出会い
入ってきたのは静香だった。
静香は興生に向かって微笑みかけて、それから窓辺に立っている息子を見た。開くドアに反応して劉生は静香の方を向いていた。劉生の口元のアザを見て、静香の顔がわずかに歪んだ。
「劉生、あなたは、また・・・」
静香のことばに劉生は応えず、また窓の外に顔を向けた。静香もそれ以上話を続けようとはしない。ベッドサイドに置かれたテーブルの上に持ってきた鞄のなかみを取り出していた。
「お義父さん、今日は筑前煮を作ってきたんですよ。」
「あ、ああ、いつもすまないね、静香さん・・・」
興生は、ちらっと劉生を見、それから何事もなかったかのようにテーブルの上に料理の詰まった容器を広げる嫁に戸惑いの表情を向けた。
劉生は、窓の外を眺めながらふたりのやり取りをぼんやりと聞いていた。
それまで諦めのまじった無気力な顔で窓の外を見ていた劉生の目に好奇の光が宿った。
窓の外には、病院の中庭が見えた。その中庭に植えてあるケヤキの木の幹を両手いっぱい広げて女の子が抱きしめていた。
女の子は、中庭の木々を渡り歩いて、どの木も同じように抱きしめた。遠目に見てもその子の表情は楽しそうだった。まるでダンスをしているように木々の間を行き来するその子から、劉生は目が離せなくなっていた。
彼女は、大きなニット帽を目深にかぶり、真冬に着るような長めのダッフルコートを着ていた。コートの裾からみえるズボンがパジャマなようなのでこの病院に入院している子だろう。
あの子はいったい、何をしているだろうか。
ひとつひとつの木をゆっくりと、まるで愛しむように抱きしめている彼女。遠目でその表情がよく見えなかったのだが、劉生には彼女が笑っているように見えた。
木々が彼女の抱擁に応えるかのように葉を揺らし落ち葉を降らせる。いったん抱きしめていた木から離れると、両手を広げて、嬉しそうに落ち葉を全身で受け止めていた。
木が冬の眠りに就く前に、彼女に挨拶している・・・・って、何、ファンタジーなこと考えているんだ、俺?
劉生は、自分らしくない考えにかぶりを振った。
でも・・・・・、俺も
俺もあんなふうに抱きしめられたいな・・・・・あの子に。
ふと自然にそう思った後、かあっと顔が熱くなる。自分の心にわき出た気持ちにうろたえた。
なっ、なに考えてんだ。今日の俺は、変だぞっ。
劉生が平静を取り戻そうと慌てていた時、突然、彼女が駆けだした。時折後ろをふり返りながらこちら側の病棟に向かっていた。駆けてくる彼女の顔は笑っていた。ぬける様に白い肌にいたずらっぽく輝く大きな目は、6階からでもわかった。
劉生は、ふり返る彼女の視線の先を辿った。彼女を追いかけているのは看護師のようだ。
病室を抜け出してきたのか?つかまったら説教されるんだろうな。
劉生の顔が自然にほころぶ。
もっと、彼女を見ていたい。
だが、劉生の願いはむなしく彼女は病棟の中に消えて行った。劉生は、残念な気持ちになる自分に驚いた。ほんの少しの間の出来事なのに、自分の目を捉えて離さなかった彼女の存在がこんなにも気になるなんて。
まだあの子を見ていたい。
劉生はそう思うと居てもたってもいられなくて、興生の病室を飛び出していた。
「劉生、どうした。」
「なんでもない。今日はもう帰る。またな、じいさん。」
興生の声に、ふり向くことなく声だけで答えた。
劉生は、急いで階段を下りると、彼女が入った中庭に面した病院のはき出し口をめざした。大股で足早な劉生をすれ違う人が避ける。避けながら自分に向けられる怯えた視線に、いつもは平気な顔をしても心の中では傷ついていた劉生だが、この時は何も気にならなかった。とにかく早く目的の場所に行きたかった。
