キュートな誘惑
「ただいま、琴。起きて待っていてくれたんだね」
「おかえりレイくん」
鍵の開く音を聞きつけ、琴は玄関でレイを出迎えた。
神立次長との食事を終えた琴は、彼の部下が運転する車で夜の九時過ぎには家まで送り届けられ、すでに風呂も寝る準備も済ませていた。だが、どうしても今日はレイの顔を見てからベッドに入りたい気分に駆られ、日付を跨ぐ時間まで待っていたのだ。
レイはパイル地のモコモコした寝間着をきた琴が玄関で待っていたことに驚いた様子だったが、稲穂色の髪をさらりと揺らし、嬉しそうに微笑んだ。
「遅くなってごめんね。ご飯は食べた?」
チュッと丸い頬に唇を落とされ、くすぐったさに琴は目を細める。神立次長とのやり取りに疲れ果てた脳みそが、レイのキスにより、チョコレートを与えられたかのように回復していく気がした。
「食べたよ。外で……えと、紗奈ちゃんと」
(レイくんには、レイくんのお父さんに会ったことは言えない)
それは、琴が作業玉になることを了承した時に神立次長から釘をさされたことだった。公安の任務内容を、たとえ警察関係者相手だろうと口外してはいけないと。
後ろめたいことはしていないのに、レイに嘘をつかなくてはいけないのは、琴に罪悪感を与えた。
「レイくんは?」
「僕も警部たちと食べて帰ってきたよ」
「警部さんと?」
レイからカバンや上着を預かり、レイの部屋のハンガーに掛けながら琴は言った。
神立次長と対面していた間は、随分と気が張っていたのだろう。顔はそっくりなのに、レイと話していると揺りかごに揺られているような安息を感じる。
「うん。でも、琴が起きて待ってくれているなら、もっと早く帰ってこればよかった」
「でも、上司との食事もお付き合いだから大事でしょう?」
「そうだけど。でも、一秒でも長く琴といたい」
「あ……う……」
なんのてらいもなく言われた琴は頬を朱に染めると、それを誤魔化すように
「お風呂冷めちゃったから、おいだきしてくるね」
と風呂場に逃げた。
シャワーの音が止み、しばらくしてレイが洗面所から出てくる気配がした。
琴は真っ暗やみの中、ベッドの枕元に置いたスマホのボタンを手探りで押す。刺さるような眩しさに目を細めながら時間を確認すれば、深夜の一時を過ぎたところだった。パタリ、とスマホをうつぶせに置き、琴は目元に腕を乗せる。
「……どうしよう寝られない……」
目を閉じれば瞼の裏には神立次長の腹の読めない顔が浮かび、会話の内容が思い出される。考えれば考えるほど目が冴えていき、知恵熱でも出そうだ。
「……とんでもないことを了承してしまった気がするよー……」
寝返りを打って悶々とする。このままじゃ朝を迎えてしまいそうだ。琴はむくりと起き上がると、ホットミルクでも飲んで落ち着こうと思った。
(うう……。もしホットミルク飲んでも寝つけなかったら……レイくんのベッドにお邪魔してもいいかなぁ……)
レイのベッドは二人で十分寝られるくらいの広さだが、仕事で疲れているレイのことを思うと寝返りで起こしてしまいそうで、特別な機会でもないと一緒に寝るのは憚られる。
おそらくレイは気にしないと言うだろうが、琴がためらってしまうのだ。
せっかく温もりをうつしたベッドから抜け出て、琴はスリッパをひっかけるとリビングに続くドアを開けた。寒さに小さく震えたところで、対面キッチンに人影を見つけた。
「レイくん……!」
「琴? まだ起きてたんだね。音うるさかったかな」
タオルを首から下げた、スウェット姿のレイが冷蔵庫の前に立っていた。濡れているせいで蜂蜜色になった髪、そしてそこから滴る雫が鎖骨を滑り落ちていく様が妙に艶めかしくて、琴は顔に熱が集まる気がした。
「ちが、ちょっと、眠れなくって……」
