感謝しかなかった
もし今、あの人に会ったら。
俺はやっぱり、最初に「ありがとうございました」と言うと思う。
きっと、多くの人は「なんで?」と首を傾げるだろう。
あの頃の話を聞けば、そう思うのも無理はない。
朝なのか夜なのかも分からなくなるほど働き続けても、仕事の終わりは見えず、何度も心が折れかけた。
逃げ出したいと思った日は、一度や二度じゃない。
思い返せば、間違いなく地獄だった。
……それでも、あの時間が今の俺を作った。
だから、もしもう一度あの人に会えるなら、俺はやっぱり、最初に「ありがとうございました」と伝えると思う。
誤解してほしくない。これは誰かを責めるための話でも、告発でも、復讐でもない。
ただ――俺が、本当に経験した話だ。
そして、あの人と過ごした、ある研究ラボの話でもある。
◇
あの人と出会ったのは、前の会社にいた頃だ。
人数も予算も限られた小さな開発チームで、仕様が変わり、納期が縮むたびに、手探りで仕事を進めていた。
理不尽な要求に振り回されることもあったが、それでも、不思議と仕事は楽しかった。
あの人は厳しく、怒鳴る時も無茶な指示を出す時も、こちらに遠慮などしない。
正直、何度腹を立てたか分からないけれど、仕事に向き合う姿勢だけは、どんな時もぶれない。
その背中から学んだことは多く、今思えば、社会人としての土台はあそこで作ってもらったのだと思う。
だが、技術も人材も揃っていながら業績は伸びず、会社は解散へと向かっていく。
社員たちがそれぞれ別の道を選ぶ中、俺も退職に向けて荷物をまとめていた。
「ああ、そうだ」
あの人が、何でもないことのように声をかけてくる。
「俺、自分で研究ラボを立ち上げる」
思いがけない言葉に、荷物をまとめる手が止まった。
「本当ですか?」
「ああ」
いつもと変わらない短い返事に、迷いは少しも感じられない。
「一緒にやるか?」
この人ともう一度研究ができると思うと胸が高鳴り、その時は、断る理由なんて見つからなかった。
けれど、返事をするより先に、あの人が続ける。
「悪いけど、しばらく給料は出せない」
「え?」
「予算がない」
あの人はコーヒーをひと口飲むと、カップを静かに置いた。
「軌道に乗るまでは無給だ」
その言葉で、さっきまで胸に広がっていた熱が少しずつ冷めていく。
本当は、その場で「お願いします」と答えてしまいたいほど、一緒にやりたかった。
けれど、生活のことを考えれば、夢だけで頷くわけにもいかない。
「……すみません」
ようやくそれだけ伝えると、あの人は笑って言った。
「気にするな。また縁があれば、一緒にやろう」
その言葉を最後に、俺たちは別々の道を歩き始めた。
◇
その後、俺は別の会社へ就職した。
規模も大きく、給料は安定し、待遇にも不満はない。
周りから見れば、順風満帆に映っていたと思う。
毎朝、駅へ向かう途中で一度だけ空を見上げれば、巨大な滅亡時計が静かに浮かび、昨日よりまた一つ減った数字を示している。
最初の頃こそ見上げる人も多かったが、今では誰も気に留めずに通り過ぎる。
世界が終わりへ近づいていても、人はいつも通り朝を迎え、いつも通り一日を生きていく。
俺も、その一人だった。
――あの人と別れて、二年。
仕事にも慣れ、新しい人間関係もできて、このままここでキャリアを積んでいくのだろうと思い始めた頃、一本の電話がかかってきた。
画面に表示されたあの人の名前に、思わず息を呑む。
「久しぶり」
二年前と変わらない声が、電話の向こうから聞こえてくる。
「ラボが軌道に乗った」
静かな口調のまま、あの人は続ける。
「今なら給料も払える」
