深夜の攻防 前編
お久しぶりです^^
二章のその後の二人を描いた番外編の前編になります。
しまった、と後悔した時にはすでに、DVDはエンドロールを流していた。
「ねえ、サクちゃん」
人一倍自立心が強い琴が甘えた声を出すのは珍しい。それも恋人以外の相手に。
今いる場所は幼なじみの一人であり、通っている高校の養護教諭でもある伽嶋朔夜の家だ。リビングにあるモダンなデザインの壁掛け時計は、午後十時をさしていた。
今日は愛しい恋人のレイから、残務処理のため警視庁に泊まりこむと夕方に連絡がきていた。そのメールをうっかり見逃していた琴は、放課後友人である紗奈の家に寄ってDVDを一緒に見たあとに気付き、そのまま同居しているレイの部屋には帰らず、向かいに住む朔夜の部屋のベルを押した。
家主はちょうど帰宅したところだったらしく、ネクタイを緩めたワイシャツ姿で出てきた。肌蹴た襟元から覗く鎖骨がひどく扇情的だったが、琴はそんなことに頬を赤らめている余裕がなく、一緒に夕食をとろうと誘った。
そのため、琴が作ることを条件に承諾した朔夜とついさっきまで一緒に食卓を囲んでいたのだが……。皿洗いを済ませ、朔夜のお酒の用意までしたところで、琴は冒頭の甘えた声を発した。
「お願い……一緒に入って」
「断る」
チワワのように潤んだ瞳で訴える琴の願いを、朔夜は一刀両断した。ソファに座り平日からウイスキーを何杯も傾ける彼に、琴は頬を膨らませる。
「どうして」
「どうしたもこうしたも……神立くんが今夜帰らないなら、彼に許可を得てお前を客間に泊めてやるのはいい。が、風呂は一人で入れ」
「それが出来たら苦労しないよ!」
琴は涙声で訴えた。
「ねえお願いサクちゃん、お風呂一緒に入って」
そう訴える琴の大きな瞳には、心なしかうっすらと涙の膜が張っている。朔夜の黒いシャツの裾を引っ張り、上目遣いでお願いする姿は男心をくすぐるものがあるのだが、まるで無自覚だからレイも苦労するだろうな、と朔夜は心の中で年下の友人に同情した。
「……そもそも、神立くんはうちに泊まることを了承しているのか?」
「うん? メールは送ったけど……そういえば返信確認してない……」
「神立くんはああ見えて嫉妬深いから、許してくれないと思うぞ」
「ええ? レイくんが嫉妬深い? まさかぁ」
琴はふわふわした栗毛を揺らしながら、キョトンとした顔で言った。
その反応に、酒豪の朔夜はまだ彼にしてはそれほど飲んでいないというのに眉間を押さえた。琴はあまり自分に自信がないせいか、レイに執着されているという自覚がなく、自分ばかりがレイのことを好きだと思っている節がある。
が、実際は違う。
おそらく、敬愛する先輩刑事を目の前で亡くし塞ぎこんでそのまま壊れていきそうなレイを救ってくれた琴を、レイは誰よりも深く愛し、冒しがたいものとして大切に大切に囲いたいと思っているはずだ。
大人としての理性が働いているため実際にそんな行動に出たりはしないだろうが、琴と別れていた時期のレイは手負いの獣のようであったし、朔夜の目には憔悴しているようにも映った。
愛されている本人ばかりが、そのことに気付かないのだ。
「苦労するな、神立くんは」
「どうかした? サクちゃん」
「いや……。付き合う前や別れていた間はともかく、お前たち、めでたくヨリを戻したんだろう? だったら、よっぽどのことがない限りうちに泊まるなんて神立くんは許さないと思うが」
「今はよっぽどの時だよサクちゃん」
琴は必死な様子で食い下がる。それから自分よりずっと背の高い朔夜の腕を掴み、非力なりにグイグイと浴室の方へ引きずっていく。
「お願い。この先保健室でサクちゃんが煙草吸ってるの見かけても皆には黙っておくから一緒に入って……」
琴はこれでどうだと言わんばかりに条件をつきつけ、朔夜を洗面所に無理やり連れこんだ。その時――――玄関のドアがバンッと蹴破られるような音で開いた。
「来たか」
「え……」
朔夜と琴の声が重なる。
朔夜の腕を掴んだまま、琴は洗面所からひょっこり顔を出してみる。と、玄関には今いるはずのない人物が立っていた。
――――――氷点下のように冷たいオーラを発して。
「やあ、琴。迎えにきたよ」
女性ならば誰もが見た瞬間蕩けそうなほど甘い微笑み、そしてしなやかな立ち姿。しかしその背後には草花も凍るような冷気を携えたレイが、不自然なほど明るい声で言った。
大輪の薔薇が咲いたような満面の笑みであるのに、アイスブルーの瞳は据わっている。琴は震え上がるような寒気を感じ、顔を強張らせた。
「れ、レイくん? 今日は泊まりこみでお仕事じゃなかったの……!?」
氷のようなレイの瞳に気圧されていた琴は、一拍おいてからレイの方へ駆けよった。
「……こんなメールを寄こされたら、仕事を即効終わらせて帰るに決まっているだろう」
そう言ってこちらへ向けたレイのスマホの画面には
『君の女が、一緒に風呂に入れとせがんでくるんだがいいのか』
と、朔夜からのメールが映し出されていた。
琴はひくりと喉を引きつらせ、振り返って朔夜を睨みつける。朔夜は琴の恨みがましい視線を無視し、火をつけていない煙草をくわえた。
「あ、あのね、レイくん、これは――――……きゃっ!?」
「とにかく、お邪魔しました。琴は連れて帰りますから。そして二度と来させません」
後ろから抱きこまれるように肩を引き寄せられたと思うと、琴の耳元でレイが喋る気配がした。それは朔夜へ向けられたもので、口調は穏やかなのに声は地を這うように低い。
「れ、レイく……」
「いくよ、琴」
琴の返事も待たず、レイは琴の肩を抱いたまま踵を返す。その横顔があまりにも無表情だったため、鈍い琴でもさすがにレイが怒っていると分かった。
(マズイ、レイくんすごい怒ってる……!)
