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ウズメ異伝  作者: 東雲昴
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ずっと待っている

鈿女うずめの巫子、猿田彦の巫子と呼ばれる霊能力者が存在する現代。彼らの存在は公のものとなっており、人々は幽霊もあやかしも存在することを知っていた。

これは、鈿女うずめの巫子・鈴原悠子と彼女を取り巻く人々の出会いと別れの物語。

舞い、踊れ、鈿女うずめの子等よ。

その深き器に荒御魂あらみたまを宿し、和御魂にぎみたまに変え、高天原たかまがはらに還せ。

 

飛び、駆けろ、猿田彦の子等よ。

猛々しき魂を内に秘め、和御魂の盾となり、荒御魂をほどき、根之堅洲国ねのかたすくにへ落とせ。


葦原中国あしはらのなかつくにの守り手。

天地あめつちの子等。

わが愛し子。

                 

『古事記異聞』(第三章「巫子の成り立ち」)より





シャラン、シャラン。


根元にいくつものコブを生やした巨木の前で、一人の娘が踊っていた。

臙脂色に染まった扇子(描かれていたのは、薄紅色の花を満開に咲かせた桜の樹だった)を広げ、右手で持ちながら、ゆったりとした所作で舞いを舞う。

その度に、扇子につけられた根付けの鈴から軽やかな音が鳴り、身に付けた紅の袴や、腰まで伸ばした黒髪にほのかな揺らぎが生まれていた。同時に、左の手首のブレスレットについた翡翠色の勾玉も小さく揺れる。


娘は、決して美しい容姿とはいえなかった。丸みを帯びた顔に短い鼻。眉は太い。

けれど、その黒い瞳は、慈しむような温かな光を宿し、目前に聳える巨木に向けられていた。


シャン。


鈴の音色と共に舞は終わり、娘は姿勢を正すと、巨木に深々と頭を下げた。

すると、小さな拍手が巨木の辺りから響く。

「ありがとう、悠子。素晴らしい舞だったよ」

拍手の主は、巨木のコブに腰かけた二十センチほどの小さな老人だった。

紺色の着物を纏った老人は、朗らかな笑みを娘に向ける。

娘―悠子は嬉しげに、また、幾分ほっとした表情を浮かべながらはにかみ、礼を言った。

「ありがとうございます」

その声は落ち着いており、穏やかで優しい。

「いやはや、七百年以上生きているが、まさか鈿女様の舞をこの目で見られるとは思わなんだ。長生きはするもんじゃな。ほっ、ほっ、ほっ」

長く伸ばした白髭を撫でながら、老人は笑い声を上げた。

その満足そうな様子を見ながら、悠子は少し申し訳なく思った。

悠子が今舞った舞は、確かに神代の時代のものだが、口伝で伝えられているため、事実、変わっている可能性もあるのだ。

悠子自身、祖先を疑いたくないし、本物であってほしいと思っているが、文献すらないため確証はない。

祖先から鈿女の話を聞いていて、一度でもいいから見てみたいと語っていたこの精霊に、それを見せるのは少し心苦しかった。

思わず、悠子は口を開いていた。

「でも、この舞は口で伝わったものですから、四千年前と違っている部分もあると思います。申し訳ありません。かつての舞を見たいとおっしゃっていたのに」

そう言って悠子は頭を下げた。

「ほう、そうだったか。だが、気にすることはない。口伝であれば多少は変わるもんじゃ。だが、4千年という気の遠くなるような年月を、お前の祖先は鈿女様の意思を継いで舞として残したのだろう。誇りこそすれ、謝ることなど何ひとつない。それに、あれは素晴らしい舞だった。誰かを感動させることのできるものに本物も偽物もないじゃろう。少なくともわしはそう思っとる」

心からの老精霊の言葉に、悠子は胸の辺りが温かくなった。

「ありがとうございます」

悠子は再び頭を下げた。


「さてと」

膝を叩き、老精霊は立ち上がった。

「そろそろ行くとするかの。屋久島の連中が首を長くして待っとるだろうからな」

「気をつけてください。それから、屋久島の方々によろしくお伝え下さい」

「おう。向こうに着いたら、愛らしい舞姫がおったと自慢してやるわ」

「…私はそんなんじゃありません。それに舞も父に比べればまだまだですし」

愛らしいとは無縁な自分の顔と、父の洗練された舞を思い、悠子は苦笑した。

すると、不意に老精霊が体を宙に浮かせ、悠子の目の前に躍り出た。

「悠子や」

「はい?」

「そんなに自分を卑下するでない。こんなじじいを感動させたお前の舞だ。素晴らしいと言ったら素晴らしいのだ。謙虚なのはいいことだが、度が過ぎれば、賞賛した方は虚しく思うぞ」

悠子は、はっとし、老精霊を見た。

真剣な眼差しには優しさがあり、悠子のためを思っていってくれていることが分かった。

「はい。以後、気をつけます。ありがとうございます」

老精霊は満足そうに頷いてから、孫を見るような温かな眼差しを浮かべた。

「お前さんは自分で思っているよりも力がある。自信を持ちなさい」

「はい」

悠子は笑みを浮かべ、頷いた。

「おっとすまんな。すっかり話し込んでしまった。そろそろ行かんと向こうの連中がこっちに来かねん」

「いえ、こちらこそありがとうございました。勉強になりました」

「はっ、はっ、はっ。ただのじじいの説教だ。礼をいうほどのものでもないよ。むしろ、わしこそ礼を言わねばならん。この樹のために色々とまわってくれて、ありがとうな」

老精霊は、ふわりと巨木まで来ると、木の幹を優しく撫でた。

「いいえ、そんなことは」

その様子を見ながら、悠子は複雑な面持ちで巨木を見上げた。

青々と繁った緑の葉が、風に揺れ、さわさわと音を鳴らす。

五百年以上生きたこの榊の木は、かねてからあがっていた、集合住宅を建てる計画で、この夏に切り倒されることになったのだ。

大地の精霊である老精霊―八雲から、この樹が切り倒されると聞き、悠子は父や近所の人達と協力し、嘆願書を出して集合住宅を別の場所に変えてくれるよう役所に頼んだ。しかし、前々から決まっていたことだからと、取り合ってはくれなかった。

切り倒された榊の木は、需要もないのでそのまま捨てられるという。

八雲の表情が不意に曇る。

「わしが屋久島まで運べればいいんじゃが、そんな能力ちからはないからのぅ。わしにできることは、こいつを忘れないようにすることじゃ」

諦めの混じった声音だったが、その顔には悔しさが滲んでいた。

悠子は、老精霊の言葉に胸を突かれた思いがした。

確かに、回りの人間が忘れてしまえば、本当にこの木は忘れられてしまう。せめて、この樹が何百年も生きたものだということを伝えなければいけない。

それが、代々、神々の声を聞いてきた巫子みこの血を継ぐ自分の役目だ。

「八雲さん」

悠子は、老精霊-八雲の名を呼んだ。

八雲が悠子に視線を向けた。

「八雲さんの言う通りです。このままだと、この樹は忘れられてしまいます。私、市長さんに話してみます。ここに、何百年も生きていた木があったことをせめて石碑か何かにして伝えられるように」

すると、八雲は安心したように笑った。

「そうか。ありがとう。」


(許さない…。)

その時、激しい音をたてて、巨木が揺れた。風が吹いているわけでもないのに、枝々の葉が、まるで蛇のようにうねっている。

「……っ!」

悠子は目を見張り、巨木を見上げた。

枝々が擦れる音に混じって、聞きなれない女の声が響いてきた。

(ここは私の場所だ。誰にも渡しはしない)

おどろおどろしい声色と共に、巨木な幹の中から、桃色の振袖を着た娘が現れた。長い黒髪はばらばらに広がり、肌は血の気がないほど白かった。

眼は飢えた獣のように鋭く、血走っていた。

足はなく、半分透き通った姿は、娘がすでにこの世のものではないことを示していた。

娘は悠子を視界にいれるやいなや、細腕を悠子の首にかけると、見かけからは想像できない強い力で、悠子の首を絞め始めた。

(お前か!お前が私の居場所を壊すのか!)

