ふたりだけのクリスマス
もうすぐ瑠夏の家に着く。
握った掌がじっとり汗ばんでいる。鼓動は異様なくらい早くなっていて、もう、自分では制御不能だ。
初めて瑠夏の家に行って、瑠夏の家族に会う。
それだけのことのはずなのに、人生で最大の大事を目の前にしているような気分だった。
隣から、押し殺したような笑い声が聞こえた。
むっとして泰生を睨めつけた。
「いや、今のお前は、まるで結婚を申し込みに行く時の男の顔だなと思って。」
はあっ?
なにを言い出すんだ、親父は。
自分の父親からは、一生聞くことがないような軽口に劉生は絶句した。
「もっと、力を抜け、劉生。今からそんながちがちに固くなっていたら、瑠夏さんの家に行ったら、ひと言も話せなくなるぞ。それどころか、挙動不審なことを、」
「だまれ。」
劉生は、低く唸る声で泰生を制した。
「さっき、クリスマスプレゼントだかなんだと言って、歩み寄ったつもりになっているのかもしれないけど、俺は、まだそんな気持ちにはなっていない。俺がどうしようと、親父には関係ない。」
泰生は、複雑な表情をして劉生を見たが、それ以上はなにも言わなかった。
劉生は、頑なな表情で前を睨むように見ていた。だが、劉生の冷や汗は、いつの間にか引いていた。
「その角を右に。」
劉生のことばに車が静かに右折すると、一軒の家の前に瑠夏が立っていた。
「瑠夏、この寒空にまた無茶をして。」
劉生は、車が止まると同時に飛び出すと、瑠夏の傍に駆け寄った。
「いらっしゃい、劉生。約束の時間ちょうどだね。私は、ほんの少し前に出てきたんだよ。ほら、手もまだ暖かいでしょ。」
瑠夏に手を握られて、少し慌てた。
親父、まだいるんだよな。こんなとこ、見られたくない。
劉生は、わかったから と言うと、瑠夏から手をはなした。
「お父さんに送ってきてもらったの?」
ほころぶ瑠夏の顔に、劉生は、ああ とだけ返事した。
「こんばんは、瑠夏さん。今日は、こいつをよろしく。」
車から降りて、泰生が頭を下げた。
「こちらこそ、せっかくのクリスマスに、劉生君を招待しちゃって、すみません。」
「いや、この4、5年、うちには家族でクリスマスを楽しむ習慣はないんでね。気にしなくていいよ。それじゃ。」
手をあげると、泰生は車に乗り込み発進させた。
泰生の車を見送ると、ふたりは家に中に入った。
「お、おじゃま、します。」
それまで平静に戻っていた劉生の鼓動は、ふたたび駆け足になってきた。
瑠夏が先に立ち、劉生をリビングへと案内した。
リビングはオフホワイトを基調とした壁紙にモフィブラウンで揃えられたソファと家具。明るくて暖かい色調のリビングは、瑠夏の家らしいと思った。部屋の奥のほうにアップライトのピアノが置いてあり、その傍で劉生の背丈くらいのクリスマスツリーのライトが瞬いていた。
「座って、劉生。今、お茶を持ってくるね。」
瑠夏は、劉生をソファに座らせると、入ってきたドアから出ていった。
劉生は、座ってもなかなか落ち着けず、何度も部屋の中を見渡した。
自然にリビングの入り口に目が向く。
もうすぐ瑠夏の家族があそこから入ってくる。落ち着いて挨拶するんだぞ。挨拶の練習、ちゃんとしてきたから、その通りにすればいいんだ。
ぶつぶつと、話すことを反芻すると、少し落ち着いてきた。
10分くらい待って、瑠夏が入ってきた。
劉生は、思わず立ち上がって、直立不動の姿勢を取った。
「なに、劉生。なんでそんなに固くなってるの?おかしいよ。」
瑠夏が、ティーセットを置きながら、くすくす笑った。
それから瑠夏は、ソファーのコーナーで、劉生とカウンセリングポジションになるように腰かけた。
「いや、べつに、固くなんかなってない。」
劉生は、緊張を誤魔化すように少し乱暴に座り直した。
だけど、やっぱり入口が気になり、そわそわとそちらのほうばかり気にしていた。
「劉生、どうかした?入り口ばかり見て。」
「いや、本橋さんたち、まだかなって・・・・」
「本橋さんって、ああ、お母さん?いないよ。」
「は?いない?」
劉生は、気まずそうに頭をかいていた手を止めた。
「いないよ、誰も。10時までは、劉生とふたりだけだもの。」
10時までは・・・俺と、ふたりだけ?