出ていく際に助けを求めて朔夜を振り返ったが、朔夜はやっと煙草が吸えると思ったのか、琴にひらひらと手を振ってから呑気に煙草に火をつけていた。
(サクちゃんの薄情者ぉぉぉっ)
琴は心の中で叫んだが、その叫びを受け止めてくれるものはいない。レイによって彼の家へ連れ戻された琴は、大人しく家に入る。
靴を脱いだところで、背後でレイが玄関のドアを閉める音がした。次の瞬間、ぐん、と強い力でレイに腕を引かれ、ドアに背中を押しつけられる。突然の衝撃に琴は小さく呻いて目を瞑った。
次に目を開いた時には、眼前に怒りを孕んだ蒼い宝石が迫っていた。顔の横にはレイの腕が伸び、檻を作られ逃げ場がない。琴は息を飲んだ。
「……っ」
「どういうつもりかな」
前髪越しに見える瞳は凍ったまま、しかし口調だけは妙に優しくレイが問いかけた。
「え……あの……」
「伽嶋と一緒に風呂に入るつもりだった? どうして?」
優しい詰問に、真綿でじわじわと首を絞められていくような息苦しさを覚える。琴はどもりながら口を開いた。
「う……一緒に入るっていっても、あの……そういう意味じゃ……」
「そういう意味?」
レイの蒼い双眸が細められる。琴は肩を縮こまらせ、視線を泳がせた。
「どういう意味があるのかな」
「だからそれは、その……」
ちゃんとした理由はある。しかし、琴は最悪なタイミングで言い淀んでしまった。結果、その沈黙はレイに不信感を与えてしまった。
「許せない」
「あ……っ」
レイの無骨な手が琴に伸び、顎を掬いあげられる。目が合った瞬間、琴は獰猛な肉食獣に捕食される気分を味わった。
「別れようって離した手を掴んでくれたのは君なのに」
「レイく……」
「伽嶋が好きになったの?」
「レイくん誤解……」
「でもダメだよ。もう二度と離す気ないから」
レイの瞳に宿った色が暗くなる。顎にかかっていた手が後頭部に回り、引き寄せられた。感情を削ぎ落したような視線に射抜かれたまま、唇が迫ってくる。視界が陰り、流されそうになって一瞬目を瞑る。
しかし――――……。
「違うの……っ」
部屋中に響き渡るような大声で、琴は叫んだ。レイの動きが止まる。
こんな状況でも、目を丸めるレイを至近距離で見られるのは貴重だとか、まつ毛が長いだとか考える自分は能天気にもほどがある。が、今は何より誤解を解く方が先だ。琴は恥を忍び、しどろもどろになりながら言った。
「違うの、サクちゃんが好きになったわけじゃなくて、ああえっと、サクちゃんのことは好きだけど恋愛感情とかじゃなくて――――とにかく、サクちゃんに一緒にお風呂に入ってって言ったのは、バスタブに二人で浸かろうって意味じゃないの!」
「……は」
レイが怪訝な顔をする。琴は慌てて付け加えた。
「あのね、お風呂に一人で入るのが怖いから、私がお風呂に浸かってる間、サクちゃんには浴室とドアを挟んだ洗面所にいてって意味だったの……!」
琴の叫びが廊下に反響する。木霊を聞きながら、レイは困惑の色を浮かべた。
後編は今週中に公開予定です。後編は糖度が高めになっておりますので、甘々は苦手だけど読んで下さるという奇特な方がいらっしゃいましたら、あらかじめ砂糖を吐くバケツをご用意お願いします><