「……ぐっ、うっ……!!」

「よさんか!」

八雲が引き剥がそうとするが、体の小ささゆえに力の差は大きく、逆にその反動で、八雲の体が跳ね返った。

「くそっ!」

悪態をつき、必死に娘の腕を引っ張る八雲を霞む視界にいれながら、悠子も、この状況を打破するために扇子を広げた。

「っ…!」


リンッ


こんな時でも、根付けの鈴は、涼やかな音色をたてる。


(許さない…!許さない!殺す、殺してやる!)

「……は、くれ…」

吐息とともに、防御の言霊を口に載せようとした瞬間、悠子の意識に見たことのない風景が飛び込んできた。


藤の花の簪を髪に挿し、口に紅をつけた娘が、葉を青々と繁らせ、ぽつりぽつりと小さな白い花を咲かせている榊の木の下に、背筋を伸ばして立っている。

日射しは強く、娘の視線の先にある田園は、かげろうのように揺らめいている。

蝉の鳴く声が反響するなか、娘はどこか遠くを見ていた。


不意に場面が切り変わり、娘は、アキアカネが飛ぶ夕焼けのなかにいた。

隣に立つ木の葉は、先ほどの瑞々しさはなかったが、枯れることなく、しっかりと根付いていた。

田園は、小さな苗から鶯色の稲穂をつけた見事な稲となり、風が吹けば小波のよう揺れていた。

夕日が娘の顔にあたり、その姿を橙に染めたが、娘は微動だにしなかった。


再び場面は変わり、今度は、一面白一色となった。

榊の木も田も、雪を被っている。

しんしんと降り積もる雪景色のなかで、娘は番傘を差し、肩に紺色の肩掛け(ストール)を巻いて立っていた。

「…隆彦さん…」

娘の切なさを帯びた呟きが、白い吐息に混じって虚空へ消えていく。灰色の空には、鷹が低い姿勢で飛んでいた。


そして、再び切り替わる。

遠くの山々は薄桃色に染まり、木には赤く色づいた若芽が芽吹いていた。

田の淵にはたんぽぽが咲き、辺りには紋白蝶が舞っている。

娘は、変わらず木の下に立っていた。

すがるような眼差しを遠くに投げ、娘は、春の暖かな日射しを受けていた。

その様は、生を謳歌している生き物や植物とは対照的に哀愁に満ちているものだった。

やがて、景色は太陽の光に遮られるかのように白く塗りつぶされ、徐々に春の景色も娘の姿も見えなくなった。


※※※※※


不意に、感じていた息苦しさがなくなり、悠子は大きく息を吸い込んだ。

いきなり気管が広がったせいか、刺激となって咳が出る。

「…はぁっ、げほっ、ごほっ」

目尻に涙を浮かべながら、顔を上げると、少し離れたところで、地面から生えた蔓に巻き付かれ、憤怒の表情を浮かべた娘がいた。

「悠子、大丈夫か?」

気付けば、八雲が隣を漂っており、心配そうに悠子を見ていた。

「…やくもさん」

脳に酸素が行き渡ってないのか、半ばぼんやりとしていると、あきれたような声音が悠子の耳に入ってきた。

「嫌な気配がしてきてみたんだが…、相変わらず変なのに好かれるんだな」

振り仰げば、一人の少年がそこにいた。

少年は、悠子の高校-支龍高校のエンブレム(支のCに龍のRを組み合わせた簡素なもの)を胸元に刺繍したポロシャツに灰色のズボンを穿いていた。

そばかすがあり、形の整った鼻は、冬でもないのに赤く染まっていた。

手に、背丈以上の黒い槍を握り絞め、その切っ先を大地に突き刺した少年は、切れ長の瞳で真っ直ぐ悠子を見下ろしていた。

「草壁くん…」

少年は、悠子のクラスメートであり、同じ巫子である草壁達騎だった。

「知り合いか?」

「はい」

「あの坊主がお前さんを助けてくれたんじゃ」

頷く悠子に、耳元で八雲が囁く。

(邪魔をするな!)

娘は手足を無茶苦茶に動かす。蔓はぶちぶちと音をたてて、引きちぎられた。

「おいおい。なんて馬鹿力だよ」

そう言いながら、達騎は槍を引き抜き、娘に切っ先を向けて低く構えると、地面を勢い良く蹴った。

「行け、山魚狗やませみ

呟くように言霊を唱える声が悠子の耳に入る。

次の瞬間、達騎の身体が浮き上がり、空中を滑るように駆けていった。あっという間に達騎は娘の前に躍り出た。

悠子は、はっとし、広げた扇を構えた。いけない。彼は彼女を「送る」気だ。

「悠子?」

八雲が訝しげに悠子に声をかけるが、気にしているひまはなかった。

悠子は視線を二人に固定し、集中した。

蔦を引きちぎる女に、達騎が槍を上段に振り上げる。

「運が悪かったな。まっ、恨むなら自分の運の悪さを恨みな」

そして、槍を振り下ろした。

白蓮はくれん!!」

その刹那、悠子は声を張り上げ、防御の言霊を唱えた。

突如、女の盾になるように、巨大な蓮の花が現れた。花は達騎の槍の穂先を自らの花弁で跳ね返した。

「…何の真似だ」

振り返らないまま、達騎が押し殺した声を上げた。その背中には怒気がこもっていた。

「さっきは助けてくれてありがとう、草壁くん。でも、まだ彼女を送るのは早いわ」

「早い?殺されかかったお前が言うのか?よく見ろ。こいつはもう荒御魂だ」

にべもない達騎に悠子は必死に言い募った。

「私、彼女の記憶が視えたの。もしかしたらまだ間に合うかもしれない。お願い、送るのはもう少し待って」

唇を引き結び、悠子は達騎の背中を見つめる。

すると、女は獣のような唸り声を上げながら、蓮の花に爪をたてた。

だが、蓮の花はびくともしない。

《白蓮》は、その名の通り蓮の花が盾となり、その回りが透明な防護壁に覆われるものだった。

やがて、痺れを切らしたのか、女は見えない壁を拳で叩き出した。

不意に、達騎が小さく息を吐くのが悠子の耳に入った。

「悪いが、お前の考えには同意できない」

そして、槍を引き、構えた。

水把雀蜂すいはじゃくほう!」

何十という突きが蓮に叩き込まれ、花びらにいくつものヒビが入った。

「ぐっ」

言霊の効力が消えそうになり、悠子は眉を寄せ、意識を集中させる。だが、それも虚しく蓮の花は氷のような澄んだ音をたてて粉々に砕け散った。

抑えるものがなくなった娘は、達騎へ手を伸ばした。

(お前も邪魔をするなら殺してやる!)

