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OUTSIDER(アウトサイダー)

感謝しかなかった

作者: 君島極
掲載日:2026/10/05

挿絵(By みてみん)

もし今、あの人に会ったら。


俺はやっぱり、最初に「ありがとうございました」と言うと思う。


きっと、多くの人は「なんで?」と首を傾げるだろう。


あの頃の話を聞けば、そう思うのも無理はない。


朝なのか夜なのかも分からなくなるほど働き続けても、仕事の終わりは見えず、何度も心が折れかけた。


逃げ出したいと思った日は、一度や二度じゃない。


思い返せば、間違いなく地獄だった。


……それでも、あの時間が今の俺を作った。


だから、もしもう一度あの人に会えるなら、俺はやっぱり、最初に「ありがとうございました」と伝えると思う。


誤解してほしくない。これは誰かを責めるための話でも、告発でも、復讐でもない。


ただ――俺が、本当に経験した話だ。


そして、あの人と過ごした、ある研究ラボの話でもある。


◇


あの人と出会ったのは、前の会社にいた頃だ。


人数も予算も限られた小さな開発チームで、仕様が変わり、納期が縮むたびに、手探りで仕事を進めていた。


理不尽な要求に振り回されることもあったが、それでも、不思議と仕事は楽しかった。


あの人は厳しく、怒鳴る時も無茶な指示を出す時も、こちらに遠慮などしない。


正直、何度腹を立てたか分からないけれど、仕事に向き合う姿勢だけは、どんな時もぶれない。


その背中から学んだことは多く、今思えば、社会人としての土台はあそこで作ってもらったのだと思う。


だが、技術も人材も揃っていながら業績は伸びず、会社は解散へと向かっていく。


社員たちがそれぞれ別の道を選ぶ中、俺も退職に向けて荷物をまとめていた。


「ああ、そうだ」


あの人が、何でもないことのように声をかけてくる。


「俺、自分で研究ラボを立ち上げる」


思いがけない言葉に、荷物をまとめる手が止まった。


「本当ですか?」


「ああ」


いつもと変わらない短い返事に、迷いは少しも感じられない。


「一緒にやるか?」


この人ともう一度研究ができると思うと胸が高鳴り、その時は、断る理由なんて見つからなかった。


けれど、返事をするより先に、あの人が続ける。


「悪いけど、しばらく給料は出せない」


「え?」


「予算がない」


あの人はコーヒーをひと口飲むと、カップを静かに置いた。


「軌道に乗るまでは無給だ」


その言葉で、さっきまで胸に広がっていた熱が少しずつ冷めていく。


本当は、その場で「お願いします」と答えてしまいたいほど、一緒にやりたかった。


けれど、生活のことを考えれば、夢だけで頷くわけにもいかない。


「……すみません」


ようやくそれだけ伝えると、あの人は笑って言った。


「気にするな。また縁があれば、一緒にやろう」


その言葉を最後に、俺たちは別々の道を歩き始めた。


◇


その後、俺は別の会社へ就職した。


規模も大きく、給料は安定し、待遇にも不満はない。


周りから見れば、順風満帆に映っていたと思う。


毎朝、駅へ向かう途中で一度だけ空を見上げれば、巨大な滅亡時計が静かに浮かび、昨日よりまた一つ減った数字を示している。


最初の頃こそ見上げる人も多かったが、今では誰も気に留めずに通り過ぎる。


世界が終わりへ近づいていても、人はいつも通り朝を迎え、いつも通り一日を生きていく。


俺も、その一人だった。


――あの人と別れて、二年。


仕事にも慣れ、新しい人間関係もできて、このままここでキャリアを積んでいくのだろうと思い始めた頃、一本の電話がかかってきた。


画面に表示されたあの人の名前に、思わず息を呑む。


「久しぶり」


二年前と変わらない声が、電話の向こうから聞こえてくる。


「ラボが軌道に乗った」


静かな口調のまま、あの人は続ける。


「今なら給料も払える」


その言葉に、胸が少しだけ高鳴った。


「それと、大きな仕事が入った」


電話の向こうで小さく息を継ぎ、あの人が口にしたのは、よく知る企業の名前だった。


「澄影化学ホールディングス系列の研究施設だ」


医療から生命科学まで手がける世界有数の巨大企業で、その名前を知らない人間はいない。


