記憶
悠子は白い蜘蛛の記憶を視る。それは、優しさと残酷さに満ちたものだった。
「ほら、弥七郎。これが今日からお前の相棒になる蜘蛛だ。しっかり芸を覚えさせなさい」
紺色の着物に髷を結った男が木籠を少年に渡す。
少年は十一歳ほどで、枯れ草色の着物には遊びか何かでついた真新しい汚れがついていた。少年―弥七郎は、男の手にある木籠を覗きこむ。そこには男の言葉通り、白い蜘蛛が入っていた。弥七郎は小さく息を呑んでから、きらきらとした眼差しで男を見上げた。
「うん、ありがとう!父ちゃん!」
「お前の名前は何がいいかな~」
星明かりの下で、木籠に入った蜘蛛を見つめ、弥七郎は話しかけた。
「そうだ!」
良い案が浮かんだという風に手を叩き、弥七郎は顔を木籠に近づけた。
「『星蘭』にしよう!お前を夜空の下で見ると星みたいだし、その色は山の蘭と同じだ。蘭は母ちゃんが好きだった花なんだ!」
行き交う人の波に、弥七郎は興行の文句を張り上げた。
「さぁさぁ、この白い蜘蛛がかの有名な享千の絵を描くよ」
皆、興味深そうにまたは冷やかし半分に立ち止まり、弥七郎の隣に鎮座した台の上にある、成犬が入れそうな大きさの囲いを見つめた。
囲いには多くの細い枝が結んであり、その枝の一番下に星蘭はいた。
星蘭は糸を吐き出し、細い枝に渡していく。
糸を綱渡りの容量で渡り、星蘭は細い枝に糸を何度も何度も渡す。
やがて、星蘭は一番上の枝にたどり着いた。
その瞬間、どっと観客が沸き、拍手と喝采が弥七郎と星蘭を包んだ。
囲いには、享千の見返り美人画が蜘蛛の糸で描かれ、日の光を受けてきらきらと輝いていた。
その夜、弥七郎は優しい眼差しを向け、星蘭に言った。
「よくやったぞ、星蘭。今度もよろしくな」
弥七郎は星蘭に訓練をさせ、浮世絵だけではなく、文字も描けるようにした。やがて、弥七郎と星蘭の見せ物は、弥七郎の父が座長をしている「泡沫一座」の目玉の一つになった。
それから六年の歳月が流れた。
「一座を畳むってどういう事だよ、弥吉!」
猿廻しの太一が弥七郎の父、弥吉に食ってかかった。
「お上の命だ。私達のような一座や旅芸人は往来で見せ物を出してはいけないと。もし、それをしたら番所に突き出されることになる」
「そんな!それじゃ俺らは明日からどうやって生きていけばいいんだ!」
「私がお前達の働き口を探そう。それぐらいしかできないが。すまない」
頭を下げる弥吉に太一の妻・涼が言った。
「頭を下げてくださいよ、弥吉さん。あんたのせいじゃない。華美なものや見せ物は風紀が乱れるとか言って廃止しようとする上の連中がいけないんだ!」
宿屋の戸を開けると、目の前に橙色の光が溢れ、弥七郎の顔を照らした。手をかざし、笠を作った弥七郎は目を細めた。
(もう夕日が出ているのか。日が暮れるのが早いな)
厩の転がっている使い古した桶に動物達の餌を入れ、借りている納屋へ向かう。
すると、そこに父・弥吉がいた。
弥吉は、囲いに入った動物達を見つめていた。その眼差しは、苦しげだった。
無理もない。一座は父の父、弥七郎からみれば祖父の代から続いていた。代々続いていたものを手放すのは、並大抵のものではないだろう。
納屋に入りづらく、どうしたものかと思案していると、気配に気づいたのか弥吉が顔をこちらに向けてきた。
弥七郎をみとめると、「あぁ、もうそんな時間か」と一人ごちる。
弥七郎は、居心地の悪さを感じながらも、餌の入った桶を囲いの前に置いた。二、三匹の犬・理吉、叶、吉が我先にと餌に食いつく。
がつがつと食べる彼らを見つめながら、弥七郎は言った。
「一座を畳むっていってたけど、こいつらどうするんだ?」
一座が所持している動物は犬ばかりではない。太一が操る猿の幸助、涼の蛇・花音、そして弥七郎の相棒、星蘭だ。
「・・・・処分するほかないだろう」
弥七郎がその話を聞いた時、うっすらとそんな考えが浮かんでいた。とはいえ、実際に言葉にされると、その重さに一気に胃の腑が下がる思いがした。
人に馴れた動物は、野生に帰しても人里に下りて危害を加える可能性がある。
芸ができる動物を養ってくれる人間などよほどの金持ちか、酔狂な者だけだ。
それに、この辺りに住む人間は、日々を暮らしていくのに精一杯で動物を飼う余裕などない。