達騎は何も言わず、上体を僅かに後ろに反らせた。

槍の刃先から紫色の電流がいくつも走る。

悠子は焦った。

あれは「鷹飛雷衡ようひらいこう」だ。

一撃必殺の技であるため、放った後は無防備になるが、確実に荒御魂を送ることができる猿田彦の一族に受け継がれた技の一つだ。

あれを出してきた以上、達騎が意思を変えることはない。

悠子は、一か八かの賭けに出た。

達騎の槍の刃先を見つめ、「繭籠封糸(けんろうふうし」と素早く呟き、次に「綿鉄砲(わたでっぽう」と唱えた。

足元の空気が圧縮し、弾ける感覚に襲われたかと思うと、悠子の身体は空を飛び、二人の頭上にいた。刹那、達騎の槍の刃先を見る。

槍の中間から白い糸が無数に現れ、電流を発していた刃先を包みこんでいた。

それを最後まで見届けることはしないまま、達騎を背に庇う形で間に割ってはいる。

「鈴原!!」

達騎の驚きと怒りに入り混じった声を耳に入れながら、悠子は娘に向かって叫んだ。

「タカヒコさん!」

その言葉に、娘の動きが一瞬止まった。

「あなたはここでその人を待っているんでしょう?だから、私を追い出そうとした。違う?」

「…たかひこさん?」

娘の浮き上がっていた髪が落ち着く。虚ろで血走った目に光が宿り、声にも力が入ってきた。

「……そう、私はずっと待っている。あの人が、京から帰ってくるのをずっと」

徐々に娘の肌は血色がよくなり、刺々しかった雰囲気も和らいでくる。

やがて、娘の焦点が悠子に向いた。

「あなたは、…誰?」

「私は鈴原悠子。巫子です。この榊の樹を弔いにきたの」

「弔い?」

悠子は頷き、風に吹かれる榊の樹を見上げた。

「この樹はもうすぐ切り倒されてしまうから」

「切り倒される?それは困るわ。隆彦さんが来られなくなってしまうもの。それに、この樹はとても神聖なものよ。切り倒すなんて畏れ多くてできないはずよ」

「それはあんたが生きていた時代のことだ。今の時代、よほどのことがなければ樹を残そうなんて考えない」

「え?」

「もうあんたが生きていた時代じゃない。ざっと五百年は経っているだろう。もう分かるよな。あんたは…」

「待って、草壁くん」

悠子は振り返り、達騎の言葉を遮った。

「情けをかけてどうする?先伸ばしにしたところで事実は変わらない」

「それはそうだけど…。痛っ!」

突然、達騎が悠子の額を指で弾いた。

「お前、お人よしも大概にしろよ!今日で二回あの世に逝きかけたんだからな!」

本気で達騎が怒っているのを感じとり、悠子は謝った。

「…ごめんなさい」

達騎が疲れたように息を吐いた。

「まったく、お前といると寿命が縮まる」

「・・・・あの」

娘が二人の様子を窺うように、おずおずと口を開いた。

「五百年ってどういうことなの?」

その言葉に悠子は表情を曇らせる。事実を言って、娘を混乱させてしまう可能性を危惧したのだ。下手をすれば意識が混濁し、悪霊に逆戻りしかねない。

「とうの昔にあんたは死んでいるってことだ」

悠子が迷っている間に達騎がさらりと告げる。娘は大きく目を見開いた。

「死んでいる?私が?」

信じられないといった表情を浮かべながら、娘は着物の襟を掴む。

「タカヒコって野郎を待つっていう思いが、あんたを死んだ後もここに縛りつけたんだよ。まっ、正気に戻ったなら、とっととあの世に行くんだな。ここに残られても生きている奴の迷惑になるだけだ」

娘の気持ちを考えない遠慮のない達騎の言葉に、悠子は眉を寄せる。

「草壁くん、そんな言い方しないで」

悠子の言葉に、達騎は鼻で笑った。

「もう死んでいる奴に優しく言ったところで変わりはしないだろ。むしろ、はっきり言った方が諦めもつく。先延ばしにした挙句、後で爆発されても面倒だからな」

あまりといえばあまりの台詞に、悠子は閉口する。その時、娘が悠子に声をかけた。

「そうなの?私は本当に死んでいるの?」

娘の方を向き、悠子は小さく頷いた。そして、言いにくそうに言葉を紡ぐ。

「はい。・・・あなたは、五百年以上前に亡くなっています」

「そう・・・」

娘は着物の襟を掴む手に再び力を込めると、そのまま俯いた。

「分かったなら、さっさと行け。また悪霊に戻りたいんなら話は別だけどな」

「草壁くん!」

達騎の棘のある言い方に、悠子はとうとう声を荒げる。それにひるむ様子も見せず、達騎は言葉を続けた。

「ガキじゃあるまいし、あの世に行くことくらいできるだろう」

「それでも、もう少し言い方があるでしょう!彼女が傷つくわ!」

達騎は、どこ吹く風といった様子で悠子を見る。

「・・・・隆彦さんはいるのかしら」

「え?」

「約束してくれたの。京で一旗あげたら必ず私を迎えに来てくれるって。私を同じようになっているなら、私を探しているかもしれないわ」

「五百年以上経ってるんだ。もしそうならとっくにあんたを見つけて・・・むぐ」

余計なことを言いそうな達騎の口を悠子は塞ぐ。

「そうね!その可能性もあるわ!ここの他に彼が行きそうな場所はある?あなた達が行ったことのある場所とか。強く記憶に残っている場所に引き寄せられることも多いの」

娘は少し考えてから言った。

「よく二人で星蘭池に行ったわ。すごく水が綺麗で、底に生えている水草も見えるの」

「星蘭池・・・。聞いたことのない名前だわ。この辺りの池かしら?」

悠子は首を傾げ、考え込む。そこへ事の成り行きを見守っていた八雲が割って入った。

「その池なら知っとる。南継なつきにあるぞ」

「南継に?八雲さん、行ったことあるんですか?」

「あぁ。あそこには馴染みがいるんでな。あの池から見る月で飲む酒は格別でなぁ」

「・・・・ただの酒飲みかよ。飲みすぎて力が発揮できなかったのか?人ひとりくらい助けられるだろうに。役にたたねぇじいさんだ」

「草壁くん!」

左手で、悠子の手を引き剥がしながら、思いを馳せるように目線を遠くに投げる八雲に、達騎は冷めた眼差しを向ける。眦を上げ、小声で悠子は達騎を窘めると、八雲に顔を向けた。