劉生は中庭へのはき出し口に着くとあたりを見渡した。目深にかぶったニット帽とダッフルコートだ。絶対に目立つはず。そう思って見回すが、会いたい人の姿は見えない。劉生は諦めず、捜索範囲を広げた。中庭の方も覗いてみた。だが、さっきの光景は幻だったのかもしれないと思えるほど、彼女の痕跡はなかった。
夢中で探しているうちに、待合室のほうまで足をのばしていたらしい。劉生が急きながらあたりを見回し、目深にニット帽をかぶっている他の子に声をかけ、その子に驚愕の表情を向けられているのを待合室の人たちが身を竦め眉をひそめて見ていたのに、劉生は気づかなかった。
誰かが警備員を呼んだ。
彼女がいないのを確認して劉生が探す場所を変えようとした時、後ろから呼び止められた。
「すみませんが、ちょっと来てもらえますか?」
腰の警棒に手をあてながら警備員が言った。
「は?どうして?」
劉生は彼女を探すのを中断されてムッとして声を荒げた。
「他のお客様からあなたの行動がおかしいと苦情がありまして。」
警備員はぎろりと劉生を威嚇しながらそう言った。
「俺の行動がおかしい、だって?俺はここで人を探していただけだぞ。」
「関係のない女の人に声をかけたとか。その人がとても怯えているからと言われたのですが?」
警備員はいっそう威嚇するように劉生との距離を詰めた。
「あれは、人違いしただけだ。ちゃんと謝った。」
劉生は、またかと思った。おそらく他の人間が同じことをやってもここまでの騒動には決してならないだろう。劉生だからこうなるのだ。
劉生は、苛立ちを隠してそのまま立ち去ろうとした。
「いや、このまま病院内をうろつかれては困ります。」
「何だって?俺は、ここに身内の見舞いにきたんだ。それも許されないのかっ。」
行く手を塞がれて無理やり自分を連れて行こうとする警備員に、たまらず劉生は怒鳴った。
「ここでは周りの目があります。言い訳は事務所で聞きますので、一緒に来ていただけますか?」
今度は、警備員と劉生のやり取りを受け付けの奥で見ていた背広を着た50代の男が、わざわざ待合室まで出てきて声をかけてきた。
どうあっても自分を悪者にしたいらしい。
劉生は、病院側の理不尽な扱いに怒りを表に出さないようにするのに苦労した。ほんとうは怒鳴ってもよかったかもしれない。だが、そんなことをすれば入院している興生や静香に迷惑をかけることになる。
劉生は、諦めて背広の男についていこうとした。
「失礼ですが、何かあったのですか?」
見覚えのある声が劉生の後ろから聞こえた。
「これは、石田様。お父上のお見舞いにいらしたのですか?」
背広の男が劉生の後ろの人物を見て、さっきまでの険呑とした顔は何だったのだと言いたくなるほど破顔した。
「ええ、そうです。ところで、息子が何かしたのですか?」
泰生が放った意外なことばに背広の男が青くなった。
「えっ、この方は・・・その、石田様のお子様なのですか?」
「ええ、末の息子ですが。」
「そっ、そうでしたか。いや、たいへん失礼しました。どうやら誤解があったようで・・・。」
背広の男は気まずそうにそう言うと、警備員に目配せをして下がらせた。それからおもむろに劉生のほうを向くと、馬鹿丁寧に話しかけてきた。
「先程は警備の者が失礼しました。お父様と一緒におじい様のお見舞いにいらしていたのですね。」
この変わり身の早さには恐れ入るよ。あの警備員と同じように俺を不審者扱いしたのは誰だ。
背広の男の話に応えることなく、劉生はその場を離れた。
「それでは失礼します。」と泰生が男に声をかけるのを背中で聞きながら、劉生は病院の出入り口に向かった。
「待て、劉生、どこへ行く?」
泰生が呼び止めた。劉生は足を止めると肩越しにふり返って、
「帰る。じいさんの見舞いはもう済ませた。」
と言うと、病院の外に出て行った。泰生は、出て行く劉生に一瞥するとエレベーターホールの方へと向かった。