俺も、子どもの頃から何度となく耳にしてきた。


「未来は明るい。今度こそ、本当に面白い研究ができる」


その言葉で、二年前に諦めたはずの熱が、胸の奥にもう一度灯る。


あの日、置いてきた夢が、ようやく迎えに来てくれた気がした。


俺は迷うことなく、勤めていた会社へ退職届を提出し、新しい研究ラボの扉を叩く。


その扉の先に、人生で最も苦しく、そして最も忘れられない時間が待っていることを、その時の俺はまだ知らなかった。


◇


研究ラボの初日、空には雲ひとつなく、春の陽射しが街を照らしていた。


改札を抜けると、駅前には通勤する人たちの足音が絶え間なく流れている。


新しい職場でこれから始まる研究への期待を胸に、地図を片手に歩き始めた。


けれど、十分歩いて住宅街を抜けても、目的地はなかなか見えてこない。


(こんな場所に研究ラボがあるのか)


ようやくたどり着いたのは古い雑居ビルで、真新しい看板だけが、この場所に未来があると主張していた。


少し早めに着いたので、まだ誰も来ていないだろうと思いながらドアを開ける。


「おはようございます」


「おう。早いな」


聞き慣れた声がすぐに返り、あの人はやっぱり先に来ているのかと、相変わらずの姿に少し安心した。


部屋には長机と折りたたみ椅子が並び、その脇にはまだ段ボールが積まれている。


床に残った養生テープからも、引っ越したばかりの慌ただしさが伝わってくるようだ。


「まだ全然片付いてないですね」


「時間がなかった」


あの人は気にもしていない様子で、俺もベンチャーなんてこんなものだろうと、それ以上は深く考えなかった。


荷物を置いて改めて周囲を見回すうち、ふと、足りないものに気づく。


「あれ……」


机も椅子も揃っているのに、仕事に一番必要なものが見当たらない。


「パソコンって……」


聞き終える前に、あの人が口を開く。


「ああ、それな」


コーヒーをひと口飲み、カップを机へ置くと、何でもないことのように続けた。


「とりあえず、自分で買ってくれ」


「……え?」


思わず聞き返した俺に、あの人は短く答える。


「予算がない」


「いや、でも……仕事ですよ?」


「そうだ」


「仕事で使うパソコンですよ?」


「そうだな」


「……会社で買うんじゃ」


「買えない」


言い終えるより早く、答えが返ってくる。


「予算がない」


二回目だった。


数秒だけ部屋が静かになり、俺は天井を見上げる。


(便利な言葉だ)


そう思うと、なんだか笑えてきた。


「……そういうことですか」


「そういうこと」


肩をすくめるあの人を見ても、不思議と嫌な気分にはならず、怒る気も起きない。


(マジかよ)


結局、苦笑をひとつ漏らして、近くの量販店へ向かった。


予算と性能を何度も見比べながら、できるだけ安いノートパソコンを探す。


本当はもっと性能が欲しくて、研究用ならメモリも積みたいし、CPUだって妥協したくない。


けれど、財布の中身を考えれば、選べるものは限られていた。


結局、必要最低限の一台を選び、箱を抱えてラボへ戻る。


「買ってきました」


「悪いな」


短い言葉でも、俺にはそれだけで十分だと思えた。


新品の箱を開け、保護フィルムを剥がして電源を入れると、起動音が部屋に響く。


今日から、この一台が相棒になる。


――大変なのは、ここまでだろう。


買ってきたばかりのパソコンを前に、この時の俺は、まだそんなふうに思っていた。


◇


研究が始まって一週間が経ち、ラボもようやく少しずつ形になってきた。


試験、設計、資料作成に、企業との打ち合わせまで、やることはいくらでもあって、毎日が慌ただしく過ぎていく。


そんな中、研究計画書に目を通していて、協力企業の一覧でふと手が止まった。


澄影化学ホールディングスを筆頭に、見覚えのある関連企業の名前がずらりと並んでいる。


「すごいな」


素直に感心しながら、何気なく予算表へ目を移した。


数字を見直し、もう一度電卓を叩いてみても、出てくる金額は同じだ。


「……あれ? おかしい」


この研究規模にしては、現場へ降りてくる金額が少なすぎる。


計算ミスではないかと資料を確かめ直すが、やはり、この金額で足りるとは思えない。


(違う……)