「知っているなら、八雲さん、道案内をお願いできますか?」

「かまわんよ。そうじゃ、行くなら速い方がいいじゃろう。ちょっと待っとくれ」

そういうなり、八雲は明後日の方向に顔を向け、両手をまるでメガホンのように口に当てた。

「ほろほろ、どんどん、風吹け、波たたせ。ほろほろ、どんどん、来い来い、風花」

八雲が呪文のような言葉を言った瞬間、空の彼方から細長い体を波立たせ、一匹の龍が現れた。

その龍の体は白く、鱗の代わりに雲か綿に似た柔らかな毛を全身に纏っていた。

「はいはい~。うんそうや・ようぜんですー」

その姿に似合う間延びした言葉づかいをしながら、龍は八雲達の前に舞い降りる。

「よう来たな、真白。急で悪いんじゃが、お前に頼みたいことがあるんじゃ」

「なんですかー?」

「こいつらを星蘭池まで乗せて行ってもらいたいんじゃ。わしが道案内をする。頼めるか?」

「いいですよー」

「そうか。恩にきる」

「かまいませんよー。やくもさんのたのみですしー」

真白は尾を振ると、悠子たちの方を見た。八雲が悠子達を見ながら真白を紹介する。

「こいつは運送屋・妖善の真白という。物の配達や、あやかし達の足にもなっておる」

悠子は、真白の目線に合わせるように膝を軽くい曲げた。

「私は悠子です。よろしくね。真白君」

「あ、こちらこそ。ぼく、うんりゅうのましろといいますー。よろしくおねがいしますー」

「こちらこそ。それで、あ・・・」

悠子が隣にいる娘を紹介しようとするが、娘の名前を聞いていなかったことに気づく。

すると、娘は察して言葉を発した。

藤花とうかと言います。宜しくお願いします」

悠子と真白にそれぞれ頭を下げる。

「藤花さんね。こちらこそよろしくね」

「よろしくですー」

悠子が笑みを浮かべ、真白が二本の長い髭を波立たせた。

「なぁ、運送屋ならその池の道くらい覚えているんじゃないのか?」

達騎が八雲に聞く。

「真白は花野市の運送屋じゃ。奈継市は奈継市の運送屋が仕事をしておる。一種の縄張りというわけじゃな。だから、真白は奈継の道はわからないんじゃよ」

「縄張りか。なんとも妖らしいな」

「何を言っておる。人間だって配属されている管轄地域を別の人間が出入りすると嫌がるじゃろう。警察とかいったか?妖も人間も物を考える生き物はたいして変わらんよ」

「・・・・・」

諭すように言う八雲に達騎は黙った。


「それじゃ行くとするかの」

八雲が二人を促す。悠子は頷き、扇を閉じて袖の袂に収めると、真白の背に跨った。続いて藤花も悠子の後ろに跨る。二人が座ったのを見届け、八雲は真白の頭上に腰を下ろした。

悠子は、槍を持ったまま佇む達騎の方を見た。

「草壁くん、私、行くわね。色々ありがとう。気をつけて帰ってね」

「ちょっと待て。誰が行かないって言った」

「え?」

悠子が首を傾げながら、達騎を見る。達騎は「縮畳しゅくじょう」と言霊を唱えた。

そして、右手に持っていた刃先を綿で包まれた槍を掌ほどの大きさにすると、制服のズボンに突っ込んだ。

「お前を一人にしておくと、無茶なことを平気でしそうだからな。俺も行く」

ずんずんという音が聞こえそうな勢いで真白に近づいた達騎に、八雲がぼそりと呟いた。

「心配だから行くと言えばいいのに、素直じゃないのぅ」

「黙れ、じじい」

声音を低くし、達騎は口元を緩め、にやにやと笑う八雲を睨みつけた。そして、藤花の後ろに跨る。

「それじゃ、いきますよー。しっかり掴まってくださいね」

真白が声をかけ、勢いよく地面を蹴った。

綿毛のようにふわりと浮かびあがり、四人を乗せた白い龍は、真っ直ぐ空を目指したのだった。


真白は空中を滑るように飛んだ。

真白の体毛は、毛布のように柔らかかった。温かい体温と程よい手触りを掌に感じながら、悠子は辺りを見回す。

雲が眼前を遮り、どこを飛んでいるのか皆目見当がつかない。悠子は、真白の頭上に生えた白い二本の角に掴まっている八雲に聞いた。

「八雲さん、ここがどのあたりか分かりますか?」

しかし、その問いに答えたのは真白だった。

「今はまだはなのしですよー。なつきしにつくのはもうすこしさきですー」

花野市。悠子達が住む街だ。

「わかったわ。ありがとう」

「安心せい。このまま真っ直ぐいけば奈継市じゃ。どーんと大船に乗ったつもりでいればいい」

八雲が角を持ったまま振り向き、にっと笑った。

「はい」

笑みを浮かべ、悠子が頷くと、不意に体が後方に引っ張られる感覚がした。振り返れば、藤花が心なしか青冷めた顔で悠子の着物の袖を掴んでいた。

「お、落ちたりしない?私、空を飛んだことなんて一度もないのよ」

「平気だろ。落ちたって、みんな揃って高天原に行くだけだ」

「ちょっとぶっそうなこといわないでくださいよー。ぼくのしんようにかかわりますー」

達騎の不穏な一言に真白が眉をしかめる。

「悪い、悪い。冗談だって」

達騎もたちが悪いと思ったのか、真白に素直に謝った。

藤花が悠子の肩を掴む。その顔には不安が広がっていた。悠子は安心させようと微笑む。

「大丈夫よ。心配しないで」

藤花はおずおずと頷いた。


やがて、雲の切れ目から奈継の街が見えた。八雲が言う。

「おお、噂をすれば奈継市じゃ。真白、降りてくれんか」

「りょーかいでーす」

八雲の指示を受けて、真白が徐々に高度を下げていく。朧気だった町並みがはっきりとしていき、屋根の色や建物の輪郭が分かるようになった。

「そのまま真っすぐ。輪音タワーが見えてきたら、左に曲がってくれ」

「はーい」

輪音タワー。一年ほど前に奈継市にできたタワーだ。朱色に染まった電波塔で、いぶした金色が所々アクセントになっている。頂上は展望台になっており、奈継市が一望できるようになっている。ちょっとした観光名所になっており、県内、県外からも多くの人が訪れている。

「そのまま真っすぐ行くと、林が見えてくるはずじゃ。そこに星蘭神社という社があってな。そこに池があるんじゃよ」

「そこが星蘭池なんですね」

悠子が頷く。依頼され、奈継市に来ることはあるが、どの辺りに何があるにかはほとんど知らない。知っているのは、せいぜい輪音タワーくらいだ。

しばらく飛んでいると、建物が所狭しと敷きつめられた中に、ぽつんと緑が現れた。

「あれじゃ。よし、降りるぞ」

「ちょっと待って。このまま降りたらすごく目立っちゃう」

悠子は着物の懐から一枚の紙を取り出す。紙には青色で奇妙な絵が描かれていた。この紙は、「隠し紙」と呼ばれ、紙が貼られた場所の半径1メートルの間は人も物も全て見えなくなってしまう。

