アイデアな貼り紙
―アイデア落としました。拾ってくれた方、こちらまで―
電信柱に貼られた貼り紙には縦書きでこう書かれていた。思わず笑みがこぼれた、というのがこの貼り紙を見た時の最初の感想である。『こちらまで』と書かれた隣には落とし主の住所らしきものが書かれていた。イタズラだとしてもなかなか愉快な貼り紙だと思いながら、私はその貼り紙を通り過ぎたのだった。
それから数日が過ぎ、私はあの貼り紙が貼られていた電信柱のある道をまた歩くことになった。あの愉快な貼り紙はまだ貼られているのだろうかと私は少し興味を抱きながらその電信柱に近付いて行くと、
―アイデア拾いました。落とし主の方、後日お届けいたします―
と書かれている貼り紙に変わっていた。私はそれを見て思わず吹き出してしまった。前回の貼り紙と比べて字体が大きく違っていることから考えると、どうやらあの貼り紙を見た誰かが親切にも落とし主に返事をしたらしい。腰が砕けるような馬鹿馬鹿しい話だが面白い。拾ったアイデアとは何だったのだろうか。そもそも実体のないアイデアを拾うということは出来ないのだから、どうやって落とし主に届けるのだろうか。
そういった空想を膨らませながら私はその電信柱から遠ざかって行った。良いアイデアとは与えられた人間の想像に刺激を与えるだけでなく、その想像を発展させる力を持つものだと私は信じている。その考えに従えば、私は良いアイデアに出会えたのだろう。大して私の生活に直結して役立つアイデアではないが、それでも何か心地よい気分であった。
それから数日が過ぎたある日、自宅の書斎で椅子に力無く腰掛けていた私は、急に先日の貼り紙のことを思い出し、誘われるようにその貼り紙のある電信柱のところまで行くことにした。貼り紙が更新される、という言い方をすると妙な感じを受けるが、私はその貼り紙が正常に更新されていることを願いながらあの通りに辿り着いた。電信柱に近付いて行く。貼り紙が見えた。馬鹿らしくも胸が鳴る、周囲も気にせず早足になり、私は貼り紙が読めるところまで近付いた。
―ちょっと待って! そのアイデア、偽物かもしれない―
目を丸くして、そして私は小さく笑った。目が勝手にもう一度読む。なかなか奥深いことを感じさせてくれる。そもそもアイデアに本物も偽物もあるのだろうかという疑問がまず湧いた。次にこの貼り紙は誰に対して警告しているのかと思った。アイデアを欲しがる全ての人々への警告であろうか。もしや、アイデアを拾った方が拾ったアイデアは偽物だったのかもしれない。いや、拾った方はもしかしたら詐欺師であった、なんていうのも面白い。しかしアイデアの真偽など誰が判断するのだろうか。
だが、この貼り紙の文章は前回の二つと比べてやや面白みに欠けるとも私は思った。交番や役所の掲示板にある貼り紙の標語を少し変えただけのように思える。私ならもう少し捻りの効かせた貼り紙が作れるのではないかと思い少し考えてみたが、いざ考えてみると良いアイデアがなかなか拾えない。干潟で生きた浅蜊を掘り当てられないようなもどかしさを覚え、やがて考えることを止め、アイデアがあちらから現れる時まで待つことに決めた。良いアイデアをもし拾えたら次は私が貼り紙をここに貼ることにしようと思い、そうして私は電信柱から去って行った。
電信柱から過ぎ去ったのはよいが、外出した理由がたったそれだけだったために私は何処へ行こうか迷ってしまい、あの貼り紙の電信柱から少し歩いたところに公園があったので、私はその公園のベンチにとりあえず腰を下ろすこととした。結局、自宅の書斎でしていたことと何ら変わらないと気付き肩を落としたが、それでも公園に降り注ぐ初春の陽射しは暖かかった。この違いだけでも私は充分だと感じながらウトウトとしているうちに、気が付けば私は眠ってしまっていた。
目を覚ますと空は赤く染まっており、影も長く伸びていた。昼過ぎとは違い、だいぶ肌寒くなっていた。日が落ちる前に自宅へ帰ろうと私はさっさとベンチから立ち上がった。
落し物はないかベンチの方を見ると、私が座っていたすぐ横に白いペンキの滴を叩きつけたような跡が付いていた。すぐに鳥のフンだと気付き私は身の回りを確認した。
幸い、私自身にフンが落とされていることは無かった。
―襲来警報! 悪いアイデアから身を守ろう!―
突然、そんな標語を思い付いた。アイデアを拾うという感覚はこういう時を言うのかもしれない。悪いアイデアから身を守るという表現はなかなか的を射ていると思った。アイデアは良いものだけではない。悪いアイデアに振り回された結果、思わぬ怪我をすることも人生にはある。それでも、アイデアは鳥のフンと同じように罪の意識を全く持たずに襲来する。
