夜の覇者は不敵に笑う
(この人が、蒼羽さん……)
胸元のはだけた黒いシャツにスラックス姿の蒼羽は、二人掛けのソファに仰向けになって身を投げ出していた。
ひじ掛け部分に組んだ足を載せているが、長身のためソファからはみ出している。尊大に腕を組んだ蒼羽は、アッシュがかった灰色の前髪の下、目を瞑っているようだった。襟足につけられた羽飾りが、彼のこけた頬をくすぐっている。
浅黒く厚い胸板が、彼の呼吸に合わせてゆっくり上下しシャツを押し上げている。対して、琴の心臓は小鳥のように早くなっていた。
「駅でスカウトしてきました。少しおぼこいですが、客受けはすると思います」
折川はよく見えるように、蒼羽の前へと琴を突き出す。琴は声が震えないよう努めながら口を開いた。
「は、はじめまして……」
琴は頭を下げてから、怖々蒼羽を見下ろす。と、蒼羽はうっすらと目を開けたところだった。
三日月のように鋭い双眸が、ゆっくりと琴を映す。琴にはほんの一瞬にも、千年のようにも感じられた。
作業玉とばれたらどうしよう? 気に入られず追い返されたら? そんな心配が琴の胸を埋め尽くし、冬場だというのに冷たい汗が背筋を流れる。
しかし、蒼羽の反応は想像していたものとは違った。
「……瑠璃……?」
ゆっくりと起き上がった蒼羽の瞳が、驚愕に見開かれる。蒼羽が立ち上がると、彼が熊のように大きいことに気付き、琴は無意識に一歩下がった。が、両肩を蒼羽の大きな手に掴まれ、乱暴に引き寄せられる。
「瑠璃なのか……?」
「い……っ」
痣ができるような握力で掴まれた肩が悲鳴を上げる。琴が呻いても蒼羽は力を緩めず、信じられないものを見るような目で琴を見下ろしていた。
「瑠璃……」
「ちが、なに……っ!?」
助けを求めて折川を仰ぎ見れば、折川は蒼羽を見つめ、餌がかかったと言わんばかりに唇を舐めていた。
(なに……? 瑠璃って誰? 何が起きてるの……!?)
混乱する琴と、琴を睥睨する蒼羽。その間に、不自然なほど明るい折川の声が割って入った。
「蒼羽さん、誰と勘違いされてるんですか? この子は俺がスカウトしてきた子です。可愛いでしょう?」
穴が開くほど琴を見つめていた蒼羽の目が、ギロリと折川へ向く。視線が外れたことに、琴は安堵の息を漏らす。しかし再び蒼羽に見下ろされ、琴は首筋にナイフを突きつけられたような緊張感を味わった。
琴の顔よりも大きな蒼羽の手が血の気の失せた琴の頬に触れ、彼の顔がぐっと迫る。煙草の匂いが濃くなり、琴はむせそうになった。
何より、猛禽類を彷彿とさせる蒼羽の瞳は、相手を石のように固まらせる力がある。琴の零れ落ちそうなたれ目や小さな鼻、小粒な歯や瑞々しい薔薇色の唇を検分するように見た蒼羽は、琴からパッと手を離した。
解放されたことにより力の抜けた琴は後ろによろけ、そのまま先ほどまで蒼羽が寝ていたソファに当たって座りこんだ。折川が一瞬咎めるような視線を送ってきたが、放心状態なのだから勘弁してほしい。
「……このガキ、どう見ても高校生だろう。お前が連れてきたんだったな、新入り」
前髪のせいで顔が隠れ、表情の読めない蒼羽が言う。
さすが捜査官といったところか、蒼羽の気にあてられない折川は、ニコニコと言った。
「ええ。若い方が客も喜ぶでしょう? どうですか、お気に召し――――……」
折川の言葉はそれ以上続かなかった。ヒュッと風を切る音がした次の瞬間、折川は蒼羽によって殴り飛ばされた。
「え……っ!?」
血と、折川の奥歯が宙を舞い琴は瞠目する。
悲鳴が喉で絡まっている間に、蒼羽に殴られた折川は背中から壁に激突した。さらに追い打ちをかけるように、折川の腹部に蒼羽の拳が入り、琴は今度こそ悲鳴を上げた。
折川は壁を背にずるずると座りこむ。その彼の肩を、十字架に貼りつけるように蒼羽は足で壁に押さえつけた。
折川の肩口をなぶるように、グリグリと足の裏で押さえつける蒼羽の顔は怒りで染まっている。
「気に入ったかだと? こいつを、俺が?」
蒼羽に顎で指され、琴は肩を跳ねさせる。
「新入りで知らないからで済まされると思うか? このガキは『あいつ』と同じ顔だ! それを売り物として俺に使えって言うのか? てめえは!」
「すみ、ませ……ゴフッ」
唇の端から血を流している折川の顔に、蒼羽の蹴りが入る。琴は恐怖で地面に貼りついた足を無理やり引き剥がし、折川に駆けよった。
「やめてください! おり……っ倉沢、さん! 大丈夫ですか!? 息、できますか?」
鼻が折れて息が吸えなかったら大変だ。顔を血まみれにした折川の顔を覗きこめば、折川は蒼羽から見えないように小さく口を動かした。