えええっ、マジで?うそだろ?
瑠夏のことばに劉生は、一瞬、フリーズした。
「劉生、お茶、冷めちゃうよ。あのね、このスコーン、私が焼いたの。食べて食べて。」
ふたりだけということに、何の抵抗もないらしい瑠夏が無邪気にスコーンなんか、すすめてくる。
劉生は、ロボットのように、瑠夏に言われたとおりにお茶を飲み、スコーンを口にした。
「どう、おいしい?」
心配そうに聞いてくる瑠夏に、うまい と呟き、食べかけのスコーンの残りを一気に頬張る。
味なんか、しない。
紅茶の熱さも感じなかった。
やたら大きく聞こえる心臓の音がうるさくて、そちらにばかり気を取られそうになる。
「つぎは、これを食べてみて。このオープンサンドも私が作ったんだよ。」
ああ
そうして瑠夏はそんなに平気でいられるんだ。
いや
瑠夏が平気なのは、あたりまえか。
好きの大きさでいったら、俺の気持ちの十分の一でも瑠夏は俺を思ってくれているのか、わからない。
瑠夏に言われたとおりに、ローストビーフの入ったオープンサンドをたいらげ、普段なら絶対口にしない甘いブッシュドノエルを食べた。
「劉生、おいしい?」
瑠夏が優しく微笑む。
「うん、うまい。」
「ほんとにおいしい?さっきから、うん、と、うまい、しか言わないんだけど?」
「うまい」
と、機械仕掛けの人形のように呟く劉生に、瑠夏は小さくため息をついた。
「もう少し、心をこめていってくれたらなっ。」
口をすぼめて拗ねるような瑠夏の口調に、やっと我に返った。
「いや、ほんとにうまいって。俺、普段は甘いものなんか食べないのに、あんまりうまいから、ほら、ケーキも全部たべたよ。」
慌てて弁解する劉生に、瑠夏は、にっこりした。
「劉生が全部たべてくれて、うれしい。お茶、もう一杯、淹れるね。」
「いや、俺が淹れるよ。」
瑠夏にもてなされてばかりでは気が引けると思い、劉生は、ティーポットに手を伸ばした。
ふたりの手が同時に取っ手を触った。
触れ合う手のぬくもりに、瑠夏は顔を赤くして手を引っこめようとした。だが、劉生がそれを許さなかった。
それまで抑えていた気持ちを一気に表に現すように、強く瑠夏の手を握りしめると、そのまま自分のほうへ引き寄せた。
劉生に引き寄せられて、瑠夏は倒れ込むように劉生の胸の中におさまった。
「瑠夏・・・・・」
抱きしめる腕に力が入る。
ニット帽の上から瑠夏の頭に唇を押しあてた。それから、こめかみに、頬に、そして耳へとキスを落として行く。
瑠夏が恋しい。
瑠夏に触れたい。
劉生は、自分の衝動に翻弄されるまま、キスを落とし続けた。
「劉生・・・・・」
瑠夏が喘ぐように声を出した。
その声に、はっとなって、瑠夏を離した。
俺は、今、なにをしてたんだ?
自分の行動が信じられなくて、劉生は、茫然とした。
「劉生・・・?」
瑠夏がそっと顔を覗きこむ。
瑠夏の潤んだ瞳と目があって、劉生は頭の先まで真っ赤になった。
「ごっ、ごめん、瑠夏。俺、瑠夏の気持ちも考えず、その・・・ごめんっ。」
「謝らないで。謝られると、劉生の気持ちを疑ってしまう。」
「俺の気持ちを疑うって、」
「ただの欲望だけなのかって。」
「違うっ、絶対そんなことない。俺は、」
「俺は?」
うっと詰まった。
ちゃんとことばにしようと思うと、かえって声に出せない。
「劉生、俺は、なに・?」
瑠夏が答えを求めている。
俺は、と言って、また詰まったが、大きく深呼吸をして、そして自分の気持ちをことばにした。
「俺は、瑠夏が好きだ。」
「私も」
瑠夏が抱きついてきた。
自分の体に瑠夏のぬくもりを感じて、これは現実だと受け止めた。
俺の片思いじゃない。
さっきとは違って、そっと瑠夏を抱きしめた。
今、俺の中に、瑠夏がいるんだ。
ツリーのライトの柔らかな光の中、ふたりだけのクリスマスのひと時は、静かに流れていた。