その言葉に、胸が少しだけ高鳴った。
「それと、大きな仕事が入った」
電話の向こうで小さく息を継ぎ、あの人が口にしたのは、よく知る企業の名前だった。
「澄影化学ホールディングス系列の研究施設だ」
医療から生命科学まで手がける世界有数の巨大企業で、その名前を知らない人間はいない。
俺も、子どもの頃から何度となく耳にしてきた。
「未来は明るい。今度こそ、本当に面白い研究ができる」
その言葉で、二年前に諦めたはずの熱が、胸の奥にもう一度灯る。
あの日、置いてきた夢が、ようやく迎えに来てくれた気がした。
俺は迷うことなく、勤めていた会社へ退職届を提出し、新しい研究ラボの扉を叩く。
その扉の先に、人生で最も苦しく、そして最も忘れられない時間が待っていることを、その時の俺はまだ知らなかった。
◇
研究ラボの初日、空には雲ひとつなく、春の陽射しが街を照らしていた。
改札を抜けると、駅前には通勤する人たちの足音が絶え間なく流れている。
新しい職場でこれから始まる研究への期待を胸に、地図を片手に歩き始めた。
けれど、十分歩いて住宅街を抜けても、目的地はなかなか見えてこない。
(こんな場所に研究ラボがあるのか)
ようやくたどり着いたのは古い雑居ビルで、真新しい看板だけが、この場所に未来があると主張していた。
少し早めに着いたので、まだ誰も来ていないだろうと思いながらドアを開ける。
「おはようございます」
「おう。早いな」
聞き慣れた声がすぐに返り、あの人はやっぱり先に来ているのかと、相変わらずの姿に少し安心した。
部屋には長机と折りたたみ椅子が並び、その脇にはまだ段ボールが積まれている。
床に残った養生テープからも、引っ越したばかりの慌ただしさが伝わってくるようだ。
「まだ全然片付いてないですね」
「時間がなかった」
あの人は気にもしていない様子で、俺もベンチャーなんてこんなものだろうと、それ以上は深く考えなかった。
荷物を置いて改めて周囲を見回すうち、ふと、足りないものに気づく。
「あれ……」
机も椅子も揃っているのに、仕事に一番必要なものが見当たらない。
「パソコンって……」
聞き終える前に、あの人が口を開く。
「ああ、それな」
コーヒーをひと口飲み、カップを机へ置くと、何でもないことのように続けた。
「とりあえず、自分で買ってくれ」
「……え?」
思わず聞き返した俺に、あの人は短く答える。
「予算がない」
「いや、でも……仕事ですよ?」
「そうだ」
「仕事で使うパソコンですよ?」
「そうだな」
「……会社で買うんじゃ」
「買えない」
言い終えるより早く、答えが返ってくる。
「予算がない」
二回目だった。
数秒だけ部屋が静かになり、俺は天井を見上げる。
(便利な言葉だ)
そう思うと、なんだか笑えてきた。
「……そういうことですか」
「そういうこと」
肩をすくめるあの人を見ても、不思議と嫌な気分にはならず、怒る気も起きない。
(マジかよ)
結局、苦笑をひとつ漏らして、近くの量販店へ向かった。
予算と性能を何度も見比べながら、できるだけ安いノートパソコンを探す。
本当はもっと性能が欲しくて、研究用ならメモリも積みたいし、CPUだって妥協したくない。
けれど、財布の中身を考えれば、選べるものは限られていた。
結局、必要最低限の一台を選び、箱を抱えてラボへ戻る。
「買ってきました」
「悪いな」
短い言葉でも、俺にはそれだけで十分だと思えた。
新品の箱を開け、保護フィルムを剥がして電源を入れると、起動音が部屋に響く。
今日から、この一台が相棒になる。
――大変なのは、ここまでだろう。