悪くはないと思い私はさっさと帰路につくことにした。途中にあの電信柱のある道に出たので、私は貼り紙のサイズを確かめるためにも電信柱に近付いて行った。
すると電信柱には小奇麗な貼り紙が新しく貼りかえられていた。
―ひったくり多発中! 気をつけて下さい―
私は顔を渋めた。どうやらあの貼り紙は撤去され、住民生活に直結する貼り紙に変えられてしまったらしい。確かにあんなふざけた貼り紙よりはこちらの方が生活において役立つだろう。だが、あの一連の貼り紙が気になり、わざわざ足を運ぶことまでした私にとってはいささか不満であった。貼り紙の左下隅には近所の警察署の名前が書かれていた。わざわざこんな貼り紙をここに貼らなくても良いだろう。そんなものは役所や交番に貼っておけば良いではないか。ひったくりなんてどこでも起きうるではないか。
自分の楽しみを奪われ、落胆した私はふとあることに気が付いた。それは先ほど私が公園のベンチで拾ったあのアイデアの使い道が無くなってしまったことである。そもそも、あの一連の貼り紙をどれだけの人が見ているかは分かりかねるが、あの一連の変化を知らなければ伝わらない面白さもあるだろう。一枚一枚の貼り紙にある面白さだけでなく、その貼り紙の変化も知ってこそ、この貼り紙の真の面白さに気づけるに違いない。
電信柱に貼られた貼り紙は私にとって邪魔なものではあるが、しかし公共の貼り紙を破り捨ててまで私のアイデアを発表するものでもない。だが、せっかく思い付いたこのアイデアを使う最良の場所がこの電信柱だったと考えると歯がゆい思いがして胸に込み上げてくるものがある。
私のアイデアを返せ!、と思わず私は貼り紙に言いたくなった。ひったくりはお前ではないか。私のアイデアの掲示場所を奪い取りやがって。と思ったが相手は人間ではなく紙である。殴るにも罵るにも反応のない相手、そう思うとさらに苛立ちがこみ上げてくる。
どうしてか、ついに私は苛立ちを抑えられなくなり、私はその忌々しい貼り紙に手を伸ばすと勢いよくそれを引き剥がした。そうしてこの貼り紙を千切ってしまおうとしたのだが、この貼り紙が何枚も重なっていることに気が付き私は一枚目を捲ってみると、現れたのは今まで貼られていたあの貼り紙たちだった。
千切らなくて良かったと安堵したとき、背後から肩を叩かれ我に返った。
顔を作って振り向くとそこには一人の青年が立っていた。青年が「何をしているんですか?」と私に言ったので、私が適当に返事を返すと、「そうですか」と青年は言った。私が苦笑いを浮かべると、青年は何事も無かったかのように立ち去って行った。
胸を下ろして私は手に持つ貼り紙に目をやると、貼り紙が一枚だけになっていた。おかしい、私は貼り紙を数枚も持っていたはずだ。それなのに一枚しかない。
何が書かれていた貼り紙か、それも思い出せない。
「やられた! 私のアイデアが!」
青年が過ぎ去った方を見たが、もう青年はいない。急いで私は青年を追いかけ、交差点で左右を見たが青年の姿はもう見えなかった。
まんまとアイデアを盗まれてしまった。
悔しさや虚しさを胸に抑えながら私はあの電信柱の横を過ぎ去ろうとした。すると電信柱に新たな貼り紙が貼られていた。
―襲来警報! 悪いアイデアから身を守ろう!―
何だ、この貼り紙は。馬鹿じゃないのか。ちっとも面白くない、これなら私の方がもっと面白い標語を作れる。作成者はもう少し頭を捻ったらどうだろうか。そう思い私は考えてみるが、どうも思い付かない。どうしてだ、もっと良いアイデアがあったはずだ。
思い付けないことにイライラし始めたことに気が付くと何か考えることが馬鹿馬鹿しく感じてしまい、私は考えることを止めてさっさと家に帰ることにしたのだった。
あれから数日が過ぎてもあの電信柱に貼られた貼り紙が更新されることはなかった。私は当然だと思っている。面白くない、それならば読者からの反応も冷めたものになるのが当然であろう。人に鼻で笑われるようなアイデアは、鼻で笑われるだけの反応しか得られないのである。それも分からずに法を犯してまでつまらないアイデアを披露する奴は恥を知れ。わざわざ近所の壁に落書きするようなことをしてどうする。電信柱は貼り紙を貼ったお前の物ではなく、公共物だ。目立ちたがり屋も身の程を知れ。
さらに一週間が過ぎてもその貼り紙は撤去されることがなかった。いま私がこの道を通る際にすることは冷ややかな目でその貼り紙に視線を送ることである。なるべく悲観的でありながら同情的な視線を送ることで、私は心に少しだけ優越を感じることができる。その行為こそがその貼り紙を少しでも社会に役立たせるのだと思っているのだが、どうして私がそこまで考えているのかは未だに分からない。
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