「かわいそうだが、これが私達にできる唯一のことだ。しっかりと見届けてやろう」
「・・・あぁ」
座長である父がそう決めたのなら、弥七郎が反対することはできない。
父は、いつも正しかった。けれど、家族同然の彼らをこんな形で失うのが辛くないわけがない。
「どうしてこんなことになったんだろうな」
お前たちは何も悪くないのに。誰にもぶつけられない怒りと悲しみが弥七郎の胸の中に渦巻く。
食べ終わった理吉の頭を、弥七郎は撫でる。明日にはこの手で彼らの命を断つのだ。
甘えるように頭をすりよせる理吉を見ながら、弥七郎はそんな自分にひどい吐き気を覚えた。
翌日、弥七郎達は、動物達を安楽死させるため、鼠殺しの毒薬を団子の中に混ぜた。弥吉は、弥七郎が毒団子作りに参加するのを反対したが、弥七郎は無理を言ってそれを押し切った。
弥吉は叶、吉、 理吉に、太一は幸助、八重は花音に団子を与えた。彼らはおいしそうにそれを食べていたが、やがて苦しそうに悶え、口から泡を吹きながら、事切れた。
弥吉は三匹を辛そうに見つめ、太一は幸助を抱き上げ、謝りながら涙を流した。涼は目に涙を溜めながら、花音の冷たくなった体を優しく撫でた。
それを見ていられず、弥七郎は逃げるようにその場を後にした。
宿屋へ向かった弥七郎は、部屋の襖を叩きつけるように開けると、隅に置いた星蘭の籠を掴み、宿屋を出た。
宿屋の近くには、水の澄んだ池があり、星蘭の餌を確保するために弥七郎は毎日来ていた。
林を抜ければ、雲一つない青空を映した丸池が見えた。
弥七郎は、籠を地面に起き、膝をつくと、星蘭を取り出した。
手のひらに星蘭を乗せ、空いた右手を星蘭に向かって伸ばす。
「……ごめん」
右手で星蘭を掴み、押しつぶそうと力を込める。
刹那、弥七郎の頭に、星蘭と出会った日のことが思い出される。
なぜ、相棒を自分の手で殺さなければならないのか。お上の命とはいえ、できることならそんなことはしたくない。ずっと、一緒にいたい。
その思いは、父や太一、涼も同じだろう。
だが、彼らは、理吉達を野生に帰し、生き長らえさせることより、一座の一員として死なせることを選んだ。
だから、一座の一人である自分が他の選択肢を選ぶことは許されない。
弥七郎はそう考えた。
「ここにいたのか」
背後から声をかけられ、弥七郎は心臓が飛び上がるほど驚いた。
振り返れば、弥吉が立っていた。
「星蘭をどうするつもりだ?」
「……ここで終わらせる」
問われ、弥七郎は言った。殺すという言葉は使いたくなかった。
弥吉は弥七郎に近づき、その隣で膝を折った。
「何も殺す必要はないだろう。こんな小さな蜘蛛に人を襲う力などない。ここに置いていったとしても、自分で餌を見つけて生きていくだろう。私達に負い目を感じているというなら、そんなことは気にしなくていい。できれば、理吉達の毒団子作りにも手を出さないでほしかったが。お前は優しすぎるからな」
穏やかに弥吉は言葉を紡ぐ。
「本当はやりたくないんだろう?」
弥吉の言葉に、弥七郎は、唇を噛み締めた。
やがて、弥七郎はゆるゆると息を吐くと、青々とした葉を繁らせた茂みの上に星蘭をそっと置いた。
その様子を見た弥吉は、腰を上げ、静かにその場を去っていった。
弥七郎は、葉の上にいる星蘭を見つめた。
「こんな所に置き去りにしてごめんな。でも、これがお前のためなんだ。暮らしが安定したら会いに行くよ。約束だ」
微かに笑みを浮かべ、弥七郎は力強く言い切ると、振り切るようにすっくと立ち上がった。
「じゃあな。元気でやれよ」
背を向け、弥七郎は池を去って行った。
(弥七郎さん、約束よ。私、待っているわ)
弥七郎の背中が段々と小さくなっていくのを見つめながら、星蘭は呟いた。己の言葉が弥七郎に理解されることがなくとも、その思いが届くことを信じて。
やがて、半年の歳月が流れた。
弥七郎の姿は、あの日から一度も見ていない。
星蘭は自分の身体が日に日に衰えてくるのを感じていた。弥七郎が来た時に自分だとすぐ分かるように、茂みの葉を支柱にして、彼から教わった画を糸で描き始めた。
長い時間をかけ、池の辺の茂みに、銀色の糸で描かれた美しい女を星蘭は作り出した。
その年の冬は、酷い大雪となった。