買ってきたばかりのパソコンを前に、この時の俺は、まだそんなふうに思っていた。
◇
研究が始まって一週間が経ち、ラボもようやく少しずつ形になってきた。
試験、設計、資料作成に、企業との打ち合わせまで、やることはいくらでもあって、毎日が慌ただしく過ぎていく。
そんな中、研究計画書に目を通していて、協力企業の一覧でふと手が止まった。
澄影化学ホールディングスを筆頭に、見覚えのある関連企業の名前がずらりと並んでいる。
「すごいな」
素直に感心しながら、何気なく予算表へ目を移した。
数字を見直し、もう一度電卓を叩いてみても、出てくる金額は同じだ。
「……あれ? おかしい」
この研究規模にしては、現場へ降りてくる金額が少なすぎる。
計算ミスではないかと資料を確かめ直すが、やはり、この金額で足りるとは思えない。
(違う……)
俺は席を立ってあの人のところへ行き、資料を差し出した。
「すみません、この予算なんですが、少し足りなくありませんか?」
あの人は一度だけ資料へ目を通すと、何事もないように言う。
「現場はこれでやれ」
それ以上の説明もないまま、俺は資料を閉じた。
「……分かりました」
席へ戻って椅子に腰を下ろし、もう一度予算表へ目を落とす。
数字はさっきと同じで、計算も合っている。
出ているはずの金と、ここへ来ている金は、たぶん同じじゃない。
けれど、なぜそうなるのかを考えることも、怒りを覚えることもなく、俺はその数字を眺めていた。
(ああ……そういう場所なんだ)
その時は、妙に納得してしまった。
◇
違和感を覚えた翌朝、出社すると、上司が珍しくスーツを着ていた。
「今日、外出する」
「はい?」
「準備しろ」
行き先も目的も聞かされないまま車へ乗り込み、上司と出かけることになった。
市街地を抜け、高速道路をしばらく走ると、やがて巨大な研究施設が見えてくる。
白い外壁と何重ものゲートに思わず息を呑み、その向こうの建物へ目を向けると、壁面には大きな企業ロゴが掲げられていた。
――澄影化学ホールディングス。
その文字を見た途端、自然と背筋が伸びる。
「……ここですか」
「そうだ」
上司の短い返事を聞き、俺も受付へ向かった。
手続きを済ませて入館証を受け取ると、カウンターの横に表示された本日の来訪者一覧が目に入る。
共同研究企業や大学、素材メーカー――名の知れた組織が並ぶ中に、一行だけ見慣れない名前が混じっていた。
《インサイダー協会・研究局》
(協会も研究なんてやるのか)
それ以上は気に留めることもなく、俺は廊下へ進む。
磨き上げられた床を研究員たちが足早に行き交い、無駄話をする声はひとつも聞こえない。
その様子を見ていると、ここが日本を代表する研究施設の一つなのだと、嫌でも実感させられた。
案内された大きな会議室には、長いテーブルと壁一面の大型モニターがあり、スーツ姿の人たちがすでに席へ着いている。
肩書きに目をやると、部長、執行役員、研究統括と、聞いたことのある役職が並んでいた。
(……なんで俺がここに)
自分だけが場違いに思えて席に着くこともできず、立ったまま周囲を見回していると、上司が口を開く。
「紹介します」
部屋中の視線が、一斉にこちらへ向いた。
「今日から、このプロジェクトでラボ側の責任者を務める佐藤です」
息が止まった。
(……え?)
聞き間違いかと周囲を見回すが、誰も驚く様子はなく、資料をめくる音だけが静かに続いている。
「よろしくお願いします」
重役たちは当たり前のように頷き、そのまま名刺交換が始まった。
頭が追いつかないまま、俺は差し出される名刺を受け取っていく。
(いやいやいや……)
(責任者? 俺が?)
