彼は私をダメにします
「噂をすれば、か?」
着信相手を察した様子の朔夜に頷いてから、琴は通話ボタンを押した。
『琴?』
外にいるのだろう。喧騒に紛れて、レイの澄んだ声が耳に届く。
「どうしたのレイくん。あ、お弁当ありがとう。でも来週からは自分で作るから……」
『とんでもない! 琴の栄養管理をするのは、琴のご両親から君を預かった僕の務めだからこれからも出来得る限り作るつもりだよ』
いや、私より国のために尽力してください。と、突っこみたくなる琴だが、そういえば彼はばっちり仕事もこなしているのだった。レイの検挙率はトップだと前に両親が噂していた気がする。
『それで電話したのは……ごめん、仕事が立てこんでて、今日は家に帰れそうにないんだ。ご飯は……』
「そっか……。頑張ってね。あ、ご飯は大丈夫、私自分で作るから」
レイが今夜は帰れないことに気落ちしつつも、自分のことを自分でやるチャンスだと琴は息巻く。しかし……。
『あ、いや、冷蔵庫の中に作っておいた料理が入ってるから、温めて食べてくれるかい?』
「……ほえ」
『本当は出来たてのものを琴には食べてほしいのに……無念だよ……』と、電話越しに本気で悔しそうな声が聞こえてくる。琴は混乱した。
「ちょ、ちょっと待ってレイくん! いつの間に作ってくれたの? お仕事で昼夜問わず忙しいのに、そんな暇あった?」
泡を食う琴に、レイは五月の清風のごとき爽やかさで返す。
『やだな、琴。時間は作るものだよ。本当は成長期な琴のためにカロリー計算して栄養バランスの整った食事を三食揃えたいんだけどね……』
「神立くん、琴が絶句しているぞ」
あまりの徹底ぶりに琴がスマホを取り落としそうになったところで、朔夜が突っこむ。朔夜の声を拾ったレイは、途端に機嫌を急降下させ、ドスの聞いた声で言った。
『その声は伽嶋ですか? 何で琴といるんだ似非インテリ。今すぐ離れろ! 琴に煙草の匂いが移ったら僕の手で貴様を始末しますよ』
「……えらい言いようだな。君はそれでも日本の治安を守る警察か」
マイペースにコーヒーで舌を湿らせながら朔夜が言う。琴は「電話代わる?」と携帯を差し出したが、朔夜は「彼とケンカするほど暇じゃない」と断った。
レイは琴といる時は穏やかだが、年上の朔夜と話している時だけは荒々しくなる。どうやらレイは朔夜に不良時代を知られているのが恥ずかしいらしい。琴はそんな二人のやりとりが割と好きなのだが、レイの方も忙しいようで、用件を伝えると早々に切ってしまった。
「レイくん、夜通しお仕事なのに私のご飯用意してくれてるんだって……」
琴は唸りながらテーブルに突っ伏した。
「よかったじゃないか。普通なら喜ぶ場面だろう」
口寂しいのか、火のついていない煙草を口に挟みながら朔夜が言う。
「嬉しいけど複雑……また無理させちゃったよ」
「……神立くんは時間のやりくりが上手いからな。基本無駄がないし。おそらく一週間分の料理をお前が寝てる時間にでも作ってるんじゃないか」
「……それって、レイくんが寝てないってことだよね」
「三日は平気で徹夜する男だからな」
「ダメダメそんなの……っ働きすぎ! しまいに倒れちゃう」
琴は椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「そういう職業だから仕方ないだろう。彼は月に一度休みがあれば十分すぎると素面で言う男だぞ。神立くんは頭はいいが体力バカだ。彼が好きでやっているなら、甘えておけ。お前はまだ子供なんだし」
「甘えておけって……子供って……そんなの……」
(大人の助けが必要な子供を脱したいのに……)
口を噤む琴のスマホが、再び震える。今度はメールだった。
『言い忘れてたけど、冷蔵庫に琴が前に好きだって言ってたお店のプリンが入っているから食べていいよ。あと、暗くなってから家を出ないように』
琴の好きなプリンは百貨店に数量限定で売り出されている高級プリンだ。開店数分後に売り切れてしまうため、幻のプリンとも呼ばれている。それを冷蔵庫に完備しているとは、レイには特別なコネでもあるのだろうか。
(……っていうか!)
「確信したよ、サクちゃん……」
琴はスマホを持つ手を震わせながら呟いた。
(――――今ので完全に確信した。彼は私を甘やかしすぎる。完璧超人な彼は、私をどろどろに甘やかして世話を焼いて、レイくんがいないと何もできないダメ人間にするんだ……!)
「嬉しい、嬉しいけど……っ」
琴の手の中で、スマホがミシッと不穏な音を立てる。そして
「私は自立した大人になりたいのにーっっ」
琴の絶叫が、特別棟に木霊した。