俺は席を立ってあの人のところへ行き、資料を差し出した。


「すみません、この予算なんですが、少し足りなくありませんか?」


あの人は一度だけ資料へ目を通すと、何事もないように言う。


「現場はこれでやれ」


それ以上の説明もないまま、俺は資料を閉じた。


「……分かりました」


席へ戻って椅子に腰を下ろし、もう一度予算表へ目を落とす。


数字はさっきと同じで、計算も合っている。


出ているはずの金と、ここへ来ている金は、たぶん同じじゃない。


けれど、なぜそうなるのかを考えることも、怒りを覚えることもなく、俺はその数字を眺めていた。


(ああ……そういう場所なんだ)


その時は、妙に納得してしまった。


◇


違和感を覚えた翌朝、出社すると、上司が珍しくスーツを着ていた。


「今日、外出する」


「はい?」


「準備しろ」


行き先も目的も聞かされないまま車へ乗り込み、上司と出かけることになった。


市街地を抜け、高速道路をしばらく走ると、やがて巨大な研究施設が見えてくる。


白い外壁と何重ものゲートに思わず息を呑み、その向こうの建物へ目を向けると、壁面には大きな企業ロゴが掲げられていた。


――澄影化学ホールディングス。


その文字を見た途端、自然と背筋が伸びる。


「……ここですか」


「そうだ」


上司の短い返事を聞き、俺も受付へ向かった。


手続きを済ませて入館証を受け取ると、カウンターの横に表示された本日の来訪者一覧が目に入る。


共同研究企業や大学、素材メーカー――名の知れた組織が並ぶ中に、一行だけ見慣れない名前が混じっていた。


《インサイダー協会・研究局》


(協会も研究なんてやるのか)


それ以上は気に留めることもなく、俺は廊下へ進む。


磨き上げられた床を研究員たちが足早に行き交い、無駄話をする声はひとつも聞こえない。


その様子を見ていると、ここが日本を代表する研究施設の一つなのだと、嫌でも実感させられた。


案内された大きな会議室には、長いテーブルと壁一面の大型モニターがあり、スーツ姿の人たちがすでに席へ着いている。


肩書きに目をやると、部長、執行役員、研究統括と、聞いたことのある役職が並んでいた。


(……なんで俺がここに)


自分だけが場違いに思えて席に着くこともできず、立ったまま周囲を見回していると、上司が口を開く。


「紹介します」


部屋中の視線が、一斉にこちらへ向いた。


「今日から、このプロジェクトでラボ側の責任者を務める佐藤です」


息が止まった。


(……え?)


聞き間違いかと周囲を見回すが、誰も驚く様子はなく、資料をめくる音だけが静かに続いている。


「よろしくお願いします」


重役たちは当たり前のように頷き、そのまま名刺交換が始まった。


頭が追いつかないまま、俺は差し出される名刺を受け取っていく。


(いやいやいや……)


(責任者? 俺が?)