昨日まで小さなラボで予算を気にしていた俺が、今日から、この巨大プロジェクトでラボ側の責任者を務めるという。
現実とは思えなかったが、説明も相談もないまま決まった役割を、その場で拒めるような空気ではない。
気づけば会議が始まり、配られた資料に目を落としている間にも、スケジュールが次々と決まっていく。
俺は、その流れに乗るしかなかった。
◇
朝九時に研究ラボへ出社する。
資料をまとめ、解析を回し、実験結果を整理しているうちに夜になり、気づけば時計の日付だけが変わっている。
それでも帰れない。
仕事を一つ終えてもすぐに次が始まり、会議も終わったそばから次が待っている。
窓の外が少し明るくなったことに気づいて時計を見ると、午前五時を回っていた。
「今日はここまでだ」
その一言でようやく一日が終わり、数時間後には、また朝九時を迎える。
最初は驚いたが、人間は慣れてしまう。
そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていった。
◇
久しぶりに休める日曜日、目覚ましを気にせず布団へ潜り込み、ようやく眠れると思っていた。
ところが昼過ぎ、上司から電話がかかってくる。
「悪い、ちょっと来れるか」
「今日ですか?」
「うん」
「分かりました」
電話を切って着替えを済ませ、研究ラボへ向かう。
途中のコンビニに立ち寄り、昼食を選びながら、何気なく店内のテレビへ目を向けた。
『昨夜発生した研究施設襲撃事件について、テロ組織アウトサイダーによる犯行声明が確認されました』
『インサイダー協会は現在も警戒を強めています』
「物騒だな」
レジに並んでいた男性が小さく呟き、俺ももう一度だけ画面へ目をやる。
(最近、よくニュースになるな)
それ以上気にすることもなく、弁当と缶コーヒーを買って、そのまま休日の研究ラボへ向かった。
そんな日が何度も続き、例外のはずの休日出勤が当たり前になっていく。
「休みだから断る」という空気はなく、やがて誰も「完全週休二日」なんて言葉を口にしなくなっていた。
それでも、不思議と仕事は嫌いじゃなかった。
研究は面白く、規模も大きい。関わる企業は増え続け、新しい案件や課題が毎週のように積み重なっていく。
ただ、人も予算も、何より時間が足りず、現場は限界を迎えていた。
ある日、どうしても解決できない問題にぶつかった。
解析結果が噛み合わず、何度計算しても答えが違う。
俺は資料を持って上司の席へ向かい、声をかけた。
「少し相談が……」
「人に聞くな」
言い終える前に遮られ、俺は口をつぐむ。
上司は椅子に深く座ったまま、資料を指で軽く叩いた。
「考えろ。答えは現場にある」
声は静かで、迷いは少しも感じられない。上司は資料から目を離さず、そのまま続ける。
「逃げるな。どうしてもの時は、俺が出る」
その一言だけで十分だった。
俺は資料を抱え直して答える。
「……分かりました」
席へ戻ると、もう一度資料を見直し、コードを書き直し、仕様を読み返す。
そうして翌朝、ようやく答えが見つかった。
「できました」
資料を見た上司は、小さく頷く。
「そうだ。それでいい」
褒められたわけでもないのに、たったそれだけの言葉が妙に嬉しかった。
(この人についていこう)
その頃の俺は、本気でそう思っていた。
◇
大きな研究がひと区切りついた夜は、ラボの空気も珍しく、少しだけ軽かった。
「今日は終わりだ。飯に行くぞ」
上司の言葉に、研究員たちから小さな歓声が上がる。
仕事以外で全員が集まるのは久しぶりで、研究室を出てからも、他愛もない話を交わしながら歩いていく。
夜風が火照った頬を撫で、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。
案内されたのは、学生でも入れるような、ごく普通の大衆食堂だった。
席に着くと、次々と料理が運ばれてくる。
……止まらない。
一皿置かれたそばから次の料理が並び、テーブルの上はあっという間に皿で埋まっていった。
「今日は根性つけるぞ。全部食え」
上司は笑って言った。
誰も断らない。
断れないのが、このラボでは当たり前になっていた。
「いただきます」