隠れるのが得意な隠れ鬼の髪を混ぜて作られたものだ。

悠子は「隠し紙」を自分の胸元にペタリと貼り付けた。外側からは真白達の姿は見えなくなる。

「うん、これでよし。大丈夫。真白くん、降りていいよ」

「わかりましたー」

真白は林に近づく。そこには青空を映した丸池があった。周囲は榊の樹で覆われ、その樹々を挟むように境内と社、宮司の家が見えた。

真白達は、丸池の周りに鬱蒼と生い茂っている雑草の中に降り立った。悠子は隠し紙を剥がし、着物の懐に入れる。皆、順々に真白から降りた。

「すごいわ。水が透き通っている」

悠子は池を覗き込む。水はガラスのように透き通り、底に生えた水草までよく見えた。

「透き通りすぎて怖いくらいだな。虫もいない」

達騎の言葉で、池によく目をこらせば、確かに水辺に生息する小さな虫達もいない。

「そうね。少し怖いわね」

悠子が同意すると、不意に池が暗くなった。

「え?」

太陽はかんかんに照っているはずなのに。おかしいと思った刹那、水面から何かが飛び出してきた。

「うぉっ?!」

達騎の驚くような声に何事かと顔を向ければ、達騎の足首に銀色の糸が絡んでいた。糸は達騎を引き摺りこもうとする。

「草壁くん!」

悠子は達騎の腕を掴む。しかし、その力はあまりに強く、悠子の足は宙に浮かびそうになった。すんでのところでその足を藤花が掴み、真白が藤花の着物の裾を口に銜え、八雲が真白の尾を掴んだ。

その様はまるで綱引きのようだったが、やはり姿の見えない何者かの力の方が強く、彼らもずるずると引きずられていき、池の水は達騎の胸元までやってきた。

「くそっ!」

達騎は、悠子の手に掴まれた左手に盛大の力を込め、空いた右手をポケットに突っ込み、ボールペンサイズの槍を取り出した。そして、叫んだ。

「天槍、開放!」

すると、槍は黒い閃光を放ちながら、巨大化し、地面に突き刺った。

「ぐぅっ」

引きずられるのを抑えられると思ったが、糸は槍ごと巻き込むつもりらしく、達騎を引き込もうとしている。

右手は達騎を離さないようにしっかりと掴みながら、悠子は左手を懐に伸ばし、扇子を取り出し、広げた。そして、池の水面に視界を入れ、言霊を放った。

断風たちかぜ!」

すると、鎌の形に似た風の刃が現れ、水面を突き破り、横に割れ目ができた。その割れ目からは白い糸が伸びており、日の光を帯びてきらきらと銀色に輝いていた。

断風たちかぜ!」

悠子が再び言霊を唱え、糸を断ち切る。すると、悠子達を引き摺りこむ力はあっという間になくなり、その反動で悠子は芝生に尻もちをつき、藤花は体をぐったりと横たえ、真白と八雲はへなへなと腰を下ろした。

達騎は槍を支えにして池から這い上がる。

「サンキュ。助かった」

達騎の礼に悠子は微笑みで返した。

その時、ひゅんっという空気を裂くような音がしたかと思うと、悠子の体に糸が巻きつけられ、宙にぽぉんと浮き上がった。寝転んだ状態だった藤花がとっさに悠子の袂を掴む。

真白と八雲は藤花を掴もうと、口と手を伸ばす。

山魚狗やませみ!」

達騎も術を発動させ、手を伸ばした。しかし、あと一歩のところで彼らは藤花の足に届かなかった。

なぜなら、池の中から凄まじい水音をたてて、巨大な蜘蛛が姿を現したからだ。蜘蛛は家一戸分の大きさがゆうにあり、体毛は雪のように白かった。大きく口を開け、蜘蛛は二人を飲み込む。

「悠子!」

「とうかさん!」

八雲と真白が叫ぶ。

達騎は槍を振り上げたが、蜘蛛はその巨体に似合わない素早さで、池に逃げ込んでしまった。槍を持った手を強く握り、盛大な水音をたてながら池の中に沈んでいく蜘蛛を、達騎は睨みつけることしかできなかった。

すると、術の効力が切れ、達騎は池に落ちそうになる。しかし、真白が自らの背で受け止めてくれたため、事なきを得た。

「だいじょうぶですか?」

「・・・・あぁ」

再び池に視線を転じれば、水面は何事もなかったように静まり返っていた。

「おい、じじい!何であんなものがこの池にいる!」

達騎は、真白の頭上にいた八雲の襟首をひっつかみ、怒鳴った。

「わっ、わしにも分からん!何度かここに来ているが、あんなのは見たことがない!」

八雲は必死に首を振る。その目に嘘が無いと感じた達騎は、八雲から手を離した。

「なぜ、こんなことに・・・。わしはどうすれば・・・」

項垂れる八雲を片隅にとらえながら、達騎は拳を口に当て、恐ろしいほど澄んだ池をじっと見つめた。

「けいさつをよびましょう!はやくしないとたいへんなことになります!」

真白が飛び立とうとするのを、達騎はたてがみを掴んで止めた。

「待て。俺に考えがある。真白、お前の力も借りたい。それから、八雲、お前もだ」

項垂れたままの八雲に達騎が言う。

「あんたも精霊の端くれなら、人ひとりくらい助けてみせろ。その力は飾りじゃないだろ」

八雲が達騎を見る。達騎の瞳には強い光が宿っていた。


蜘蛛に飲み込まれ、思わず目を閉じた悠子は体に感じた衝撃で目を開けた。

周りを見回し、体を起こす。辺りは薄暗く、ドンドンという太鼓の音にも似た心臓の音が体を震わせた。手や足からはぶよぶよとした何とも言えない感触が伝わってくる。

やがて目が慣れてきたのか、先ほどより周囲がよく見えるようになった。

そこで悠子は、少し離れた場所に藤花が倒れていているのを見つけた。悠子ははっとして立ち上がり、駆け寄って藤花の肩を揺さぶった。

「藤花さん!」

「・・・うっ」

小さく声を上げ、藤花が瞼を開ける。悠子は安堵の息を吐いた。

「大丈夫?怪我はない?」

「・・・えぇ」

藤花はゆっくりと起き上がり、立ち上がった。しかし、足元が柔らかいためか、草履をとられ、転びそうになる。悠子が慌てて手を取った。

「ありがとう」

藤花は礼を言ってから、気味悪げに辺りを見回した。

「ここってあの蜘蛛の中?」

「ええ、そうよ。さぁ、ゆっくりしてはいられないわ。ここを出ましょう」

悠子は意識の隅で、皮膚に粘りつくような重い空気を感じ取っていた。体の芯が重く、頭の辺りが痺れるような感覚もあった。悠子はこの空気をよく知っていた。

これは、悪霊とも呼ばれる荒御魂が発する氣だった。荒御魂がいる場所にあまり長く留まっていると、和御魂も荒御魂となってしまう。人間にも影響が出ることが多い。体調が悪くなったり、穏やかだった性格が乱暴になったり、時には犯罪を起こす原因にもなるのだ。

「出ましょうって、どうやって?」

藤花が尋ねる。

「ちょっと下がってて」

悠子は藤花を下がらせ、扇子を構えた。

「痛いけど、ごめんね!『断風』!」

達騎に絡まった糸を切った時とは比べ物にならない突風が吹き、それは鎌の形となってぶよぶよした肉の塊に当たった。しかし、肉は分厚く、切り傷すらつけられなかった。

「そんな・・・・」

腹を傷つけることで、蜘蛛に自分達を吐き出させようとしたのだが、これでは意味がない。だが、悠子の持つ攻撃技はこれしかない。というよりも鈿女うずめの巫子は、守りの力に長けているが、攻撃する術は『断風』しかないのだ。逆に、猿田彦の巫子達は攻撃技が多い。

