完璧な彼は完ぺきじゃない①
昼休みが明けてから放課後まで、琴は紗奈からずっと「保健室で伽嶋先生と何を話していたのか」と尋問を受けていた。
どうやら琴が呼び出されただけで、学校中の女生徒が羨ましさに嫉妬の炎を揺らめかせているらしいのだ。噂好きの紗奈は目を輝かせて琴から話を聞きたがった。
(もしレイくんが学校の先生だったりしたら、毎日女生徒に囲まれてるんだろうなぁ……)
「でも安心したな」
紗奈は八重歯を見せて笑った。
「琴、ここ数日海外の両親が連絡寄こしてこないってぼやいてたのに、今日は全然言わなかったもんね。それって、同居相手との生活が楽しいから寂しさを感じなかったってことでしょ?」
「…………!」
たしかにそうだ。今までの自分なら両親が日本にいる時でさえ、長期出張のたびにため息をついていたというのに。今は両親が海の向こうにいても寂しさを感じないくらい、レイが満たしてくれている。
(……レイくん……)
初恋の相手とはいえ、一日同じ家で過ごしただけで、こんなに影響を受けるなんて。
(あの優しさに溺れて、レイくんにベッタリになってしまったらどうしよう……)
「さーて、バイトバイトっと。じゃあね、琴!」
琴の悩みなど露知らず、こってり絞って会話内容を吐かせ満足した紗奈は、颯爽と教室をあとにした。琴はその後ろ姿を見送ってから、自分もカバンに荷物をつめる。
「バイトかぁ……」
いいかもしれない。琴は思った。自分の力でお金を稼ぐことは、自立への第一歩になると。琴は早速帰り道にアルバイト情報誌をゲットしてから、合い鍵を使って新居へと帰宅した。
「ただいまー……」
当然のように、無人の広い室内に琴の声は吸いこまれていく。それが当然のはずなのに、どこか胸の風船が萎んで琴は自分が嫌になった。
実家で暮らしていた時は、自分より早く両親が帰宅していることなどまずなかった。つい一昨日までそれが普通だったのに、昨日が満たされすぎていたせいで、レイがいないと心に隙間があいたような気持ちになる。
(やっぱり、レイくんにはあんまり甘えないようにしなきゃ)
琴の中での彼の存在はとても重い。レイは長期出張でしょちゅう家を空けていた両親よりも甘えられる存在だからだ。でも、だからこそ彼に甘えっぱなしになると、自分がダメになる気がする。
「自分にできることをまずやらなくちゃ」
琴はアルバイト情報誌を自室の机に無造作に置くと、段ボールの中身を片づけ始めた。ある程度片付いたところで空腹に気付き冷蔵庫を開ければ、レイによって作り置きされたいくつもの料理が保存容器に入っていた。
ご飯を食べてから、家の中を見て回る。さすがにレイの自室に入ることはしなかったが、(独自に調べた事件のファイルなどが置いてありそうで気が引けた)多忙を極めているだろうに、レイの家の中は埃一つ見受けられない。無駄なものがないから汚れないのだろうか。
「いやでも目に見えない汚れってのはあるものだよ、琴! せめてお掃除しよう。あ、でもレイくん掃除機とか何処にしまってるんだろう……」
クローゼットを適当にいくつか開けてみると、掃除用具入れにヒットする。そして、そこにあった宇宙船のような円盤を見下ろし、琴は肩を落とした。
「……ル○バ……」
どうやら、ルン○がレイの家の清潔を保っているらしい。またしても文明の利器に邪魔をされた気がした琴だった。
「こんなに私ばっかり楽してたら、本当にレイくんが私を預かるメリットなんてないよ……」
利潤を求めてレイが琴を預かるはずもないのだが、何か自分に価値を見出したいと思うのはダメだろうか。
(サクちゃんは、レイくんにとって私は特別だっていうけど、何が特別なんだろ)
お風呂上がり、洗面台の鏡に映る自分をまじまじと見つめてみる。相変わらずどこまでも平凡だ。タンポポの綿毛のようにフワフワした長髪は、今は濡れていて後頭部がペタンコなのをより鮮明にさせるし、大きなたれ目もお人よしに見えて他人になめられがちだ。
胸だって決して豊かとは言えない。
「んんんん……私の理想とまるで違う」
琴は動物のように唸ると、最低限の家事を済ませて不貞寝を決めこんだ。
翌日、琴はシャワーの音によって目を覚ました。一人に慣れているせいか、自分以外の物音に敏感になってしまう。でも、誰かの生活音を耳にするのは幸せだなぁ、と思いながらまどろんでいると、唐突に覚醒した。
「そうだ……! レイくん……!」
ここは自宅ではない。レイの家だ。つまりこのシャワーの音の正体は……。
「レイくん帰ってきたんだ………!」
ベッドサイドに置いた鏡で身だしなみを簡単に確認し、琴は部屋のドアを開け放つ。ちょうどレイが頭からタオルを被り、洗面所から顔を出したところだった。
「レイく――……」
声をかける途中で、琴は口を噤んだ。水の滴る前髪越しに見えたレイの瞳が、とても虚ろだったからだ。
アクアマリンを嵌めこんだような瞳が、今は凍えるように冷たい。