正直、料理は美味しく、最初は俺もみんなと笑いながら箸を進めていた。
でも――
三十分、一時間と過ぎ、二時間経っても食事は終わらない。
「ほら、まだあるぞ」
新しい皿が運ばれてきても、もう誰も笑わない。
会話も減って食べる音だけが続く中、向かいに座っていた一人の手が止まった。
箸を持ったまま動かず、顔色は悪く、汗の量も明らかにおかしい。
「大丈夫か?」
返事はなく、焦点の合わない目だけが宙を見ている。
次の瞬間、その身体がぐらりと傾いた。
「お、おい!」
椅子が倒れ、食器が床へ散らばる。
駆け寄った同僚が肩を支えたが、その身体は力なく崩れ落ちた。
白目をむき、口元だけがかすかに震えている。
「救急車! 早く!」
誰かが携帯電話を取り出し、震える指で番号を押した。
店員も慌てて駆け寄り、店内の空気が一気に張り詰める。
「呼吸あるか!?」
「ある……でも反応がない!」
俺は、その人の顔から目を離せなかった。
(……まずい)
冗談では済まない。命の危険があることは、その場にいた全員が悟っていた。
遠くからサイレンの音が近づき、赤色灯が店の窓を染めると、救急隊員たちが慌ただしく駆け込んできた。
「傷病者はこちらです!」
声が飛び交う中、倒れたその人は担架へ乗せられて運び出され、俺たちは道を開けることしかできなかった。
救急車が出発すると、店内には重たい沈黙だけが残った。
「……さあ、帰るか」
上司が短く言い、俺たちは誰も返事をしないまま店を出た。
店先で上司が振り返る。
「一人五千円な」
会社の行事だから会社が払うものだと思っていたが、言われるまま財布を取り出す。
誰も何も言わず、一人ずつ現金を上司へ手渡していく。
俺も黙って五千円を渡した。
全員から集金を終えると、上司は皆を見回した。
「命に別状がある」
誰も言葉を返さなかった。
(……そりゃ、命に関わるよな。あれだけ無理やり食べさせられれば)
「……次からはやめよう」
それだけだった。
◇
仕事も研究も何も変わらず続いていくのに、俺の中では一つだけ、何かが変わっていた。
(ここは……もう、安全な場所じゃない)
そんな思いが胸の奥に残ったまま、しばらく経ったある日の昼、全員が研究室へ集められた。
「来月、社員旅行やるぞ」
上司がそう言うと、何人かが声を上げた。
「おぉ!」
久しぶりの明るい話題だった。
研究ばかりの毎日だけに、たまには気分転換も悪くないと思っていると、一人が手を挙げる。
「平日ですよね?」
上司は頷く。
「ああ」
「仕事は……?」
「もちろんある」
上司は少し笑って続ける。
「でも大丈夫だ」
その一言に、部屋の空気が少し緩む。
「旅行は休日を前借りしたことにする」
一瞬、意味が飲み込めなかった。
「仕事だけど、出勤じゃない」
(便利な理屈だ)
誰かが小さく頷き、上司はそのまま話を続けた。
「だから休日は減る。でも問題ない」
部屋は静かなままで、質問も反対も出ない。俺も口を開かず、頭の中で話を整理する。
(……そういう考え方なのか)
業務扱いではあっても、休日を前借りしたことになるから、その分だけ休みは減るという。
理屈は分かっても、納得はできなかった。
ただ、このラボでいう「休日」「任意」「業務」は、外とは少し意味が違っていた。
◇
旅行は予定どおり行われ、笑い声の上がる中、酒を飲みながら仕事の話に花を咲かせる人もいた。
楽しかった。
心のどこかには小さな違和感が残っていたが、それでも、ここを離れようとは思わなかった。
仕事は回り、研究も前へ進んでいるし、上司もいる。
ここまで積み上げてきたものを、そう簡単に捨てることなんて考えられず、俺はまた次の日も研究室へ向かった。
◇
しばらくして海外から参加したのは、業界でも名の知られた優秀な研究者だった。
技術力が高い上に仕事も速く、議論も鋭い。
「すごい人が来たな」
誰もがそう思った。
日本語こそ流暢ではなかったが、仕事に支障はなく、むしろこちらが教えられることの方が多かった。
◇
数日後の朝、その人は出社してこなかった。
「寝坊ですかね」
「体調でも崩したかな」
そんな話をしながら仕事を始めたが、昼休みになると、誰かがスマートフォンを見て吹き出した。
「見てくださいよ」
画面を覗くと、その人のSNSに、真っ青な空の下で砂浜に寝転んでいる写真が一枚載っていた。