「断風!断風!断風!」

悠子は幾度も言霊を言い放ち、鎌鼬かまいたちを起こすが、何度やっても変わらなかった。両手を膝につき、悠子は荒く息を吐く。その様子を藤花は不安げに見つめていた。

ふと、藤花が視線を横に向けると、どこから現れたのか、枯れ草色の着物を着た己と同じ年頃の―十代後半の男が目の前を横切っていくのが見えた。

しかし、男は藤花に気づく様子もなくそのまま歩いていき、音もなく消えた。

「ゆっ、悠子!」

顔を上げた悠子に、藤花は男が消えた方向を指さした。

「え?」

藤花の言葉に目を瞬く悠子だったが、その目の前に群青色の着物を纏った男が現れたことで表情を変えた。男が悠子の前を横切る刹那、男は小さく呟いた。

「急がなければ。約束に遅れてしまう。急がなければ・・・」

「隆彦さん!」

突如、藤花が声を上げる。

「隆彦さん!私よ、藤花よ!」

藤花は必死に呼びかけるが、男は何の反応も示さない。ただ『急がなければ』という言葉を繰り返すばかりだった。

隆彦の姿が徐々に遠のいていく。藤花が後を追って走りだした。

「待って、藤花さん!」

扇子を懐にしまいながら、悠子も後を追う。


トンネルのように曲がりくねった体内を進む。行くにつれて、何かが腐ったような言いようのない臭いが鼻につき、悠子は眉をしかめ、鼻と口を手で覆った。

嫌な予感がした。

しばらくして、大きく開けた場所に出た。

「ひっ」

藤花が小さく悲鳴を上げる。隣に立った悠子も目の前に広がる光景に息を呑んだ。

液体がまるで窯で炊いた湯のようにずぶずぶと音をたて、煙をたてている。その中で、何百という虫の死骸が黒い穴を作り、獣か何かの骨らしきものが浮き沈みを繰り返していた。

天井の筋肉はどくどくと脈打ち、足元には、赤黒い液体がまるで窯で炊いた湯のように、ぐつぐつと煮たたっている。その中で、何百という虫の死骸が黒い穴を作り、獣か何かの骨らしきものが浮き沈みを繰り返していた。

そして、その上には隆彦を含め、着物を着た七人の男たちが浮かんでいた。彼らは二人に気付いた様子もなく、能面のような表情で口の中で何事かを呟いている。男達は皆、十代後半から二十代前半に見えた。色こそ違うが、全員が着物を着ていた。

「皆さん、私は巫女の悠子と申します。あなた方を助けにきました!」

本当なら、悠子達が助けてもらいたいくらいだが、彼らを見過ごすことはできない。悠子は男達に向かって声を張り上げた。しかし、男達は悠子の声など聞こえた様子もなく、同じ姿勢で言葉を繰り返している。

『急がなければ。急がなければ』

『明日は、納品なんだ。明日は納品なんだ』

『また旦那様に叱られるよ。嫌だな。また旦那様に叱られるよ。嫌だな』

『すまない。俺が間違っていた。すまない。俺が間違っていた』

『明日からどうやって生活していけばいい。明日からどうやって生活していけばいい。』

『ちくしょう!なんで俺よりあいつなんだ!ちくしょう!なんで俺よりあいつなんだ!』

『ははっ、やっぱり夢のまた夢だ。身の丈に合う仕事をみつけなきゃな。ははっ、やっぱり夢のまた夢だ。身の丈に合う仕事をみつけなきゃな』

決意、不満、悲しみ、怒り、諦め、様々な感情を持った言葉が飛び交う。

悠子は気づいた。隆彦を含め、彼らは『欠片』なのだと。

「藤花さん、彼が隆彦さんなのね」

「えぇ・・・。でも、おかしいわ。全然気づいてくれない」

「彼は・・・、いえ、彼を含め、ここにいる七人はみんな『欠片』だわ」

「欠片?」

首を傾げる藤花に、悠子は分かりやすいように説明する。

「・・・欠片というのは、大半の魂は高天原へ行くけれど、 現世―つまりこの世に強い思いを宿した一部分の魂が残ってしまったモノ達のことを言うの。私達巫女は、それを『欠片』と呼ぶわ。『欠片』は、生前の言葉や動作などを何度も繰り返すの。そして、視える人間が話しかけても、決して反応することはない」

「それじゃ、隆彦さんは・・・食べられてしまったのよね?」

言いたくはなかったのだろう。藤花は少し間を置き、悠子に聞く。その瞳にはどんな答えでも乗り越えようとする強い意志が見て取れた。悠子も藤花の想いに答えるように視線を逸らさずに答えた。

「・・・・えぇ。おそらく、あなたに会いに行く途中でこの場所を通ったのかもしれないわ。「急がなければ」と繰り返しているから、多分そうだと思う」

「・・・そう」

藤花は俯く。

「私も一緒に行っていれば、こんなことにならなかったのかしら・・・」

自身を責めるような藤花の言葉に、悠子は優しく言った。

「結果は誰にも分からないわ。あなたが悪いわけじゃない」

「でも・・・!」

「・・・それでも自分を許せないなら、高天原に行きなさい。そして、彼に話すの。今まであなたが思っていたことを全部」

藤花が弾かれたように顔を上げた。

「隆彦さんは、高天原にいるの?」

悠子は力強く頷いた。

「えぇ。魂が一つでも欠けていると、人間に転生できないから。彼は亡くなったその日から高天原にいると思うわ」

「高天原に・・・」

噛みしめるように呟く藤花に悠子はにこりと笑った。

「そうと決まれば、さっそくやりましょうか」

「何を?」

「あなたと隆彦さん、ここにいる全員を高天原に送るわ。こんな場所で悪いけれど・・・」

そう言って、悠子は懐から扇子を取りだし、それを広げた。根付の鈴が、澄んだ音をたてる。藤花は、その音を聞いた瞬間、清涼な空気が辺りを包んだような感覚を覚えた。

悠子は、足を肩幅ほどに開き、着物の袖を左手で軽く掴み、扇子を持った右手を斜めに構えた。

そして、小さく足を踏み、鈴を揺らす。

トンッ、シャン、トンッ、シャン。

交互に足と手を動かしながら、悠子はリズミカルに舞う。そして、息を吸い、謡いはじめた。

『目覚めよ、天之常立あめのとこたち。天つ風を吹かせ、和御魂にぎみたまの導きとなせ。我が言霊を楔とし、岩天戸いわのあまとを開きたまえ』

不意に、息もできないような強風が吹き、藤花は思わず顔を背ける。風が止み、顔を上げれば、天井から柔らかな光が降り注いでいた。同時に緑の匂いを含んだ清涼な空気が辺りを包む。

七人の男達は、不思議そうに天井を見上げた。

「さぁ、行きなさい。もうここに縛られることはないわ」

悠子の言葉と共に、真下から風が吹き上がり、男達を上へと押し上げた。

そして、次々と蜘蛛の体内を通り抜けていく。やがて、隆彦と藤花の番が来た。風に押し上げられ、二人は徐々に離れていく。

「縁があったら、また会いましょう」

微笑み、悠子は二人を見送る。藤花は、はっとしたように悠子を見た。

「待って!あなたはどうなるの!?」

「大丈夫。あなた達を送ったことで、私の居場所が分かったから。草壁君達が気付いてくれると思うわ」

実際、高天原に送ろうと言ったのも、居場所を達騎達に知らせたいという思いがあった。自分の能力ちからではこの分厚い肉を切り裂くどころか、腹痛を起させることもできない。外側から働きかければ、「綿鉄砲」で飛べることができるかもしれないと悠子は考えたのだ。