(いつものレイくんじゃない……)
心を閉ざしたような目に、琴は見覚えがあった。レイは完璧超人で、ハイスペックな王子様だが、琴にはたまにどうしようもなく孤独にも見える瞬間があるのだ。
たしか、そんな目をするのは警察官になってしばらくした頃からだ。琴の元を訪れる時はいつだって明るく振る舞っているが、ふとした瞬間に、底知れぬ闇を抱えているような影がちらつくのだ。
その影が、彼が修羅場をくぐり抜けてきたと如実に伝えていて、琴は一介の女子高生の自分とは違うのだなあ、実感する。
そういった時は、凶悪な殺人犯を取り調べしたあとだったりするのではと琴は勝手に踏んでいた。なぜならけぶるような濃い孤独を抱えて帰ってきた時の彼は、琴の目をとても見たがるから。顔ではない。目なのだ。
「レイくん……?」
琴が遠慮がちに声をかける。すると、床に落ちる水滴をそのままに振り返ったレイは、濁った瞳を揺らめかせた。
手負いの獣のような、もしくは研ぎ澄まされた抜き身の刀のような雰囲気に琴はギュッと胸を押さえる。
裸足でキュッとフローリングを鳴らし、レイが無言でこちらへと向かってきた。
「おかえり……?」
琴がそう言うと、レイは琴の前でピタリと足を止め、薄い唇を開いた。
「琴……目、見せてください」
仕事中の敬語の癖が抜けていないレイは、大きな手で琴の両頬を包みこみ、額をコツンと合わせた。それから琴のオニキスの瞳を覗きこんで、ほっとしたように息をつく。レイの瞳に、本来の光が戻った。
「……ああ、よかった。君の目には濁りがない……。君の目は、昔からずっと澄んだままだ」
レイの目には、琴の目はどんな色に映っているのだろう。どんな世界を見て生きているのだろう。
「……大丈夫……?」
仕事のことならあまり踏みこんではいけない気がして、琴はおずおず問いかける。
「大丈夫ですよ、でもちょっと充電したい」
「え……。え……っ? レイくん?」
気を揉む琴を、のしかかるように抱きしめるレイ。琴の細い肩やフワフワした髪を堪能しているレイとは裏腹に、琴は泡を食うばかりだ。
(うわああぁレイくんのシャンプーの香り……! 濡れた髪が頬に当たってくすぐったい。それに、レイくんの逞しい腕と固い身体が………ん……?)
お風呂上がりでレイの体温が高いのは分かる。しかし、感触がやけにリアルに思えて、琴はレイの胸板に手を置いて距離を取ろうとした。のだが、手のひらにはじんわりとレイの体温が伝わってくる。厚い胸板の感触も。
「……っっレイくん! なんで服着てないの!?」
琴が素っ頓狂な声を上げる。今の今までレイの様子がおかしかったので気にならなかったが、よく見るとズボンは穿いているものの、レイの上半身は裸だった。
琴の双眸に、レイの鍛え上げられた身体が映る。腹筋がくっきりと割れた上半身はまるで彫刻のようだ。しなやかなレイの身体に思わず目が釘付けになり、琴は頬を赤らめた。
「ああ、ごめん。ついいつもの癖で」
「は、はははは早く服! 着てよ!」
レイの方を見ないように両手で顔を隠しながら琴が叫ぶ。レイは不思議そうにしていたが、動揺して耳まで真っ赤な琴を見ると、嗜虐心が刺激されたのか意地悪く笑った。
琴の耳へ髪をかけ、わざと耳元へ色っぽい声を注ぎこむ。
「……意識した?」
「……な、ななな! 何言ってるの!?」
(どうしよう! さっき裸のレイくんに抱きしめられた。レイくんは格好いいお兄さんのはずなのに……! あんな姿見たら意識しちゃうの当然でしょ……!)
「初で本当に可愛いね、琴は」
くっと笑いを噛み殺すレイに恨み事の一つでもぶつけたくなる。しかし彼を睨みつけると、必然的に目に毒な彼の裸体も目に入ってしまうわけで。
琴は小動物が威嚇するように唸るしかできなかった。
「これ以上は噛みつかれそうだから、大人しく着るよ」
自室のドアを開けながらレイが言う。しかし、彼が部屋に入る際に見えた広い背中や肩に傷痕を見つけてしまい、思わず琴は駆けよった。
「レイくん……これ……」
刀傷、というやつだろうか。肩甲骨を斜めに横切った傷を見つめ、琴は言葉を失う。それから、肩には明らかに弾がかすめた銃創があった。
「……ああ、気持ちの悪いものを見せてごめん」
「気持ち悪くなんてないけど……犯人にやられたの? 痛そう……」
「古い傷だから平気だよ。どれも大した傷じゃないしね。でも」
レイは琴の頭をくしゃくしゃとかきまぜ、困ったように微笑んだ。
「琴にそんな顔をさせてしまうなら、やっぱり今度からはちゃんと服を着るべきだね。反省するよ」
レイがこんなに傷だらけだったなんて初耳だ。いつも琴の元を尋ねてくるレイはけろっとしているから。同居してみて初めて、レイの刑事としての一面を垣間見た気がした。
「レイくん、無茶しないでね……」
心配で瞳を揺らす琴を見たレイは
「琴にそんな悲しい顔をさせるわけにはいかないからね、善処するよ」
と笑った。