添えられていた言葉は、たった一行。
《I'm OFF.》
その人は翌日も、その翌日も姿を見せず、そのまま退職した。
(たぶん、この人が一番正常だった)
研究員たちは苦笑を浮かべながら、口々に言う。
「海外の人は決断早いな」
「すげぇ終わり方」
「日本人じゃなかなかできないよ」
軽い冗談のように誰かが笑う中、上司だけは笑わず、スマートフォンの画面を見つめていた。
表情を少しも変えず、何も言わないまま端末を伏せる。
その沈黙だけが、なぜかずっと頭に残った。
季節が変わって四月になると、研究ラボにも新卒社員が入ってきた。
真面目でよく働く子で、分からないことがあれば素直に聞き、遅くまで残って仕事をしていた。
ところが数か月後、ある日を境に、その子は突然姿を見せなくなった。
退職の挨拶も送別会もなく、それきりだった。
「どうしたんですか?」
誰かが尋ねると、小さな声で返事があった。
「……労基に行ったらしい」
それ以上、誰も話さなかった。
その数日後、協力機関が研究ラボの監査に入った。
形式上は業務確認とされていたが、誰が見ても、それだけが目的とは思えなかった。
勤務時間や給与、勤怠に関する書類が一つずつ確認されるにつれ、研究員たちの間にも落ち着かない空気が広がっていく。
そんな中でも、上司だけは普段と変わらない。
「気にするな」
笑ってそう言い、短く付け加えた。
「形式的なやつだ」
説明は、それだけで終わった。
月末、振り込まれた給与を画面で確認した瞬間、思わず手が止まった。
「……多い」
見間違いではない。
その日の夕方、上司から声がかかった。
「全員、ちょっと集まってくれ」
研究員たちが会議スペースへ集まると、上司は困ったように笑いながら机の上へ給与明細を置いた。
「悪い! 間違って、多く振り込んだ」
部屋がざわつく中、上司は続ける。
「だから返してくれ」
誰かが手を挙げて尋ねた。
「銀行振込でですか?」
「いや」
首を振った上司は、少しだけ間を置いて続けた。
「後日、一人ずつ回収する。記録が残ると困る」
部屋が静まり返った。
◇
数日後、俺の番が回ってきた。
応接スペースへ入ると、机の上には封筒が置かれている。
財布から現金を取り出して封筒へ入れ、上司へ差し出すと、何も言わずにそれを静かに引き寄せた。
部屋を出た俺は、蛍光灯だけが静かに光る、人気のない廊下を歩いていた。
(違う)
頭の中で何かが小さく噛み合い、その瞬間、ようやく理解した。
(これは修正じゃない。隠蔽だ)
それから、勤務記録も残業時間も、数字だけはきれいになっていった。
ある日、上司が研究室へ入ってきて、全員に声をかける。
「みんな、ちょっと集まってくれ」
俺たちが席を立つと、上司は何事もないように一枚の紙を机へ置き、指先で軽く叩いた。
「今日からタイムカードは統一する」
「出勤は朝十時。退勤は十八時」
「これで押してくれ」
誰も口を開かないまま部屋が静まり、上司は続けた。
「協力してくれ。その方が都合がいい」
それ以上の説明はなく、俺はタイムカードへ目を落とす。
(仕事も、ずいぶん短くなった)
実際の出勤時間とも退勤時間ともまるで違っていたが、誰も異を唱えず、俺も何も言えないままでいた。
次の日から、タイムカードには毎日「朝十時」と「夕方六時」が並び、それがいつもの風景になっていった。
その頃になると、上司は研究室へあまり姿を見せなくなっていた。
「海外へ行ってるらしい」
そんな話を、どこかで聞いた気がする。
仕事ではなく、家族旅行だったとも聞いたが、俺はそれ以上聞こうとは思わなかった。
◇
少なくとも成果だけを見れば、研究は順調に進んでいた。
評価は上がり、協力企業も増え、扱う案件も大きくなっていく。
気づけば自分の名前を知る人まで増え、「佐藤主任」と呼ばれることにも、いつの間にか慣れていた。
完成した研究成果が別の部署へ渡されても、最初は気にも留めなかった。共同研究なら、珍しいことではない。
ところが数日後、同じ資料が違う目的で使われていることを知る。
「……これ、うちの成果ですよね?」
担当者は「ああ」と頷いた。
「用途が違いませんか?」
「上からの指示だから」