「待って!私もここに残るわ!」

すると、藤花が下へ降りようと両手で虚空を掴む。

「あなたを置いて高天原になんて行けないわ!」

必死の体で降りようとする藤花に悠子は戸惑った。

「隆彦さんに会えるのよ?」

「あなたを置いて隆彦さんに会っても嬉しくないわ。・・・あまりよく覚えてないけれど、あなたは私を助けてくれたんでしょう?助けることはできないけど、せめて一緒にいさせて」

懇願する藤花に悠子は頷いた。

「・・・分かったわ」

悠子は言霊を呟き、扇子を下に下ろすしぐさをした。

『閉じよ、天岩戸』

すると、風が止み、藤花を下へ降ろしていく。降り立った藤花に悠子は言った。

「隆彦さんの欠片は行ったわ」

藤花は後ろを振り返り、天井を見上げる。すでに光はなく、脈を打つ血管が見えるだけだった。申し訳なさそうな顔をしている悠子へ、藤花は困ったように笑った。

「なんて顔をしているのよ。どうせ高天原に行けば会えるんだから気にしていないわ」

「うん・・・」

悠子は頷く。そして、おずおずと言った。

「ホントのことをいうとね、少し寂しかったの」

「そう、ならここに残った甲斐があったってものね」

藤花が満足気に微笑む。悠子もつられて微笑んだ。


時は少し遡る。

星蘭池の真上で、頭の上に八雲を乗せた真白の姿があった。

八雲は池に手をかざし、目をつむっていた。その様子を達騎が見つめている。

不意に八雲が言った。

「わしは水の精霊じゃないからな。水を引き上げるのには時間がかかるぞ」

「無駄口を叩いてないでさっさとしろ」

にべもない達騎に八雲は肩をすくめ、意識をさらに集中させた。

達騎の考えはこうだった。八雲に周りの土を動かしてもらい、水脈をこの池に呼び込む。そして、土を引絞って池から水を溢れださせ、巨大蜘蛛を引き上げさせ、蜘蛛が現れたところを達騎が槍で攻撃し、中にいる悠子達を引き摺りだすというものだ。

不意に、池の中央から淡い光が放たれた。その光は水面を突き抜け、空へと伸びていく。

やがて、着物を着た七人の男達が順々に現れ、空の上へ消えていった。

しばらくして光も消え、池に再び静寂が訪れた。

「なっ、なんだったんですか、あれ?」

不安げな表情で、真白は目だけを達騎のほうに向け、訊ねた。

「鈴原だ。蜘蛛の中に浮遊霊がいて、そいつらを高天原に送ったんだろう。これで居場所が絞れた。やみくもにあれの腹を突かずに済む」

「できたぞ!」

八雲が声を上げる。達騎は唇の端を上げ、言った。

「よし、やれ!」

真白が急いで池の真上から移動すると、八雲は両腕を勢いよく両腕を上げた。

その瞬間、轟音と共に巨大な水柱が池から現れた。


水柱が池に出現する少し前、悠子と藤花は、どうやって蜘蛛の腹の中から出ようかと思案をしていた。外にいる達騎達に居場所を知らせたとはいえ、何もしないで待っているわけにもいかない。

繭籠封糸けんろうふうしっていう言霊があるの。繭玉が出る技なんだけど。ここにそれをいっぱい出して、おなかを膨らませて吐き出してもらうっていうのはどうかな?」

「それってどのくらいの大きさの繭玉が出るの?」

サッカーボールくらい・・・と言おうとして、藤花はそれを知らないことに気付き、悠子はサッカーボールの大きさを手で示した。

「このくらいかな」

藤花はそれをじっと見つめた。

「繭玉にしては大きいけれど、ここを一杯にするにはものすごく時間がかかると思うわ」

「・・・うん、確かに」

それもそうだと考え、悠子は次の案を考え始めた。

「う~ん・・・」

その時だった。激しい震動が悠子達を襲った。

「きゃあ!!」

藤花がよろめき、悠子が手を取って支えた。

「何なの?」

「分からないわ」

外にいる達騎達が何かをしたのではないかと推測するが、何が起こるかわからないなか、不安を煽るのも良くないと思い、悠子はそう答えた。しかし、油断なく周囲を見渡し、何が起きてもいいように身構える。

次の瞬間、体全体を突き上げるような重い衝撃が訪れた。その衝撃は液体を溢れさせ、二人を一気に飲み込んだ。


ちょうどその時、外では、達騎達が水柱から現れた蜘蛛と対峙していた。達騎は槍を構え、山魚狗やませみで大きく跳躍する。そして、蜘蛛の腹目掛けて突きを放った。

水把雀蜂すいはじゃくほう!!」


何かが叩きつけられるような鈍い震動を体に感じながら、悠子は藤花の腕を掴み、ねっとりとした液体の中を泳いだ。体中にぴりぴりとした痛みを感じながら、掻きわけるように上へ上へと進む。

「ぷはっ!!」

どうにか息のつける場所を見つけたが、それも一瞬のことだった。液体が競り上がり、悠子と藤花を再び沈ませる。それを何度か繰り返し、やがて液体が一気に上へと押し上げられ、二人は今までいた場所からはじき飛ばされた。


流れのままに浮き沈みを繰り返していると、悠子の瞳に白い小さな光が映った。その光を徐々に大きくなり、一気に開けたかと思うと、目の前に新緑の芽吹いた木々と青空が見えた。

「ひゃっ!!」

しかし、次の瞬間、視界が大きく揺れ、悠子は、液体と共に自分の身体が池に向かって落ちていることに気がづいた。池からはかなりの高さがあり、勢いがつきすぎて底に頭がついてしまうのではないかと一瞬思う。綿鉄砲で飛ぼうかと腕を動かすが、痺れるような痛みが全身に走り、身体が動かせない。

藤花の腕を掴んだ手も痺れており、少しでも気を抜けば藤花を落としてしまうだろう。

逡巡する間にも池はどんどん近づいてくる。

悠子は懇親の力を振り絞り、気絶している藤花を胸元に寄せると、彼女に与える衝撃が少しでも少ないように、藤花をぎゅっと抱き締めた。そして、自身も衝撃に備えて身を固くする。

「鈴原!!」

鋭い達騎の声が真横から響き、目をそこへ向ければ、空に浮いた達騎が手を悠子に向けて伸ばしていた。

悠子は藤花を抱え直し、右手を伸ばす。

その手を達騎が掴み、勢いをつけて悠子を引っ張った。

「真白!!」

達騎の背後に真白が控えており、達騎は真白を呼ぶと、悠子達を真白に向けて放った。

悠子達は真白の背にぶつかり、物干し竿に干された洗濯物のような格好になった。

「怪我はないか!?」

「だいじょうぶですか!?」

真白の頭の上で八雲が身を乗り出し、真白が長い首を曲げて悠子達を見る。

「な、なんとか…」

首を捻り、真白達の方を向いた悠子は安心させるために声を出す。

一匹と一人は同時に安堵の息を吐いた。


ギヤァァァァ。

その時、背後から痛々しい悲鳴が聞こえ、振り返れば、白い蜘蛛が口から赤い液体を吐き出し、身を捩じらせていた。その頭の上に、槍を手にした達騎の姿があった。

葉陽蟻棘はようぎきょく

一息置き、言霊を唱えた達騎は蜘蛛の頭上に深々と槍を突き刺した。

内部から破裂音がし、蜘蛛の体は歪な形に歪む。そして、痙攣を起こしながら、激しい水音を立て池の中に倒れたのだった。

達騎は、槍を蜘蛛から引き抜く。赤黒い血がどくどくと傷口から流れ出し、池の水を赤黒く染めていく。槍についた血を振り払い、達騎は滑らかな動作で芝生に降り立つと、倒れた蜘蛛を警戒するように睨みつけた。