昨日まで小さなラボで予算を気にしていた俺が、今日から、この巨大プロジェクトでラボ側の責任者を務めるという。


現実とは思えなかったが、説明も相談もないまま決まった役割を、その場で拒めるような空気ではない。


気づけば会議が始まり、配られた資料に目を落としている間にも、スケジュールが次々と決まっていく。


俺は、その流れに乗るしかなかった。


◇


朝九時に研究ラボへ出社する。


資料をまとめ、解析を回し、実験結果を整理しているうちに夜になり、気づけば時計の日付だけが変わっている。


それでも帰れない。


仕事を一つ終えてもすぐに次が始まり、会議も終わったそばから次が待っている。


窓の外が少し明るくなったことに気づいて時計を見ると、午前五時を回っていた。


「今日はここまでだ」


その一言でようやく一日が終わり、数時間後には、また朝九時を迎える。


最初は驚いたが、人間は慣れてしまう。


そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていった。


◇


久しぶりに休める日曜日、目覚ましを気にせず布団へ潜り込み、ようやく眠れると思っていた。


ところが昼過ぎ、上司から電話がかかってくる。


「悪い、ちょっと来れるか」


「今日ですか?」


「うん」


「分かりました」


電話を切って着替えを済ませ、研究ラボへ向かう。


途中のコンビニに立ち寄り、昼食を選びながら、何気なく店内のテレビへ目を向けた。


『昨夜発生した研究施設襲撃事件について、テロ組織アウトサイダーによる犯行声明が確認されました』


『インサイダー協会は現在も警戒を強めています』


「物騒だな」


レジに並んでいた男性が小さく呟き、俺ももう一度だけ画面へ目をやる。


(最近、よくニュースになるな)


それ以上気にすることもなく、弁当と缶コーヒーを買って、そのまま休日の研究ラボへ向かった。


そんな日が何度も続き、例外のはずの休日出勤が当たり前になっていく。


「休みだから断る」という空気はなく、やがて誰も「完全週休二日」なんて言葉を口にしなくなっていた。


それでも、不思議と仕事は嫌いじゃなかった。


研究は面白く、規模も大きい。関わる企業は増え続け、新しい案件や課題が毎週のように積み重なっていく。


ただ、人も予算も、何より時間が足りず、現場は限界を迎えていた。


ある日、どうしても解決できない問題にぶつかった。


解析結果が噛み合わず、何度計算しても答えが違う。


俺は資料を持って上司の席へ向かい、声をかけた。


「少し相談が……」


「人に聞くな」


言い終える前に遮られ、俺は口をつぐむ。


上司は椅子に深く座ったまま、資料を指で軽く叩いた。


「考えろ。答えは現場にある」


声は静かで、迷いは少しも感じられない。上司は資料から目を離さず、そのまま続ける。


「逃げるな。どうしてもの時は、俺が出る」


その一言だけで十分だった。


俺は資料を抱え直して答える。


「……分かりました」


席へ戻ると、もう一度資料を見直し、コードを書き直し、仕様を読み返す。


そうして翌朝、ようやく答えが見つかった。


「できました」


資料を見た上司は、小さく頷く。


「そうだ。それでいい」


褒められたわけでもないのに、たったそれだけの言葉が妙に嬉しかった。


(この人についていこう)


その頃の俺は、本気でそう思っていた。


◇


大きな研究がひと区切りついた夜は、ラボの空気も珍しく、少しだけ軽かった。


「今日は終わりだ。飯に行くぞ」


上司の言葉に、研究員たちから小さな歓声が上がる。


仕事以外で全員が集まるのは久しぶりで、研究室を出てからも、他愛もない話を交わしながら歩いていく。


夜風が火照った頬を撫で、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。


案内されたのは、学生でも入れるような、ごく普通の大衆食堂だった。


席に着くと、次々と料理が運ばれてくる。


……止まらない。


一皿置かれたそばから次の料理が並び、テーブルの上はあっという間に皿で埋まっていった。


「今日は根性つけるぞ。全部食え」


上司は笑って言った。


誰も断らない。


断れないのが、このラボでは当たり前になっていた。


「いただきます」


正直、料理は美味しく、最初は俺もみんなと笑いながら箸を進めていた。


でも――


三十分、一時間と過ぎ、二時間経っても食事は終わらない。


「ほら、まだあるぞ」


新しい皿が運ばれてきても、もう誰も笑わない。


会話も減って食べる音だけが続く中、向かいに座っていた一人の手が止まった。


箸を持ったまま動かず、顔色は悪く、汗の量も明らかにおかしい。


「大丈夫か?」


返事はなく、焦点の合わない目だけが宙を見ている。


次の瞬間、その身体がぐらりと傾いた。


「お、おい!」


椅子が倒れ、食器が床へ散らばる。


駆け寄った同僚が肩を支えたが、その身体は力なく崩れ落ちた。


白目をむき、口元だけがかすかに震えている。


「救急車! 早く!」


誰かが携帯電話を取り出し、震える指で番号を押した。


店員も慌てて駆け寄り、店内の空気が一気に張り詰める。


「呼吸あるか!?」


「ある……でも反応がない!」


俺は、その人の顔から目を離せなかった。


(……まずい)