寒さも厳しく、餌となる虫も少かった。
葉の裏で寒さに震えながら、星蘭は弥七郎が来ることを心の支えにして生きていた。
ここで命を落とせば、約束が果たせない。一度でいい。弥七郎に会いたい。
星蘭の弥七郎に対する想いが大きく膨らんでいく。
そして、その想いが星蘭を妖にさせた。身体は数メートル以上大きくなり、池を覆うほど巨大になった。
しかし、その姿は獣と強い霊力を持った限られた人間にしか見えなくなってしまった。
そのことに気づくはずもなく、星蘭はこの大きさでは弥七郎が驚いてしまうだろうと考え、池の底に腰を落ち着かせた。そして、星蘭は、弥七郎の声と足音が聞こえるよう池の底で身を潜め、弥七郎を待ち続けた。
一年、五年、十年。
歳月が流れるにつれて星蘭の「弥七郎を待つ」という想いが、徐々に歪み始めていた。
弥七郎の声はおろか声すら思い出せなくなっていき、けれど、弥七郎と年の近い人間の足音や声を聞くと、無性に姿を現したくなり、池から這い上がった。だが、その人間を目にした瞬間、何かが違うと感じ、怒りのようなものを感じた。その怒りのまま、星蘭は彼らを食らっていった。
時は流れ、西暦となった。
達騎の姿が現れた時、星蘭は、条件反射で糸を吐き出し、彼を食らおうと思っていた。しかし、魂のみになった瞬間、本来の記憶が蘇り、星蘭は混濁した意識から解放された。
(弥七郎さん……)
星蘭が薄く瞳を開けると、そこに弥七郎の姿があった。
「すまない。星蘭、遅くなってしまった」
愛おしげに、弥七郎は星蘭の脚を撫でる。
(わたし、ずっと待っていたの)
「本当にごめんな。でも、これからはずっと一緒だ」
(本当?)
「あぁ、本当だ」
(……よかった)
安心したように星蘭は呟いた。そして、ゆっくりと大地に溶けていった。
枯れ草色の着物を着た十七、八の若者がその様子を静かに見つめていた。
しばらくして、若者の姿が蜉蝣のように揺らめき、続いて悠子の姿が現れた。
触れた相手の記憶を読み取り、視た人物に成ることができる。鈿女の巫子の能力の一つー「鏡月」を悠子は使った。
悠子が目線を上げると、達騎が槍を掴んだまま、緊張した面持ちで立っていた。
「もう終わったわ。大丈夫」
「……あぁ」
悠子が声をかけると、達騎は頷き、槍を小さくしてポケットに入れた。
「ゆうこさーん、たつきさーん」
その時、頭の上から真白の声が降ってきた。
顔を上げると、真白の頭の上にいた八雲が中に浮かび、悠子の前に降り立った。
「これが薬じゃ」
八雲は懐から紅色に染まった円形の入れ物を取り出し、悠子に手渡した。
受け取り、悠子が中を見ると、白いクリーム状のものが入っていた。
「塗り薬じゃ。火傷によく効くらしい」
「ありがとうございます。八雲さん、真白君」
「いえいえ、めっそうもありません」
真白が首を横に振った。
「そうじゃ。もとはと言えば、この小僧が原因じゃ」
「てめっ、またそれを蒸し返すか!」
達騎が噛みつくように言い、八雲に詰め寄った。
「八雲さん、心配してくれるのは嬉しいです。でも、草壁君を責めないでください。こんな仕事をしている以上、危険は承知の上なんですから」
悠子は凛とした眼差しを八雲に向ける。
「……わかった。わしも感情的になりすぎた。…すまん」
八雲は姿勢を正し、達騎の方を向いて頭を下げた。
「…まぁ、無茶をしたのは事実だからな。あんたの気持ちも分からなくはない」
達騎は素直に謝罪する八雲に戸惑いを見せながらも、受け入れた。
「あー、よかった!これでなかなおりですね!」
真白が明るい声を上げ、嬉しそうに尾を振った。
「やくもさん、あたまのうえでず~っときげんがわるかったんです。ぼくがなだめてもきいてくれないし。ゆうこさんはすごいですね」
「え、あの、そんなことは…」
真白の言葉に悠子は首を振る。
「んー、なに?」
その時、悠子達の声に意識を揺さぶられたのか、藤花が目をこすりながら起き上がってきた。
悠子は藤花に駆け寄る。
「藤花さん、大丈夫ですか?」
「え?あぁ、大丈夫よ。って、あなた、顔真っ赤じゃないの!どうしたの!?」
「あ、これは、ちょっと火傷を…」
「火傷!?なら、冷やさなくちゃだめじゃない!ここで…は、ちょっと嫌ね。そこの白い子に乗って早く冷やせる場所に行きましょ!」
