夫婦喧嘩と不特定少数
〈夫婦喧嘩と不特定少数〉
財布と携帯だけをポケットに突っ込んで、宛もなく渋谷の街を歩く。
明治通りの雑踏は俺の身体を易々と受容し、呑み込んだ。
酷暑の名残を引きずった陽光が人々の背中を焼き、大地に九月らしからぬ熱気と汗の酸っぱい匂いを生む。
「あっつ……」
普段は冷房ガンガンの仕事場で一日の大半を過ごしている俺にとって、ここは地獄もかくやといった環境だ。鼻から顎から汗が滴り、いい男とは到底言えない容貌。
しかし、俺がせっかくの休暇にわざわざこんな熱帯に足を踏み入れたのには、ちょっとした理由がある。
そう、嫁との喧嘩でできた傷心を癒すためだ。
群衆の中に紛れると、俺は少しだけ心の痛みを忘れられた。
実家の九州だと祭り以外では縁遠かった大勢の人間、視界を埋め尽くす彼らには各々の人生があり、苦悩し歓喜し激怒し悲嘆しながら毎日を送っている。個人の懸念なんてこれらの末端の小さな出来事に過ぎず、世界にはなんの影響も与えない。そう考えると、なんとなく気持ちが楽になるのだ。
だから俺は、悩みがあるといつもここに来る。
誰も他人の事情になど興味を持たない、誰もが自分のことで精一杯、そんな光景を眺めていつも安心感を得ていた。
どっこい、今回はどうも勝手が違うみたいだ。
すれ違う人の能天気な面構えが、酷く癪に障る。俺はこんなに頭を悩ませているのに、みんな他人事で脇を過ぎていくのだ。
――どうして誰も自分に見向きもしないのか。理不尽な憤りが湧いてくる。
我が儘な理屈だってことはわかっている。
わかっているのに、心の奥底に滞留した胸糞悪さは消えてくれなかった。
「……あー駄目だ、くそ」
あまりの憂鬱に頭痛までしてくる始末。これ以上雑踏に溺れていても、不快な気分が助長するだけだ。俺は人の波を掻き分け、そそくさと手近な薄暗いビル影に避難した。
「ふぅ……」
冷たい壁面に背中を預けて、嘆息。
このストレス解消法は夫婦喧嘩に効果はないらしい。気晴らしどころか無駄な鬱屈を背負い込んでしまった。
とにかく当面の問題は、これからどうするか、だ。
ご立腹真っ最中の嫁がいる自宅へ帰るわけにはいかない、だが雑踏の中に舞い戻る気分でもない。
仕方あるまい。しばらくここで休憩していよう。そう決めると俺は瞼を下ろし――
「あれ、先客いるし」
――しかし、その安息も一秒と保たなかった。
振り向くと、両手にマクドナルドの紙袋を抱えたギャルっぽい出で立ちの女二人組と目が合った。彼女たちも俺の存在が予想外だったのか、小首を傾げて、
「オジサン、誰?」
不躾に誰何を尋ねてきた。
「えっと……ただの通りすがり、かな?」
反射的に返事をしてしまう。
「ふーん、まあいいや。それでオジサン、あたしたち今からここ使うんだけど」
しかし俺の答えなど心底どうでもよさそうに、金髪馬尻尾頭の女がにべもない台詞を放つ。
それは……あれか。自分たちの邪魔だから失せろ、と解釈するべきなのか。公園で下級生と出くわした小学生理論。今どきのギャルってのは、こんなにも傍若無人なものなのか。
「わかったよ、どけばいいんだろ」
不機嫌を募らせていた俺は、胸中で断固拒否してやろうかと逡巡するが、僅差で面倒臭さが勝った。最近の子は怖いって聞くしな。
「あ、いや、そうじゃなくってさ」
「え?」
立ち去る俺を引き留めたのは、もうひとりの茶髪厚化粧の女だ。
なんだ、絡まれるのか? これが流行りの親父狩りなのか?
ちょっぴり胸に恐怖心を抱きながら彼女たちを見ると、しかし予想に反して金髪の方がマックの袋を掲げ、白い歯を零した。
「ねえ、オジサンも一緒に食べようよ」
……は?