冗談では済まない。命の危険があることは、その場にいた全員が悟っていた。


遠くからサイレンの音が近づき、赤色灯が店の窓を染めると、救急隊員たちが慌ただしく駆け込んできた。


「傷病者はこちらです!」


声が飛び交う中、倒れたその人は担架へ乗せられて運び出され、俺たちは道を開けることしかできなかった。


救急車が出発すると、店内には重たい沈黙だけが残った。


「……さあ、帰るか」


上司が短く言い、俺たちは誰も返事をしないまま店を出た。


店先で上司が振り返る。


「一人五千円な」


会社の行事だから会社が払うものだと思っていたが、言われるまま財布を取り出す。


誰も何も言わず、一人ずつ現金を上司へ手渡していく。


俺も黙って五千円を渡した。


全員から集金を終えると、上司は皆を見回した。


「命に別状がある」


誰も言葉を返さなかった。


(……そりゃ、命に関わるよな。あれだけ無理やり食べさせられれば)


「……次からはやめよう」


それだけだった。


◇


仕事も研究も何も変わらず続いていくのに、俺の中では一つだけ、何かが変わっていた。


(ここは……もう、安全な場所じゃない)


そんな思いが胸の奥に残ったまま、しばらく経ったある日の昼、全員が研究室へ集められた。


「来月、社員旅行やるぞ」


上司がそう言うと、何人かが声を上げた。


「おぉ!」


久しぶりの明るい話題だった。


研究ばかりの毎日だけに、たまには気分転換も悪くないと思っていると、一人が手を挙げる。


「平日ですよね?」


上司は頷く。


「ああ」


「仕事は……?」


「もちろんある」


上司は少し笑って続ける。


「でも大丈夫だ」


その一言に、部屋の空気が少し緩む。


「旅行は休日を前借りしたことにする」


一瞬、意味が飲み込めなかった。


「仕事だけど、出勤じゃない」


(便利な理屈だ)


誰かが小さく頷き、上司はそのまま話を続けた。


「だから休日は減る。でも問題ない」


部屋は静かなままで、質問も反対も出ない。俺も口を開かず、頭の中で話を整理する。


(……そういう考え方なのか)


業務扱いではあっても、休日を前借りしたことになるから、その分だけ休みは減るという。


理屈は分かっても、納得はできなかった。


ただ、このラボでいう「休日」「任意」「業務」は、外とは少し意味が違っていた。


◇


旅行は予定どおり行われ、笑い声の上がる中、酒を飲みながら仕事の話に花を咲かせる人もいた。


楽しかった。


心のどこかには小さな違和感が残っていたが、それでも、ここを離れようとは思わなかった。


仕事は回り、研究も前へ進んでいるし、上司もいる。


ここまで積み上げてきたものを、そう簡単に捨てることなんて考えられず、俺はまた次の日も研究室へ向かった。


◇


しばらくして海外から参加したのは、業界でも名の知られた優秀な研究者だった。


技術力が高い上に仕事も速く、議論も鋭い。


「すごい人が来たな」


誰もがそう思った。


日本語こそ流暢ではなかったが、仕事に支障はなく、むしろこちらが教えられることの方が多かった。


◇


数日後の朝、その人は出社してこなかった。


「寝坊ですかね」


「体調でも崩したかな」


そんな話をしながら仕事を始めたが、昼休みになると、誰かがスマートフォンを見て吹き出した。


「見てくださいよ」


画面を覗くと、その人のSNSに、真っ青な空の下で砂浜に寝転んでいる写真が一枚載っていた。


添えられていた言葉は、たった一行。


《I'm OFF.》


その人は翌日も、その翌日も姿を見せず、そのまま退職した。


(たぶん、この人が一番正常だった)