藤花は悠子の腕を掴み、ずんずんと真白の方へ歩を進める。
「会った時とだいぶ雰囲気が変わったの。あの嬢ちゃん」
「あれが素なんじゃないのか?まぁ、蜘蛛の腹に入るなんて体験すりゃ、大抵のことも動じなくなりそうだけどな」
藤花が空に浮いた真白を手招きしているのを、八雲と達騎は眺めていた。
不意に、八雲と達騎のそばにある草むらが大きく揺れた。
八雲は体を固め、達騎は鋭い眼差しを向け、再びポケットに手を入れた。真白、藤花、悠子も動きを止め、草むらを見つめる。
「これは……」
草むらの中から現れたのは、宮司姿で五十代ほどの男だった。
男は、目の前に映る景色ー池の周りに噴水のごとく噴き出した水、薙ぎ倒された丈の長い雑草の数々、そして白い巨大蜘蛛の亡骸ーを見まわしてから、達騎達に目を向けた。
「巫子の方々に、精霊、幽霊に妖とは。生きている内に見られるとは思いもよりませんでした」
半ば茫然とした口調で男が呟く。達騎は、男の言葉から彼が「視える」人間であることがわかった。
「あんた、視えるんだな?」
「えぇ。多少は」
「なら、ここにいる蜘蛛のことも知っているな?」
「蜘蛛?もしかしてそこにいる大きな白い蜘蛛のことですか?」
宮司の呆けたような台詞に、達騎は苛立ちを隠さずに言った。
「とぼけるな!あんたは知っていたんじゃないのか!今まで何をしていた!死人が出るところだったんだぞ!」
「え・・・」
要領を得ない反応する宮司に、達騎がさらに言い募ろうと身を乗り出した時、八雲の手が達騎の肩にかかる。八雲は落ちつけというように達騎の肩を叩いてから、宮司を見た。
「あやうく巫子の嬢ちゃん―悠子というんじゃが、あの蜘蛛に食われかけてな。あと少し遅ければ、今頃あれの餌になっていた」
「なんと・・・」
宮司は青ざめ、口元を手で覆った。そして、恐怖と安堵が入り混じった色を瞳に宿らせながら、達騎達にぽつりぽつりと話し始めた。
「・・・この池に人を食べる妖がいるということは、聞いていました。五百年前、人が襲われることを危惧した周辺の人達が、陰陽師にこの一帯に結界を張るよう頼んだそうです。その後、ここを神域として祀り、誰も入ってこられないようにしました。事実、ここには誰も入れないはずなのです。私は、入れないはずの池から聞いたこともない大きな音がしたので何事かと思い、ここに来ました。まさか入れるとは思いもしませんでした」
「んん?だとするとおかしくないか?わしはここに仲間と何度か来たことがあるが、別に普通に入れたぞ?」
腕を組み、八雲が首を傾げる。
「・・・・・人が張った結界の寿命はせいぜい二百年だ。すぐに消えやしないが、徐々に効力を失っていく。張りなおせば別だがな。食われなくてよかったな、八雲」
達騎の言葉に八雲は口を引き結び、何とも言えない表情をした。
「だが、解せない。人を食うとわかっていたなら、結界を張る必要はないはずだ。とっとと送ればいいだけの話だろう」
「伝わっている資料によれば、当時の巫子が、庶民の事件に関わることはなかったようです。そのため、陰陽師が行うことになったとか」
「ちょっと待ってくれ。さっきから言っとる陰陽師とはなんだ?鬼討師みたいなもんか?」
八雲が不思議そうに聞き返す。
「陰陽師は、あなたのいう鬼討師のことですよ。というか、陰陽師は鬼討師の前身なんです。昔は今ほど能力が強くなかったらしく、大気や水に『鬼』―幽霊や妖を還すこともできなかったそうです。人の吉凶を占い、国の安寧を祈るくらいがせいぜいで、結界を張ることが唯一の対抗策といったところでしょうか」
「なるほど」
宮司の解説に八雲が頷く。
「そういえば、あの頃の連中は上から目線だったらしいからな。『天津神と国津神の血を引く我らが、卑しい庶民のことを気にするなど言語道断。庶民は庶民だけで解決しろ』。なんて言葉が伝聞にあるくらいだ。それを聞くと、その血を引く自分が情けなくなってくるな」
「っくしゅ!」
降ってわいたくしゃみに、達騎、宮司、八雲が揃ってその音の方向へ顔を向けた。
「ごめんなさっ、くしゅっ!」
悠子は謝りながら、くしゃみを繰り返す。
「お話の最中悪いけど、私達だけ帰ってもいいかしら。この子、火傷しているし、びしょ濡れなの。早く冷やさなきゃいけないし、風邪でもひいたら大変だわ」