――――問題ない。捨て置け、と。
まるで、最初から蒼羽が怒るのを分かっていたような口ぶりだ。もしかしたら、この事態は折川にとって想定の範囲内なのかもしれない。しかし、琴は蒼羽の仕打ちに憤った。
「おい、離れねえか」
背後から氷柱のように尖った声がかかる。蒼羽だ。しかし、琴は小さく息を吸うと、振り返って蒼羽を睨みつけた。一瞬、蒼羽が怯んだ気がした。
「嫌です。離れたら貴方、またこの人を殴るでしょう」
「ああ?」
「だから離れません」
そう言って、琴は折川を自分の背中に隠した。背後で折川が焦る気配がしたが構うものか。医療人を目指す自分にとって、この状況は到底看過できるものではない。
「……解せねぇな。何故見ず知らずの男を庇う? 何かあるのか?」
蒼羽の纏う空気が、さらに冷たく尖る。足が震えそうになるのをこらえながら、琴は言った。
「私は……私は看護師を目指しているんです。目の前で暴力を振るわれている人を放っておくなんてできません」
「ほお? じゃあ前途明るい学生に教えておいてやろう。お前が庇っている新入りは教えてくれなかっただろうが――――」
するりと、返り血のついた蒼羽の手が琴のスカートを捲り上げ、太ももを撫でていった。
「きゃ……っ!?」
怯む琴の反応を見て、蒼羽は笑う。
「ここはガールズバーと銘打っちゃいるが、客と『こういうこと』をさせている。苦学生か? 新入りに高収入とでも言われてスカウトに目が眩んだか。だが、お前は新入りに騙されて連れてこられたんだよ。それでも庇うのか?」
いかがわしいことを目的とした店とは知らなかった。だが騙されたも何も、自分は折川の協力者だ。
「……そういうお店だとは知りませんでした。でも」
「でも?」
蒼羽の短い眉が吊り上がった。
「騙されていたとしても、目の前で苦しんでいる人を見捨てる理由にはなりません」
琴は洗われた御影石のような瞳で、真っ直ぐに蒼羽を射抜いた。蒼羽は僅かに目を瞬く。それから、酷薄そうな口の端を歪めて笑った。
「――――……っは。いいねえ、面白い。今にも気絶しそうなくらい蒼白な顔をして啖呵を切る女は初めてだ」
くく、と喉で笑いを転がした蒼羽は、琴の頤を掴み引き寄せた。
「お前に免じて、今回はそこの能なしは見逃してやらぁ」
「……! あ、りがとうございます。あの……それから、応急処置もさせてください」
「いいぜ? 好きにしな。だが……」
蒼羽の暗く深い瞳に、琴は自分の姿が映っているのがよく見えた。彼の瞳の中の自分は、捕らえられているようにも見える。
「……お前がこの店で働く代わりに、俺の女になれば、な」
(…………!)
かかった。垂らした釣針に、大きな獲物が食いついたのを琴は感じた。釣り竿さえ折ってしまいそうなほどの獰猛な大物が。
どうして蒼羽が一介の女子高生に過ぎない平凡な琴に興味を持ったのか。どうして順調に事が運んだのか。分からない。分からないが――――蒼羽の琴の顔を見た時の反応と、『瑠璃』という謎の名前。その二つが深く関係していることはよく分かった。
(まず蒼羽さんがリバイブと関係があるのかを探るには、彼本人に気に入られる以上に好都合なことはないって、公安の人じゃなくたって分かる……)
アルバイトの一人として探るより、恋人の立場になって蒼羽を探る方が情報を得られるに決まっている。
自分はチャンスを手にしているのだ。そしてそれ以上に、琴は折川の身が心配だった。
(でも、演技でも蒼羽さんの女になった振りをするなんて……)
レイへの裏切りになるような気がして、琴は気が引けた。
琴は傷の具合を確かめながら、折川に指示を仰ごうと盗み見る。折川は目線で、「思うとおりに行動しろ」と訴えてきた。
(思うとおりに……もし、初対面の人に告白されたら、自分なら……)
「……貴方の女になれとか、いきなり言われても困ります……。でも、倉沢さんを助けたいんです。ねえ、どうか」
「ああ、お前は男を知らなさそうだしな。いいぜ、徐々に俺に惚れていけばいい。今後も俺に会うことで勘弁してやる」
本当なら、すんなり蒼羽に惚れた振りをして彼の女になるのが最善であったのだろう。しかし、レイのことを思うと素直には頷けなかった。
折川をソファに座らせ、ハンカチで血を拭う。背中に蒼羽の視線を感じていると、ふと、彼が思い出したように尋ねてきた。
「ああ……そういえば、お前、名前は?」
「……エマです。望月エマ」
望月エマという偽名は、琴が作業玉になるにあたり、公安から用意された名だった。