研究員たちは苦笑を浮かべながら、口々に言う。


「海外の人は決断早いな」


「すげぇ終わり方」


「日本人じゃなかなかできないよ」


軽い冗談のように誰かが笑う中、上司だけは笑わず、スマートフォンの画面を見つめていた。


表情を少しも変えず、何も言わないまま端末を伏せる。


その沈黙だけが、なぜかずっと頭に残った。


季節が変わって四月になると、研究ラボにも新卒社員が入ってきた。


真面目でよく働く子で、分からないことがあれば素直に聞き、遅くまで残って仕事をしていた。


ところが数か月後、ある日を境に、その子は突然姿を見せなくなった。


退職の挨拶も送別会もなく、それきりだった。


「どうしたんですか?」


誰かが尋ねると、小さな声で返事があった。


「……労基に行ったらしい」


それ以上、誰も話さなかった。


その数日後、協力機関が研究ラボの監査に入った。


形式上は業務確認とされていたが、誰が見ても、それだけが目的とは思えなかった。


勤務時間や給与、勤怠に関する書類が一つずつ確認されるにつれ、研究員たちの間にも落ち着かない空気が広がっていく。


そんな中でも、上司だけは普段と変わらない。


「気にするな」


笑ってそう言い、短く付け加えた。


「形式的なやつだ」


説明は、それだけで終わった。


月末、振り込まれた給与を画面で確認した瞬間、思わず手が止まった。


「……多い」


見間違いではない。


その日の夕方、上司から声がかかった。


「全員、ちょっと集まってくれ」


研究員たちが会議スペースへ集まると、上司は困ったように笑いながら机の上へ給与明細を置いた。


「悪い! 間違って、多く振り込んだ」


部屋がざわつく中、上司は続ける。


「だから返してくれ」


誰かが手を挙げて尋ねた。


「銀行振込でですか?」


「いや」


首を振った上司は、少しだけ間を置いて続けた。


「後日、一人ずつ回収する。記録が残ると困る」


部屋が静まり返った。


◇


数日後、俺の番が回ってきた。


応接スペースへ入ると、机の上には封筒が置かれている。


財布から現金を取り出して封筒へ入れ、上司へ差し出すと、何も言わずにそれを静かに引き寄せた。


部屋を出た俺は、蛍光灯だけが静かに光る、人気のない廊下を歩いていた。


(違う)


頭の中で何かが小さく噛み合い、その瞬間、ようやく理解した。


(これは修正じゃない。隠蔽だ)


それから、勤務記録も残業時間も、数字だけはきれいになっていった。


ある日、上司が研究室へ入ってきて、全員に声をかける。


「みんな、ちょっと集まってくれ」


俺たちが席を立つと、上司は何事もないように一枚の紙を机へ置き、指先で軽く叩いた。


「今日からタイムカードは統一する」


「出勤は朝十時。退勤は十八時」


「これで押してくれ」


誰も口を開かないまま部屋が静まり、上司は続けた。


「協力してくれ。その方が都合がいい」


それ以上の説明はなく、俺はタイムカードへ目を落とす。


(仕事も、ずいぶん短くなった)