藤花が腰に手を当て、達騎達に言う。
「それは大変だ。なら、私の家に来てください」
「いえ、そんな。悪いです」
首を振り、断る悠子に宮司は穏やかに言った。
「気にしなくていいですよ。家はすぐそこですから。それに、結界を張っただけで安全だと思いこみ、何もしなかった私にも責任があります。そのお詫びと思ってください」
「でも・・・」
火傷をしてはいるが、日焼けをしたような感覚で、辛くはない。手は相変わらず痺れているが、動かせないほどではないのだ。困惑する悠子に達騎が言った。
「・・・・・いいんじゃねぇの?それに、いくら薬があるからって長引かせていると、治りが遅くなるだろ」
「そうですよ、ゆうこさん」
「小僧の言うとおりじゃ」
達騎に続き、真白、八雲がそれぞれに言う。
「さっ、みんなそう言っていることだし、行きましょ?案内、お願いできます?」
藤花が悠子の腕を掴みつつ、宮司に家の案内を頼んだ。
宮司に連れられ、悠子達は池を出た。
背丈ほどのある雑草を掻き分けると、朱色に塗られた鳥居が見えた。その鳥居を潜れば、白い砂を敷き詰めた境内が現れ、石造りの二頭の狛犬が鎮座したその奥に、龍や犬、猿など様々や動物の飾りで装飾された社があった。社の中央には、達筆な筆使いで「星蘭神社」と書かれていた。
「家はこっちです」
宮司は人差し指を左に向ける。
境内を横切って社を抜けると、車道らしい細い道に出た。車道を渡り、すぐ目の前に建つクリーム色の一軒家ー表札には「守川」とあったーのドアを宮司は開けた。
「ただいまー」
「お帰りなさい。どうでした?」
宮司の声に奥から女性の声が返る。ぱたぱたと足音をさせ、現れたのは宮司と同じ五十代ほどの女性だった。
女性は悠子達を見て、目を丸くさせる。
「この方達は巫子だ。悪いが、風呂に入らせてあげてくれ。二人ともびしょ濡れなんだ」
達騎も数に入った言い方に、達騎が眉を上げる。
「俺は別に構わない」
「お疲れでしょうから」
宮司はそう言って、穏やかに笑む。
「わかりました。今、タオルを持ってきますね」
「あぁ、頼む」
女性は頷き、家の奥へ行く。宮司は女性がいなくなったのを見届けると、悠子と達騎の後ろに佇む藤花、藤花の肩に乗った八雲、真白を見た。
「妻は霊感が全くありません。あなた方に気づかず通り過ぎるでしょうが、そこはご容赦ください」
「わかったわ」
「了解じゃ」
「わかりました~」
二人と一匹の返事に宮司は頷くと、思い出したというように、「あっ」と声を上げた。
「そうだ。すっかり忘れていた」
宮司は頭を掻いてから、襟元を正した。そして、悠子達を真っ直ぐ見つめた。
「私は守川柾弥と申します。星蘭神社の宮司をしております。妻は玲子と言います」
「わっ、私の方こそ名乗りもせずに申し訳ありません。鈿女の巫子、鈴原悠子です」
「猿田彦の巫子、草壁達騎」
慌てて悠子が頭を下げ、達騎は淡々と告げた。
「藤花です」
「八雲じゃ」
「ましろといいます」
二人と一匹もそれぞれ名前を口にした。
「はい、タオルですよ」
夫人である玲子が悠子と達騎にタオルを渡す。そして、玄関にバスタオルを敷いた。
「ここに上がって濡れた靴下を脱いでください」
「ありがとうございます」
悠子は礼を言う。
達騎は髪をタオルで拭きながら、悠子に言った。
「鈴原、先に入れてもらえ。俺は大したことないから」
すると、玲子がにこりと笑った。
「大丈夫ですよ。お風呂は二つありますから。あっ、ちゃんと別れてますのでご心配なく」
「は?」
玲子の言葉に、達騎はぽかんと口を開けた。
「マジかよ……」
達騎の呆れと感心が入り混じった声が、湯気が立ち込める浴室に響く。
浴室は、壁と床、シャワー台から湯船に至るまで全て桧で出来ていた。むせかえるほどの木の匂いが達騎を包む。
「これがもう一つあるっていうんだから、相当金がかかってるんだろうな」
達騎は壁に手をかけ、軽く撫でる。木特有の肌触りを感じた。
湯船には、すでに八雲と真白が浸かっていた。
「小僧、そんなとこに突っ立っていないで入ったらどうじゃ。いい湯じゃぞ」
「うーん、きもちいいですー」