返ってきた説明はそれだけで、俺もそれ以上は聞かなかった。
聞いても意味はないと、そう自分に言い聞かせた。
それからというもの、仕事は会社の中だけでは終わらなくなった。
休日も夜も、食事中でさえ携帯が鳴り、メールが届く。
「悪い。ちょっと来て」
「今日、空いてる?」
仕事と私生活の境界は、そうして少しずつ曖昧になっていった。
それでも、ここまで積み上げてきたものを途中で投げ出したくなくて、俺はそのたびに応じていた。
◇
ある休日、また上司から電話がかかってきた。
「今日、来られるか」
予定表を見ると、今日はどうしても外せない用事が入っていた。
初めて断ることを考えているうちに、電話の向こうで短い沈黙が流れる。
「……すみません。今日は、行けません」
今まで聞いたことのない沈黙が続き、やがて低い声が返ってくる。
「そうか」
それだけだった。
◇
翌日、研究室の空気は変わっていた。
言葉も視線も少なく、俺も何も話さずに過ごすうちに、ふと気づいた。
昔なら、こんな時、あの人は必ず言っていた。
「どうしてもの時は俺が出る」
その言葉が、もうどこにもなかった。
その後も空気は変わらないまま、仕事は続き、必要なやり取りもしていた。
変わっていったのは、俺の居場所だけだった。
ある日、上司に呼ばれる。
「……このまま続けるのは、お互い難しいと思う」
はっきり「辞めろ」とは言われなかったが、実質的な最後通告なのだと分かった。
俺は研究ラボを辞めた。
特別な送別会も花束もなく、最後の日もいつもと変わらない。
机を片付けて私物を箱へ詰め、最後に研究室を一度だけ見渡した。
長くて苦しい日々だったが、それでも後悔はなかった。
「お世話になりました」
それだけ言って扉を閉める。
振り返らなかった。
◇
新しい職場で働き始めてしばらく経っても、ラボのメンバーで作ったグループチャットは、そのまま残っていた。
名前は「抜け忍部屋」で、誰が付けたのかはもう覚えていない。
メンバーのほとんどは退職していたが、一人だけ今もラボに残っていて、ときどき今の様子を知らせてくれる。
とはいえ、やり取りの大半は、転職や結婚、子どもが生まれた話といった他愛もない近況報告だった。
ある日、ラボに残っている田中が書き込んだ。
【田中】:まだ続いてるよ
【佐藤】:そうなんだ
【田中】:最近、かなり大きな計画へ合流したらしい
【佐藤】:へぇ。うまくいってるんだな
少しして、また通知が鳴る。
【田中】:なんか、月とか、観測とかそんな名前が付いてる計画らしい
【田中】:それに、お前らが作ってた『細胞融合システム《セレーネ》』も、そのまま使われてるって聞いた
『細胞融合システム《セレーネ》』。
何度も仕様を書き直し、夜明けまで議論を重ねて作り上げたシステムの名前を見て、俺は少しだけ笑った。
【佐藤】:相変わらず、研究者は名前を付けるのが好きだな
そう打ち込むと、田中からまた返信が届いた。
【田中】:そういや、お前が辞めたあと、契約を切られそうになったことが一回あったんだ
【佐藤】:え? マジ?
思わず画面を見返す。
【田中】:その時、お前が外で会社の悪い噂を流したって話になってた
しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
そんなことは、一度もしていない。
【佐藤】:……そうだったんだ
話題はそこで終わり、俺もそれ以上は聞かなかった。
興味はあっても、もう俺の仕事ではない。
昔、一緒に取り組んだ研究も、設計したシステムも、書き続けたプログラムも、今もどこかで動き続けている。
それでいいと思えた。
チャットを閉じて新しい仕事へ戻り、ふと窓の外を見る。
滅亡時計は、あの日と何も変わらず、今日も静かに空へ浮かんでいた。
もし今、あの人に会ったら。
俺はやっぱり、最初に「ありがとうございました」と言うと思う。
あのとき任されたのは、本来の俺の実力では決して触れることのできない研究だった。
逃げ出したいと思った日は、一度や二度じゃない。
結局、あそこは地獄だった。
誰だって、自分から地獄へ飛び込もうとは思わないし、俺もそうだった。
でも、あの地獄を経験したからこそ、今の俺がいる。
だから今も、感謝しかない。