実際の出勤時間とも退勤時間ともまるで違っていたが、誰も異を唱えず、俺も何も言えないままでいた。


次の日から、タイムカードには毎日「朝十時」と「夕方六時」が並び、それがいつもの風景になっていった。


その頃になると、上司は研究室へあまり姿を見せなくなっていた。


「海外へ行ってるらしい」


そんな話を、どこかで聞いた気がする。


仕事ではなく、家族旅行だったとも聞いたが、俺はそれ以上聞こうとは思わなかった。


◇


少なくとも成果だけを見れば、研究は順調に進んでいた。


評価は上がり、協力企業も増え、扱う案件も大きくなっていく。


気づけば自分の名前を知る人まで増え、「佐藤主任」と呼ばれることにも、いつの間にか慣れていた。


完成した研究成果が別の部署へ渡されても、最初は気にも留めなかった。共同研究なら、珍しいことではない。


ところが数日後、同じ資料が違う目的で使われていることを知る。


「……これ、うちの成果ですよね?」


担当者は「ああ」と頷いた。


「用途が違いませんか?」


「上からの指示だから」


返ってきた説明はそれだけで、俺もそれ以上は聞かなかった。


聞いても意味はないと、そう自分に言い聞かせた。


それからというもの、仕事は会社の中だけでは終わらなくなった。


休日も夜も、食事中でさえ携帯が鳴り、メールが届く。


「悪い。ちょっと来て」


「今日、空いてる?」


仕事と私生活の境界は、そうして少しずつ曖昧になっていった。


それでも、ここまで積み上げてきたものを途中で投げ出したくなくて、俺はそのたびに応じていた。


◇


ある休日、また上司から電話がかかってきた。


「今日、来られるか」


予定表を見ると、今日はどうしても外せない用事が入っていた。


初めて断ることを考えているうちに、電話の向こうで短い沈黙が流れる。


「……すみません。今日は、行けません」


今まで聞いたことのない沈黙が続き、やがて低い声が返ってくる。


「そうか」


それだけだった。


◇


翌日、研究室の空気は変わっていた。


言葉も視線も少なく、俺も何も話さずに過ごすうちに、ふと気づいた。


昔なら、こんな時、あの人は必ず言っていた。


「どうしてもの時は俺が出る」


その言葉が、もうどこにもなかった。


その後も空気は変わらないまま、仕事は続き、必要なやり取りもしていた。


変わっていったのは、俺の居場所だけだった。


ある日、上司に呼ばれる。


「……このまま続けるのは、お互い難しいと思う」


はっきり「辞めろ」とは言われなかったが、実質的な最後通告なのだと分かった。


俺は研究ラボを辞めた。


特別な送別会も花束もなく、最後の日もいつもと変わらない。


机を片付けて私物を箱へ詰め、最後に研究室を一度だけ見渡した。


長くて苦しい日々だったが、それでも後悔はなかった。


「お世話になりました」


それだけ言って扉を閉める。


振り返らなかった。


◇


新しい職場で働き始めてしばらく経っても、ラボのメンバーで作ったグループチャットは、そのまま残っていた。


名前は「抜け忍部屋」で、誰が付けたのかはもう覚えていない。


メンバーのほとんどは退職していたが、一人だけ今もラボに残っていて、ときどき今の様子を知らせてくれる。


とはいえ、やり取りの大半は、転職や結婚、子どもが生まれた話といった他愛もない近況報告だった。


ある日、ラボに残っている田中が書き込んだ。


【田中】:まだ続いてるよ


【佐藤】:そうなんだ


【田中】:最近、かなり大きな計画へ合流したらしい


【佐藤】:へぇ。うまくいってるんだな


少しして、また通知が鳴る。


【田中】:なんか、月とか、観測とかそんな名前が付いてる計画らしい


【田中】:それに、お前らが作ってた『細胞融合システム《セレーネ》』も、そのまま使われてるって聞いた


『細胞融合システム《セレーネ》』。


何度も仕様を書き直し、夜明けまで議論を重ねて作り上げたシステムの名前を見て、俺は少しだけ笑った。


【佐藤】:相変わらず、研究者は名前を付けるのが好きだな


そう打ち込むと、田中からまた返信が届いた。


【田中】:そういや、お前が辞めたあと、契約を切られそうになったことが一回あったんだ


【佐藤】:え? マジ?


思わず画面を見返す。


【田中】:その時、お前が外で会社の悪い噂を流したって話になってた


しばらく画面を見つめたまま動けなかった。


そんなことは、一度もしていない。


【佐藤】:……そうだったんだ


話題はそこで終わり、俺もそれ以上は聞かなかった。


興味はあっても、もう俺の仕事ではない。


昔、一緒に取り組んだ研究も、設計したシステムも、書き続けたプログラムも、今もどこかで動き続けている。


それでいいと思えた。


チャットを閉じて新しい仕事へ戻り、ふと窓の外を見る。


滅亡時計は、あの日と何も変わらず、今日も静かに空へ浮かんでいた。


もし今、あの人に会ったら。


俺はやっぱり、最初に「ありがとうございました」と言うと思う。


あのとき任されたのは、本来の俺の実力では決して触れることのできない研究だった。


逃げ出したいと思った日は、一度や二度じゃない。


結局、あそこは地獄だった。


誰だって、自分から地獄へ飛び込もうとは思わないし、俺もそうだった。


でも、あの地獄を経験したからこそ、今の俺がいる。


だから今も、感謝しかない。


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