お初にお目にかかります
「いやあ、親友の彼氏がネットで大絶賛されてるって鼻が高いよねぇ!」
墨を流したような夜の住宅街。始業式が終わるなり駆けこんだカラオケ帰りの紗奈は、スマホ片手に興奮して言った。白い息を吐き出したその声はマイクをずっと離さなかったせいで少し枯れている。
紗奈の手に握られたスマホの画面には、レイがひったくり犯を制圧する様子が映し出されていた。ファンタジーランドに居合わせた客が撮った動画で、SNSに上げられたそれは広大なネットの海を渡り紗奈の目にまで止まったらしい。
動画を上げた主には大量のコメントが送られ、大半がレイの正体を尋ねるものや絶賛するもの、行動と容姿を褒め称えるものだった。
「レイくんは困ってるよ。アップした人、動画削除してくれないかなぁ……」
琴とて自慢の恋人であるレイの行動が賞賛されるのは誇らしいのだが、無断でネットに上げられるのは喜ばしくない。レイの職業を思えば尚更だ。
「警視庁捜査一課のエースがあんなに目立っちゃあな」
紗奈の隣を歩いている加賀谷は、同情まじりの視線を琴に送った。紗奈はノリが悪いと二人をたしなめる。
「琴は映ってないし、二人の関係がバレたわけじゃないし、いいじゃん! アタシ、常々レイさんは皆に賞賛されるべきだって思ってたんだよねぇ」
「うーん……」
しかしネットに動画が上がってからというもの、ネットニュースやまとめサイトにも取り上げられ、軍人も真っ青な制圧を見せたレイの正体を探る人が出る始末。これではレイの仕事に支障が出るかもしれない。
琴は表情を曇らせたまま、紗奈と加賀谷とマンションの前で別れた。
暗証番号を入力してからオートロックのドアを通り、大理石の敷かれたロビーを抜け、エレベーターに乗って琴は住み慣れた部屋へと上がる。腕時計に視線を落とせば時刻は十九時半を回ったところだ。少し遅くなってしまったと思いながら、冷蔵庫に入っている食材でできる献立を考える。
明るい廊下を歩き、鍵を回してドアを開ける。玄関に半身を入れたところで、琴は違和感に気付いた。
きっちりと揃えられたレイの靴の横に、見慣れない男物の革靴が並んでいたのだ。皺ひとつ入っていない磨き抜かれた革靴は、洗練されたデザインでアウトサイドからトゥにかけての曲線が美しく、ブランドに疎い琴でも一目で高級なものだと分かる。
「サクちゃん……? 来てるの……?」
サクちゃんとは、向かいの部屋に住む妖艶な養護教諭『伽嶋朔夜』のあだ名だ。レイとは学生時代からの腐れ縁であり、琴のよき相談相手でもある。
しかし、二十代後半の朔夜が履くにはその革靴は少し渋すぎる気がした。どちらかというと、もっと人生経験を積み成熟した中年の足元を飾っている方が似合いそうだ。
「もしかしてお客様、かな」
珍しい。半年ほどレイの家に厄介になっているが、朔夜以外の客が尋ねてきたことはない。もしかすると、レイの上司かも。桐沢警視長の可能性もある。
(桐沢警視長なら、あの革靴似合いそう……でもここに来るかなぁ)
警視長レベルの大物に似合いそうな革靴の横に、そっと自分の小さなローファーを並べる。
琴は極力音を立てぬよう自室に戻ると、フワフワした栗毛の髪に乱れがないかドレッサーでチェックし、荷物を置いてリビングのドアを控えめに開けた。
「……ただいま……?」
来客を応対中かもしれないと思い、琴はリビングへ向かって小さく声をかける。琴の予想通り、十五畳あるリビングからは、四つの目玉が琴を見つめ返した。
「え……?」
思わずドキリとしてしまう。革張りのソファに腰掛けてこちらを見やったのは家主であるレイだ。そして、向かいに掛けるもう一人は――――……。
レイと瓜二つの顔を持つ、五十代の男性だった。瓜二つといっても、その男性の髪はレイのペールブロンドとは違い落ち着いたロマンスグレーであるし、瞳の色はブラックスピネル。目元と口元には幾多の経験を重ねてきたと思わせる皺が刻まれている。
だが――――……万人を虜にするほど吸い込まれそうな目や凛々しい眉、筋の通った鼻や薄い唇、はては歯並びまでが、レイに似ているのである。
まるで時計が早まり、レイが未来からやってきたかのようだ。
ただ、その中年男性はレイと同じく柔和な顔つきをしていながらも、その眼光は鷹のような鋭さがあり、思慮深さと聡明さと、少しばかり冷酷な色も秘めていた。
「えっと……」
(レイくんの容貌にそっくりな人がいるなんて……)
きっと、玄関にあった革靴の持ち主なのだろう。客人がかっちりと着こなすテーラードカットのスーツといい、醸し出すオーラといい、自分とは次元が違う気がして琴は気後れしてしまう。が、顔を合わせたのだから失礼のないよう挨拶しなくては。
そう思って琴はリビングに近寄るが、それより早くレイが動いた。
「おかえり琴。ここはいいから部屋に戻っていて」
「え? でも、お客様なら……」
さっとドアの前までやってきたレイに、客人から隠すように追い立てられる。ピュアウールで仕立てられたスーツや落ち着いた所作から身分が高い客人だと分かるし、そんな人と一介の女子高生である琴を、レイは接触させたくないのだろうか。そう考え、琴は首を捻る。
挨拶がダメならせめてお茶だけでもと渋る琴に、レイは
「あの男なんかに君を見せる価値はない」
と冷たく言った。
「レイくん?」
犯罪者でもない他人に対しここまで冷たいレイを初めて見た琴は戸惑う。価値がないとはどういうことだ、訪問者は一体何者なのか。答えは、レイ以外の口から得られた。
「父親に、預かっている娘さんを紹介してくれないのか。薄情な息子だ」
耳に心地のよい重厚なテノールが、愉快そうに言葉を紡ぐ。声をかけてきたのは、ソファに掛けるレイにそっくりな客人だった。
「父親……? 息子……?」
言葉の意味が咀嚼しきれず、琴は眼前のレイとソファに掛ける男に、交互に視線をやる。レイは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「レイくん……? もしかして、あのお客様は……」
「……僕の父親だ」
悪夢から目覚めたばかりのような口ぶりで、レイは言った。琴は大きな瞳を零れ落ちそうなほど見開いた。