しばらくして、蜘蛛の姿が二重にぶれ始めた。肉体よりも色素の薄い蜘蛛の姿が現れ、少しずつ池の中に沈んでいく。

あれは、蜘蛛の魂だ。荒御魂は、人であれ妖であれ、地の底にある根堅洲国に落ちていく。何度も視てきた光景だが、いくら経験しても慣れるものではなかった。


「・・・ぼくらもおりましょう」

ひと段落ついたという空気を漂わせながら、真白は悠子達を伴って草地に降りる。

悠子は、気を失ったままの藤花を静かに横たえ、腕の力を使って体を起し、立ちあがった。

「・・・つっ!」

しかし、液体の中を漂った時にも感じたぴりぴりとした痛みに思わず呻く。手を握ろうと指を動かすが、痺れが全体に広がっており、上手く動かせない。

「悠子、その顔はどうした!?」

すると、八雲が驚いたような声を上げた。悠子は自分の顔をぺたぺたと触る。

「なにか変?」

「真っ赤じゃぞ。まるで火傷をしたみたいじゃ」

悠子は池の淵を覗き込み、自分の顔を見た。八雲の言うとおり、顔は火傷をしたときのように赤く染まっていた。

「わあ、すごい・・・」

「・・・おそらく胃酸だろう。幸い、その服を着ていたのと、酸が弱かったからそれくらいで済んだんだ」

達騎が横目で悠子を見ながら呟く。その言葉に八雲が怒りを滲ませた声で言った。

「お前、それを分かっていながらやったのか!?下手をすれば死んでいたかもしれんのだぞ!!」

「そんなことは言われなくてもわかってる!だが、俺は賭けた。鈴原が着ている緋雷ひらい装束の性能に。それから、巨大なあやかしは獲物が不足しないように、体内吸収をかなり遅くして少しの餌でも動けるようにしていると文献で読んだ。だったら、体内の酸の濃度も薄いと踏んだんだ」

「だからといって、それが本当かどうか確証はなかったのじゃろう!あまりに無謀じゃ!」

「じゃぁ、どうすりゃよかった!?保妖課の連中を待ってたら、今頃こいつはあいつの餌だ!!」

達騎と八雲はお互い一歩も譲らず、互いが互いを睨みつけていた。その視線は、まるで火花が散るようだった。

「あの、二人とも、落ち着いて。ほら、結果的には大丈夫だったんだし、ね?」

悠子はどうにか収めようとするが、

「「鈴原(悠子)は黙っててくれ」」

強い口調で達騎と八雲に言われてしまい、何も言えなくなってしまった。

「それにしてもすごいやけどですね。ぼく、よくきくくすりをもっているので、もってきましょうか?」

嫌な空気が辺りに漂う中、真白の柔らかな気遣いの声が響く。

「え、いいの?」

「はい。たしかみせにあるはずです。ぼく、とってきますね」

「待て、真白。わしも行く」

真白が体を反転させ、飛ぼうとしたその時、八雲が口を開いた。

「お前さんの手じゃ、薬の瓶を掴むことも難しいじゃろう」

そう言い、真白の頭の上にふわりと乗った。

「・・・・かまいませんよ。じゃ、いってきまーす」

「あっ、ありがとう!」

慌てて悠子が礼を言うと、返事の変わりなのか、真白は尻尾を振りながら徐々に高度を上げ、青空のなかへ消えていった。


「・・・・・」

「・・・・・」

悠子と達騎の間に気まずい空気が流れる。聞こえるのは、藤花のたてる寝息と池から吹き上がっている水の音だけだった。

「・・・・ほらよ」

沈黙を破り、達騎は悠子に向かって何かを放り投げた。悠子は慌ててそれを受け取った。

それは、紺色のハンカチだった。

「それ使って、顔冷やせよ。何もしないよりはましだろ」

蜘蛛に視線を固定させたまま、ぶっきらぼうに達騎は言う。

「いいの?」

「悪かったら貸さねぇよ」

「・・・ありがとう」

達騎のさりげない優しさに感謝しながら、悠子は水の噴き出る池の淵に足を進め、しゃがみこんだ。

ハンカチを水に浸し、あまり力が入らない手でそれを絞る。絞り終えた悠子は、それを顔に当てつつ、達騎のところへ戻った。水の冷たさに痛みが和らいでくるのを感じながら、悠子は言った。

「後で洗って返すね」

このまま返すのは悪いと思い、出た言葉だったが、達騎の返事は素っ気なかった。

「別にいい」

「でも、臭いとか残るかもしれないから」

せめてそれぐらいはさせてという気持ちを入り混じらせ、じっと達騎の横顔を見つめる。

ややあって、達騎が小さく息を吐いた。

「勝手にしろ」

「うん」


(弥七郎さん・・・)

その時、悠子の耳に聞きなれない名を呼ぶ声が聞こえた。

藤花かと思ったが、彼女は草地に身を横たえ、深い眠りについたままだった。

(弥七郎さん・・・!)

沈んでいた蜘蛛の魂が足を持ち上げ、池の淵に長い足をかける。

「ちっ!」

達騎が舌打ちし、口早に「鷹飛雷衡ようひらいこう」と唱え、槍に紫の電流を迸らせた。

(ずっと、ずっと待っていたのよ・・・!)

今にも泣き出しそうな声を聞き、悠子は思わず足を前に出す。

「鈴原、下がれ!」

達騎が鋭い声で言う。悠子はそれ以上足を動かすことはせず、蜘蛛に向かって声を張り上げる。

「ヤシチロウさん。その人があなたを待っている人なのね?」

(弥七郎さん、弥七郎さん・・・)

悠子の言葉には答えず、蜘蛛は弥七郎の名を呟きながら首を巡らす。それは親を探している幼い子供のようにも見えた。その姿に、悠子は心動かされる。

この蜘蛛が七人の人間を飲み込んだ事実は変わらない。しかし、それにはそうなるだけの原因があったはずだ。蜘蛛の「声」を聞いてしまった以上、鈿女ウズメの巫女として荒御魂の想いを知る必要がある。

悠子は意を決し、歩き出す。不規則な動きをしているため、何が起こってもいいように蜘蛛から視線を外さないようにした。

蜘蛛の前まで来た悠子は、池の淵にかけられたままの蜘蛛の前足に手を触れた。そして、こわばった表情を浮かべる達騎に向けて安心させるように微笑んだ。

「大丈夫」

悠子は、大きく息を吸い、目を閉じる。

瞼の裏に一筋の光が走り、やがて、ある光景が現れた。



昔から、神話が好きでした。この小説には日本神話から取った題材が多くあります。楽しんでいただけたのなら幸いです。

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