★
話を聞くと、彼女たちは日頃からハンバーガーとかを大量に買い込み、適当なビル影で“おやつの時間”を過ごしているそうだ。二人だけだが、女子会みたいなものか。
そして俺は、哀れにもその狼に狙われた仔羊。一度目をつけられたが最後、長話という名の牙の餌食だ。しかも話題は服・男・化粧・アクセサリー……一割も理解できませんわ。
「ところでオジサン、なんか元気なくない? なにかあったの?」
金髪女――ユーコという名前らしい――が、ハンバーガーを頬張りながら俺の顔色を気遣うように覗き込んだのは、ちょうどユーコのカレシの愚痴がひと段落した直後だった。一方的に話が進んでいたので、まず俺の存在が認識されていたことに驚きだ。
「え? そ、そう見えるか?」
夫婦喧嘩なんて格好の餌を猛獣の群れに投げ込む度胸はない、そう思っておどけるように肩を竦めるが、
「なんで慌ててんの? さては、なにか隠してるな!」
俺の一瞬の焦燥を目聡く発見した茶髪の方、アサミが全体を長すぎる睫毛に縁取られた瞳を爛々と輝かせた。
それにユーコも同調して、野次馬根性丸出しで詰め寄ってくる。後ろで結わえた髪が揺れた。
「ねえねえ教えてよ、あたしたち同じ釜の飯を食べた仲じゃ~ん」
「ただのマックだけどな! うおおわかった、教えるから! 教えるから耳に息を吹きかけるな! ズボンのベルトを外そうとするな!」
彼女たちの実力行使に、盛大に狼狽してたまらず降参する。これ以上の抵抗は逆効果だ、もはや害悪の興味を逆撫でするだけに過ぎない。
「まったく……」
俺は膝までずり落ちたズボンを急いで引き上げた。こいつら、まさか最初から俺の身体目当てだったんじゃなかろうか。既婚者に手を出すなんて、べらぼうに欲求不満な小娘どもだ。
紙芝居を待つ昭和の子どものように期待で満ちた瞳が俺を見据えている。
その視線に急かされるように、俺は諦念混じりの息を吐き、夫婦喧嘩の事情――ほんの数時間前の顛末を暴露した。
★
久しぶりの休暇、連日の多忙に疲弊しきっていた俺は、我が家の居間でもうじき二歳になる息子と、積み木やらドミノ倒しやらで遊んでいた。
多忙を極めた仕事場での毎日と比べればまさに天国と地獄、楽園にいるような心持ちで子煩悩を発散させていたのだが……
「なあ。……おまえ、大変そうだな」
愛情の冷めきった熟年夫婦でもない、自宅にいれば家事に追い回される嫁に申しわけない気分を覚えてしまうものだ。
なので肩身の狭さを感じながら、台所で黙々と皿洗いをする嫁にそう声をかける。
「え? 全然そんなことないよ。慣れれば案外楽しいもの」
嫁は気さくな笑顔で応じたが、表情や仕草から彼女も疲れていることは容易くわかる。それに、女性にばかり働かせて自分は悠々自適に余暇を過ごすなど、男が廃れるというものだ。
「なにか手伝うぜ。俺だけ休んでるなんて悪いしさ」
「あなたは普段仕事で忙しいでしょ。子守りを肩代わりしてくれてるだけでも充分助かってるし」
「いや、でも……」
つい語気が荒くなり、ちょっとした口論になる。俺は半ば意固地になって手伝うと主張するが、嫁も頑として譲らない。
そして幾度かの禅問答の後、
「うわあぁぁぁぁ!」
不意に我が子が声を上げて泣き出した。
「あ!」
「お、おい……」
突然の泣き声に慌てふためく俺を尻目に、嫁はすぐさま息子を両手で抱き、「いないいないばぁ」で宥める。変顔は職場恋愛の頃から嫁の得意技だった。
彼女が必死になって息子の涙を取り払おうとしている間、俺は胸中で猛省する。子どもの眼前で嫁と喧嘩するなんて、父親として失格じゃないか。その上フォローは嫁任せなんて……。
がっくりと肩を落とす俺に、ようやく笑顔が戻った息子を抱えた嫁が向き直る。
そして眉尻を吊り上げた毅然とした表情で、
「出てって!」
――やっちまったな、これ。
そして、彼女の怒声と後悔の念に背中を押され、俺はとぼとぼと玄関を出たのだった――
★
「マジで~?」
「超ウケるんだけど~」
泣く泣く仔細を語った俺へと、開口一番に放たれた言葉が“それ”だった。にしても「超ウケる」って台詞、都市伝説じゃなかったんだな。
などと、呑気に考察している場合じゃない!
