れると、いつものレイが戻ってくる。自分のよく知る、自分だけのレイだ。
そうだ。キスされるなら、よそ行きの顔をしたレイにじゃなくて、いつものレイがいい。そう思い、琴の気持ちは逸った。
「どうしたんだ、琴……」
「脱いで」
「は?」
「スーツ脱いで、早く」
皺になったら申し訳ないと思いつつも、琴はおぼつかない手つきでレイのスーツのボタンを外した。珍しく鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたレイだったが、琴が脱がせやすいようにスーツから腕を抜き、ワイシャツとスラックスの姿になった。そこでやっと、琴の溜飲が下がった。
「いつものレイくんだぁー……」
ふにゃりとしまりのない顔で笑い、琴は相好を崩す。レイは瞬きしてから、得心のいった顔をした。
一方の手で琴の細い腰を抱き、もう一方の手は恭しく琴の手を取る。まるで姫に忠誠を誓う騎士のような仕草に琴の胸が高鳴る。しかし、騎士というにはいささか意地悪な表情を浮かべたレイは、琴と鼻先の触れ合う位置で、甘く微笑んだ。
「……これならキスしても?」
「ん、んー……」
答える前に、腰が痺れるような甘いキスを落とされる。うっとりして瞑った目をゆっくり開くと、唇が名残惜しそうに離れていった。
「やきもち?」
「だって……」
小首を傾げて問うレイに、琴はばつが悪くなり踵を返した。しかし、背後からレイのくしゃみが聞こえ、ハッとして振り向く。
「ごめんレイくん、私が玄関でスーツ脱がせちゃったから……」
「いいよ。琴が妬いてくれて嬉しいから」
「……嫌じゃなかった?」
「琴になら全然嫌じゃないよ。前は嫉妬を隠そうとして我慢してただろう?」
たしかに結乃に嫉妬していた時は、こんな自分はよくないと感情を抑えこみ、結果失敗した。苦い思い出に表情を曇らせる琴に、レイは優しく笑いかけた。
「だから、琴が僕に心を許して真正面から嫉妬してくれるのが嬉しい」
「……!」
「ああでも……たしかに寒いかな」
自分の腕をするりと撫でたレイに、琴は慌てた。
「ご、ごめん。何か着る物持ってくるね。やっぱりお風呂先に入って……」
「いいよ、上着はなくても。ほら」
「ほえ……」
背を向けて部屋に上着を取りに行こうとした琴は、レイによって後ろから抱きこまれた。
「子供体温の湯たんぽさんの方がいい」
「……もうっ」
口ではそう言いつつも、琴は自分も癒されるのを感じた。今日は一日中気が張っていたからだ。もしかしたら聡い恋人は、琴の元気がないことに気付き、わざと甘えているのかもしれないと琴は思った。自分が琴に甘えることで、琴が自分にも甘えやすいように。
(だとしたら、敵わないなぁ……)
首筋にレイの柔らかい髪が当たってくすぐったい。背中に感じる温もりがじんわり浸透して、揺りかごに揺られているような安心感が心地いい。
緊張で強張っていた全身が、優しく温かい手に揉みほぐされていくような気がする。琴は少しレイの方へ体重を預けながら、ずっと気になっていたことを聞こうと、おもむろに口を開いた。
「嫉妬してもいいなら……聞いても、いいかな……? 縁談はどうだった?」
「ああ……」
その反応だけで、やはりその日に破談というわけにはいかなかったのだろうと琴は思った。
「思っていたより、熱を上げられてたみたいだ」
「だってレイくん、今話題の人だからね。ひったくり犯を捕まえた英雄! 王子! ラジオでも取り上げられてたよ。ドラマよりも格好いい逮捕劇だって。そりゃ、三乃森議員の御令嬢もメロメロになっちゃうよね」
「ミーハーなだけなら、そのうち熱が冷めてくれるだろうけどね……」
断るのは難航しそうだ、とレイは肩をすくめた。