頭にタオルを乗せ、長い髭を縁に引っ掛けた八雲が達騎に言う。真白は髭をだらりとさせ、長い体を弛緩させていた。
「お前ら、少しは遠慮しろよ・・・」
まるで旅館か銭湯にいるような一人と一匹の様子に、達騎は思わず突っ込む。
「何を言う。柾弥がわしらも入っていいといってくれたんじゃ。堪能せんでどうする」
「ほんとうにいいおゆですね~。これ、おんせんですよー」
「・・・・・」
何を言っても無駄と感じ取り、達騎も湯船に入ることにした。
達騎達とは反対側には、女性専用の風呂場があった。達騎達がいる浴室と同様、桧でできていた。
「あら、背中まで赤いじゃない。大丈夫?」
浴室に入った悠子は、藤花の言葉に振りかえる。
「え、背中も赤い?」
頷く藤花を見て、悠子は左側に備え付けてある縦に長い鏡に、自分の背中を映した。
「うわぁ、本当だ」
「痛くないの?」
「あまり。ぴりぴりした感じはするけど」
「でも、それだけで済んだのって奇跡よね。だって酸だったんでしょ?」
浴室に入る前、藤花にどうやって蜘蛛の腹から出られたのか、その火傷はどうしてなったのかを聞かれ、悠子は出来うる限り答えていた。
「草壁君の仮説があっていたのと、私が着ていた服、緋禮装束って言うんだけど、特別な服でね。火や水、酸にすごく強いの。だから、こんな軽傷で済んだと思う」
「ごめんなさいね。私、気絶しちゃって。死んでいるんだから、溺れようが関係ないのに」
謝る藤花に悠子は首を振った。
「藤花さんのせいじゃないわ。幽霊でも、生きているものの痛みや圧力を感じることもあるらしいから。個人差もあるらしいけれど。藤花さんも多分それだったんじゃないかな」
「そういえば、酸が流れてきた時、思い切り押しつぶされた感覚があったわ」
藤花が納得したように頷く。
「藤花さん、先にシャワーを使っていいかな?体を冷やしたいんだけど」
「え?ええ、いいけど。そういえば、その「しゃわー」って何?」
藤花が鏡の隣に金具で引っかけられているシャワーを指さす。
「あ、これは、お湯や水を出せる機械なの。ほら、ここを動かすとお湯になったり、冷たくなったりするの」
「へぇー!便利ねー。私の時もこんなのがあったらどれだけ楽だったか」
その後、悠子はシャワーで体を冷やしながら、藤花の質問に答えていった。
女風呂には、賑やかで楽しそうな声がしばらく響いていた。
「ちょっと待て、真白!」
用意されていた若草色の甚平を着終えた達騎は、びしょびしょに濡れたまま脱衣所に入ろうとする真白を慌てて止めた。
「それじゃ床がめちゃくちゃ濡れるだろう!今、タオルで拭くから待ってろ」
棚に常備されているタオルを手に掴み、達騎は言った。
「あの毛並みだと拭くだけじゃ乾かないと思うがのう」
「見てないであんたも手伝え」
すでに着替え終え、顎を触りながら他人事のように言う八雲に向かって、達騎はタオルを放り投げた。
「あ、だいじょうぶですよ。ちょっとまってください」
そういうと真白は、浴室の中で犬のように体全体を震わせ、水気をはらった。
「たつきさん、あのまどをあけてくれませんか」
真白は、尻尾で浴室の小さな窓を示した。
「あ、あぁ」
達騎は浴室に入り、その窓を開けた。
「ぼくのけ、なかなかかわかないんですよ。ちょっとそらをとんで、かわかしてきます」
真白は、浴室の窓からするりと抜け、外へ出ていった。
「タオルは必要なくなったようじゃの」
「……あぁ」
白い毛を靡かせ、青空へ溶けていく真白の姿を見つめながら、達騎は脱力気味に答えた。
「あぁ、草壁さん。どうですか。疲れはとれましたか?」
脱衣所を出て、廊下を歩いていている達騎の前に、私服に着替えた柾弥が現れた。
「まぁまぁだな」
はっきりとしない達騎の言葉に柾弥は嫌な顔をすることなく、嬉しそうに笑った。
「それは良かった。今、妻がスイカを切っていますから、居間で食べましょう。家の畑で取れたんですよ。そこで話をしましょうか」
「わかった」
達騎は頷く。
「居間は廊下を真っ直ぐ行って右側にあります。私は色々準備があるので、これで。あ、そうそう。あなたや鈴原さんの制服は洗濯に出しました。乾燥もかけるので、帰る頃には持っていけますよ」
達騎は頭をがしがしと掻いた。池で感情のままに糾弾したため、良くしてくれる柾弥を見て、居心地の悪い思いが達騎の胸に宿る。