「おまえら……なにがおかしい!」
嫁との諍いは自分でも情けないと思うが、他人が、しかも自分と比べれば年端もいかないようなガキがそれを嘲うのは気に障る。
しかし彼女たちは俺の全力の恫喝に微塵も動じず、
「だって……ねえ?」
「ねぇ~」
ふたり顔を合わせ、爆笑。ギャル特有の甲高い超音波の二重奏に煽られ、つい頭に血が上る。
「笑うな! 誰も面白いことなんざ言っちゃない!」
まあ箸が転がってもおかしい年頃なんだろうが、他人の不幸を肴にするのは、さすがに倫理的に許しがたい。というか単純に腹立つ。
しかし、次のユーコの台詞に、俺は返す言葉を失ってしまった。
「だってオジサン、悩んでるとか言いながらノロけるんだもん」
「……あ?」
意図せず間抜けな声が漏れる。ノロけ……?
「だってそうじゃん? お互いに相手の身体を気遣って喧嘩するなんてマジラブラブって感じ」
瞳を細めてにやにやと笑むユーコの言葉をアサミが継ぐ。
「まあ喧嘩も愛情の裏返しだからさ、相手を怒らせたなんて過剰に気にする方が阿呆らしいでしょ」
「そ、そうなのか……?」
他人事だからか楽観的が過ぎる気もするが、彼女たちの意見にも一理ある。内省するあまり、俺は嫁の心情を読み取ろうとしていなかったかもしれない。
思い返せば、嫁も俺の身体を気遣ってくれていたことに思い至る。でなければ無下に親切を振り払う理由がないだろう。
――そうか。
それだけの、単純な話だったんだ。面と向かって「ごめん」と謝って、落ち着いて話し合えば簡単に解消できる程度の擦れ違い。
彼女たちに言われるまで、まったく気づかなかった。
本人がどれだけ真剣に悩もうと、第三者からすれば他愛ない四方山話に過ぎない。ゆえに客観的に趨勢を見て、ときには難題の答えすら適当に拾い上げてしまう。
赤の他人との袖振り合いが、思わぬ結果を落としていくこともあるのだ。
「……オジサン?」
絶句する俺を不思議に思ったのか、ユーコが小首を傾げる。
「俺、もう行くよ。ありがとな」
表情から一切の憂いを払拭し、立ち上がった俺はユーコとアサミに笑顔を向けた。
「なんかオジサン、元気になったね」
俺の顔色を見て破顔したユーコに、アサミも頷いた。
「そうだね。――でも、怒らせたことはちゃんと謝りなよ。男として」
「おう」
「また一緒にマック食べようね!」
「……おう」
現実には、この広大な渋谷で再会するなど途方もなく出鱈目な話だろうが――とにかく俺はただ首肯した。
「じゃあまたな」
手を振り、俺はまた人海に身を投じた。群衆の影により、彼女たちはあっという間に視界から掻き消された。
頭上を仰ぐと陽光が目を焼き、俺は双眸を下界に降ろした。
能面みたいな無表情の人々を横目に、俺は内心で息をつく。
――たぶんこうして行き交う人のほとんどは、他人に興味なんてないんだろうな。
無論、それ自体を悪いと非難するわけじゃない。煩雑で複雑怪奇な世間に揉まれて赤の他人と関わる余裕がないのも、詮なきことだ。俺だって今日までは、大多数と同じように他者との接触を面倒だと避けてきた。
でも、
ユーコやアサミと出会って、大袈裟かもしれないけど、彼女たちとの出会いに俺は救われたから。
会社員、学生、ホスト風……、チャラ男、オタクっぽい人、おばちゃん……。この雑多な集合体の中に、ほんの少しだけ点在しているだろうお節介焼きの人口が、もっと増えればいい。
そして、いつかユーコやアサミのようなありがた迷惑が、普通な世の中になっちまえばいい。
ほんの十数分前の自分が聞けば鼻で笑うような夢物語。くだらない、必要ないとひと言で切り捨てそうな馬鹿げた思考。
しかし今では不思議と、心底からそう思えた。
「まあいいや。とにかく、早く帰ろう」
呟いて、歩幅を少し広げる。
なにせ今日は大仕事が待ち構えているのだ。プロポーズのときと同様、きっと嫁は強敵だからな。
でも、彼女の怒りが本当に愛情の裏返しだというのなら。
面白い土産話でも持ち帰れば、ひょっとすると……本当にひょっとすると、笑顔で明るく許してくれるかもしれない。
じゃあ、そうだな……
「今日、変なギャルの二人組に会ったんだ」から始めよう。
読んでいただきありがとうございます!
ギャルというと悪い意味での偏見を抱く方が多いと思いますが、彼女たちは必ずしも嫌な人間ばかりではありません。
いえ、ギャルに限らず、そういった言葉でカテゴリ分けされた人々にも
各々千差万別の個性があり、良い面も悪い面も両方持ち合わせているはずです。
試しに歩み寄ってみれば、意外な発見があるかもしれませんよ?
まあ、私は清楚な女の子のほうが好きなんですけどね!