「それでもちゃんと断るから、そんな顔しないで」
「……私の顔見えないのに、分かるの?」
後ろから抱きしめているレイには、前を見つめている琴の顔は見えないはずだ。しかし、レイは琴の薄い耳に唇を寄せ、くすりと笑った。
「分かるよ。眉を下げて、しょんぼりしてることくらい」
「そんな顔してないかも」
琴は情けなく垂れ下がった自身の眉を触りながら強がった。レイが笑いをかみ殺すのが、背中越しに伝わった。
「そうかな? じゃあ、僕の願望かもしれないね。ワガママなんだ。琴に笑顔でいてほしいけど、僕のことを思って一喜一憂してほしくもある」
「ええー……」
「でも最後はやっぱり笑顔でいてほしいから、琴を泣かせるようなことはもうしないよ。安心して」
「うん……でも、無理はしないでね」
第一に琴を安心させようとするレイの優しさに、琴は不安の芽をそっと摘んでもらった気になった。
もちろん、先日の料亭で神立次長が言っていた通り、現状レイが蘭世の縁談を断るのは無理だ。蘭世に嫌われでもしない限り。
もし嫌われた場合だって、それでは縁談はなかったことに、と丸く収まるとは思えない。娘に恥をかかせたと難癖をつけられ、三乃森議員の圧力でレイは警察を辞めさせられてしまうかもしれない。
それなのにレイは、琴に大丈夫だと言う。安心してと囁く。根拠もなく、言葉だけで安心させようとする人ではないから、きっとレイなりの策があるに違いない。それに、レイは琴のヒーローだ。今までだって不可能を可能にしてきた、ハイスペックなスーパーマンだ。
(だから、今回だって、大丈夫なはず……。私は私の任務を全うしなきゃ……)
本当はレイに聞いてほしいことが沢山ある。一人では抱えきれないことが山ほど起きたのだ。蒼羽との接触に折川の怪我。けれど、公安の任務内容は他言無用。たとえレイ相手にも話すことは許されない。
(大丈夫……レイくんがいてくれるなら、私は大丈夫……やれることをするんだ)
きっとこうしている今も、ホテルでの爆破テロの後遺症で苦しんでいる人がいる。新たなテロに怯えている人がいる。本当はその道のプロである公安が解決すべき問題だ。
でも今彼らが手づまりで、琴に全てを託したいと言ってくるなら。琴が作業玉として適任で、テロを防いだり、テロによって心に傷を負う人が出ないようにできるなら、自分にできることをすべきだと琴は思った。
下唇を噛んで気を引き締める。レイがその仕草を見逃さなかったのを、琴は気がつかなかった。琴は務めて明るい表情を作って言う。
「さて、と。レイくん、風邪引いたら困るから、やっぱりレイくんからお風呂に入ってね。着替えは洗面所に置いとくから」
「でも琴も外出して帰ったんだろう? 外が寒かったのは一緒だから、気を使わなくていいよ」
「え……」
自分はレイに外出したと言っただろうか。目を丸める琴に、レイは何でもなさそうに言った。
「煙草の匂いがしたから、カラオケにでも行ったの?」
「え、あ、うん。そう。紗奈ちゃんがハマッてて、マイク離してくれなくて大変だったよ」
「そう。でも琴は昔喘息だったから、煙いところには気をつけてね」
「はい」
チクリ。レイに嘘をついた罪悪感が、針となって琴の心を刺す。仕方のないこととはいえ、やはり気分のよいものではなかった。しかし目を反らせば嘘をついたとばれてしまいそうで、琴は極力レイの目をしっかりと見つめた。
レイは琴の瞳孔の動きを一瞬見つめてから、先に目を反らした。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、お風呂は先に頂くよ」
そう言って洗面所へ消えたレイに、琴は小さく息を吐く。だから琴は気付かなかった。レイが瞳孔の動きで、相手の嘘が見抜けることを。