間違ったことは言っていない。ただ、巫子として、あの対応は間違っていた。
私情を挟まず、視野を常に広く見ること。それが巫子として鉄則だというのに。
「…あー、何か色々悪い。サンキューな」
様々な感情を乗せ、達騎は礼を言った。
「いえいえ、これくらいお安い御用です」
柾弥は軽く一礼し、廊下の突き当たりにある二階へ上がっていった。
柾弥の姿が見えなくなると、八雲が呆れを滲ませ、言った。
「礼を言ったことは感心するが、その言葉遣いはどうにかならんのか」
「慣れてねぇんだ。しょうがねぇだろ」
唇を尖らせる達騎に八雲は肩をすくめた。
「やれやれ。先が思いやられるな」
「お前は俺のじいさんか」
八雲と漫才じみた会話をしながら、達騎は居間へ向かった。
居間には、樫の木でできた丈の低い四角いテーブルが中央に鎮座していた。それを黒紫色の座布団が取り囲んでいる。畳からは真新しい井草の匂いが漂う。
縁側の窓は編戸にして開け放しており、そこから入りこんだ風で風鈴が涼しげな音をたてていた。
「悠子達はまだみたいだのう」
誰もいない居間を見て、八雲が言った。
「そのうち来るだろ」
達騎が座布団の上にどかりと座った。
浴室から出て、体を拭いた悠子は、真白から貰った薬を顔や手足に塗った。塗ると、ひんやりとした冷たさを感じ、ぴりぴりとした痛みがすっと消えていく。
悠子は着替え終えた藤花に声をかけた。
「藤花さん、悪いけれど、背中に薬をつけてもらえません?」
「いいわよ。ところで、なんで敬語なの?」
「え、あ、いや、頼みごとなのでなんとなく・・・」
「気にしなくていいのに。おもしろいわね~、悠子って」
藤花はからからと笑う。悠子から薬を受け取ると、藤花はその背中に薬を塗った。
「はい、終ったわよ」
「ありがとう」
返された言葉を受け取って、悠子は礼を言った。そして、籠に置かれた浴衣を手に取る。
浴衣は、白地に赤い金魚の模様のあるものだった。端には、水草も描かれている。帯は藍色で、水色の糸で刺しゅうされた小さな唐草模様がいいアクセントになっていた。
「素敵ね」
着替えた悠子に藤花が言った。
「こんなの借りちゃって、なんだか申し訳ないなぁ」
浴衣の裾を整えながら、悠子は呟く。
「そんなに気にしなくていいんじゃない?好意でしてくれたことなんだから。ありがたく受け取ればいいのよ」藤花の言葉に悠子は頷いた。
「…うん、そうね」
藤花はパンっと手を叩いた。
「さっ、着替えたし、出ましょ」
藤花を伴い、悠子は脱衣所を出た。
脱衣所の目の前には廊下があり、右側には男風呂と書かれた紫色の暖簾がかけられている。
反対に、左側ー悠子達がいた場所ーには女風呂と書かれた赤い暖簾がかけられていた。
廊下の奥には二階へ続く階段が見え、廊下はその階段の突き当たりを左に伸びていた。
すると、その突き当たりから玲子が姿を現した。その手には、盆が握られ、その上には皿に盛ったスイカがあった。
「あら」
玲子と目が合い、悠子は一礼する。
「鈴原と言います。あの、この浴衣、ありがとうございます」
「いえいえ。巫子の方のお役にたてるなんてこんな嬉しいことはないもの。それ、娘のものなんだけど、丈も合っているみたいだし、良かったわ」
玲子は声を弾ませ、嬉しげに笑みを浮かべる。
「今、スイカを切ってきたの。居間で食べましょう。こっちよ」
玲子は悠子を促し、居間へと歩き出した。悠子も玲子の後についていく。
居間には、あぐらをかき、手持ち無沙汰な表情でぼんやりとしている達騎と八雲がいた。
「お待たせしました。スイカですよ」
玲子の声に、頬杖をついていた達騎が慌てて姿勢を正す。
玲子は、達騎の前にスイカを置き、その隣に一回り小さいスイカを置いた。
「八雲さん、はここでいいのかしら?」
「え?あ、あぁ」
玲子の言葉に達騎は戸惑いながらも頷く。
柾弥は、玲子に達騎と悠子の二人しか紹介していなかったので、八雲の名が出たことに驚いたのだ。
「夫から聞きました。達騎さん、悠子さんのほかに土の精霊の八雲さんと幽霊の藤花さん、それから雲龍の真白さんがいると」
「最初から紹介すりゃよかったんじゃないか?」
思わず、呟きが達騎の口をついて出る。