どうしてスウェット姿なのに、雑誌の表紙モデルのように様になっているのか。薄い唇から覗く綺麗な歯並びも、針金を通したように筋の通った鼻も、海を閉じ込めたようなアーモンド形の瞳も、神が贔屓して作ったとしか思えない。
しかし、神立次長の血を確実に引いているのだろう。パーツがそっくりだ。あの人はきっと、人生経験の深みが増した今の方がよりモテるに違いない。
(若い頃、きっとレイくんみたいにモテモテだっただろう人が、作業玉の外国人の女性と結婚した……。キャリアなら、反対の声も沢山あっただろうに……。だから病気の奥さんを放っていたの? でも、神立次長の奥さんについて語る目はとても……)
優しかったように見えたのは、そうあってほしいと思った琴の欲目だろうか。
突っ立ったまま考えこむ琴の肩に、ふっとカーディガンが掛けられた。ふんわりと香るティーツリーとレイの匂いに思考が途切れ琴が顔を上げれば、レイが困ったように笑っていた。
「そのままじゃ寒いだろう。風邪を引くよ」
どうやらダイニングテーブルの椅子に引っかけていたレイのカーディガンをかけてくれたらしい。ダボダボのカーディガンに腕を通した琴は、レイの香りに頬を緩めた。
「ありがと。レイくんは寒くない?」
「僕は風呂上がりだからね」
「もしかして、お水飲みに来てた?」
レイが風呂上がりにミネラルウウォーターを飲むのはいつものことだ。琴が背伸びしてレイの髪をタオルで拭いてあげながら言えば、レイはくすぐったそうに言った。
「それもあるけど、小腹がすいて」
「ほえ……」
そういえば、レイは痩せの大食いだ。琴が記念日に到底処理しきれないだろう御馳走を作っても、いつも涼しい顔でペロリと平らげている。上司との食事だったなら、いつもより控えめな量しか食べてこなかったのかもしれないと琴は思った。
「あ、じゃあ何か作ろうか? えっと冷蔵庫の中に何残ってたっけ」
パタパタとスリッパの音を立てながら、琴は冷蔵庫を開けた。
「気持ちだけでいいよ。自分で作るから……ほら、琴は明日も学校だしもう寝なきゃ。昨日も寝不足だっただろう?」
すり、と薄い下まぶたをレイの親指に撫でられ、琴は目を瞑った。レイに何か作ってあげたい気持ちと同時に、まだ自分がレイと一緒にいたい気持ちが強い琴は渋った。
(一人だとグルグル考えちゃうから……レイくんともっと一緒にいたい……)
何より、レイといると気持ちが凪いだ海のように落ち着くのだ。
聞き分けの悪い琴に、レイは不思議そうな顔をする。しかしこれ以上食い下がってはレイにとって迷惑だろう。琴は肩を落とし、しょんぼりと引き返そうとした――――ところで、静かな空間に、くう、と小さな腹の虫が鳴った。琴の。
「…………」
水を打ったような沈黙。それから、琴はバッとお腹を押さえた。
(うわーーん!! 何でこんなタイミングでお腹が鳴るのーーっ!?)
思わず頭を抱えて座りこみたくなる。琴は長い髪に隠れた耳まで真っ赤になった。そういえば、神立次長との食事では緊張のあまり箸が震え、喉も細って料理が通らなかったためあまり食べられなかった。それを思い出すと、ますますお腹が減り、琴は消えてしまいたくなった。
「……ふ、……く……っ」
頭上で笑いを噛み殺そうとしている音がし、琴は真っ赤な顔でレイを睨みつける。レイは口元に手を当て、クスクスと笑っていた。
「ひどい、レイくん笑わないでよ……」
「ごめんごめん。可愛くて。琴もお腹すいてたんだね」
どうどう、と牛でも宥めるようなレイを、琴はじっとりとした目で睨む。ひとしきり笑ったレイは、コホンと一つ咳払いをした。その秀麗な顔に、うっとりするような悪戯っぽい笑みを携えて。
「じゃあ琴、夜更かししても大丈夫なら、一緒にいけないことしようか?」
「………………へ?」