「あなた方二人を急いでお風呂に入れたかったみたいです。「私のせいだ」といって、ずいぶん沈んでいました」
家を案内した時や、達騎に言葉をかけた時は、普通に見えたが、よほど気にしていたらしい。
「も、守川さんのせいじゃありません。あれは私の落ち度です」
悠子の言葉に玲子は首を振る。
「あの池を放っておいたのは事実です。私も夫もあなた方が来なければ、何も知らずにいたでしょう。もし、一般の方が池に近づいていたらと思うとぞっとします。私からお礼申し上げます」
玲子は、達騎、悠子に頭を下げる。
「いえ、そんな・・・」
玲子の様子に恐縮する悠子。
「スイカ、今年は出来がいいみたいです。味見をしてみたんですけれど、とても甘くておいしいですよ。これは、藤花さんと真白さんの分です。ぜひ食べてください」
玲子は頭を上げ、藤花と真白のスイカをテーブルに置く。そして、達騎の向かいに立つ悠子の前にスイカを置いた。
「はい、悠子さん」
「あ、ありがとうございます」
悠子は軽く頭を下げ、悠子は座る。
「お茶も持ってきますね。夫が来るまでゆっくりしていてください」
空になった盆を持って、玲子は居間を出て行った。
「さて、食べるかの」
八雲がスイカを掴み、口に入れた。
「う~ん、うまいの~」
しゃりしゃりと涼しげな音を立てながら、八雲は頬を緩める。藤花もスイカを手に取り、一口齧る。
しかし、甘さも何も感じない。藤花は顔をしかめ、口からスイカを放した。
「おいしくないわ…」
藤花の呟きに達騎が答える。
「幽霊は霊体だ。生きていた時のような味覚は存在しない」
「でも、八雲さんは?この人だって見えないんでしょう?」
「八雲は精霊だ。霊とつくが、この世に影響を及ぼす命ある者だ。生きている。人間と同じように味覚もある」
「そう、なの」
藤花は小さく息をつき、スイカを皿に置く。だが、次の瞬間、大きく口を開け、スイカを勢い良く食べ始めた。
その様子に、達騎もスイカを頬張っていた八雲も目を見張る。
「藤花さん、無理しなくていいのよ?」
馴染みのあるスイカだけに、食べても何の味もしないのは辛いだろう。
悠子が声を掛けるが、藤花は答えることはなく、スイカを食べることに集中していた。
種と皮を残し、スイカを綺麗に食べ終えた藤花は大きく息をついた。
「ふー」
「藤花さん、大丈夫?」
心配そうな表情を浮かべる悠子に藤花は手をひらひらと振った。
「大丈夫よ。問題ないわ」
「無理して食べなくてもよかったのに」
「出された物は食べないと。出してくれた人に悪いでしょ?」
藤花は口元に笑みを浮かべた。
「食い意地がはってるだけだろ」
達騎がスイカに手を伸ばしながら、鼻で笑う。
「なっ、女性に対して失礼よ!」
頬を赤く染め、藤花が憤慨する。
「食い方は雑だし、大きな声を出して反論する。あの時代にいた三歩後ろを歩くような女にはとてもじゃないが見えないがな。年齢詐称してるんじゃないか?」
スイカをかじりつつ、人を小馬鹿にするような表情を浮かべる達騎に、藤花は口元をひきつらせた。
「確かに、親にも散々言われたわよ。もっとお淑やかにって。店の経営に口を出したり、縁談相手を駆けっこで負かしたこともある私を貰ってくれる人なんていなかったわ。でも、隆彦さんだけは違ったの」
当時のことを思い出したのか、藤花の瞳が次第に輝きを増す。
「その話を聞いたら笑ってくれて、面白いって言ってくれたわ。そんな人、始めてだった。たいていは「はしたない」「変わっている」って言われるのに。嬉しかった。私を認めてくれる人に出会えたと思った」
「怒ったと思えば、次はノロケか。忙しい奴だな」
「ちょっと!もう少し真面目に聞いてくれてもいいでしょ!」
身を乗り出し、藤花は達騎を睨んだ。
「いい人なのね」
「えぇ、そうなの!」
悠子の言葉に藤花は一転して笑みを浮かべる。
「ちょっと頼りない顔をしているけど、いざっていう時は本当に頼りになるの」
だが、不意に寂しげな表情を見せた。
「何だか話をしていたら、隆彦さんに会いたくなっちゃった」
「……今からでも送れるけれど」
「ううん。平気よ。それに、いきなりいなくなったら、守川さんもびっくりするわ。スイカのお礼もしてないしね」
藤花は首を振って答えた。